06.めまぐるしい日々
「別の家庭教師を呼ぼうか」
救急箱の中身を片付け終えたギデオンが、ぽつりとそう言った。
「まさか、こんなになるまで君を歩かせるとは。ニコルズ夫人が厳しいことは知っていたが、これほどとは思ってもいなかった」
彼は少なからず、エリーゼの足が傷ついた原因が自分にもあると思っているようだった。大げさなほど沈痛な面持ちからは、ニコルズ夫人を家庭教師として呼んだことに対する自責の念が窺える。
「そんな、靴擦れくらいで大げさです」
「大げさなものか! 御身は大切な――」
「……またそれですか?」
ちょっとむっとして、声が自然と低くなる。
ギデオンが血相変えて手当てをしてくれたことを、エリーゼは嬉しく思っていた。人から心配されるのは誰だって、大切にされている気がして嬉しいものだろう。
それなのに、彼が心配していたのは『エリーゼ』ではなくあくまで『ハリエット王女の御身』なのだ。
そのことに、自分でも驚くほど落胆してしまった。
「わたしはてっきり、わたしのことを心配して手当てしてくださったのかと思っていました。だけどギデオンさまは、国王陛下のお叱りが怖くて心配してただけなんですね」
「う……っ。いや、すまない。そういうつもりはなかったんだ」
そこでようやく己の失言を悟ったのか、ギデオンが気まずげに目を泳がせた。
そういうつもりがなかった、というのが本当かどうかはわからないが、こちらの意見は理解してもらえたらしい。エリーゼは少しだけ溜飲を下げる。
「いいですか、ギデオンさま。夫人は、最初の挨拶の時に言ってくれたんです。どこの誰であろうと、自分の生徒になったからには最善を尽くして指導するって……」
王族だろうと平民だろうと、特別扱いも容赦もしない。
生徒が努力する限り、それに一生懸命応える。それが教師の務めだ――と。
「わたしはそれが、とても嬉しかったんです。この方なら信頼できる、この方の指導なら頑張れるって。だから、靴擦れくらいで解任するなんて仰らないでください」
それでもどうしても無理な時は、自分の口でレッスンの中断を訴えるべきだ。ギデオンの力や、王女の威光を笠に着るような真似をせず。
そうでなければ、教師として正しい姿勢を貫いてくれるニコルズ夫人に、申し訳が立たない。
「そうだな。君の言う通りだ」
ややあって、ギデオンの静かな声が耳を打った。彼の顔には、己の浅慮を恥じるような、悔いるような自嘲の笑みが浮かんでいる。
「君の意見も聞かず、浅はかなことを言った。許してくれ」
「いえ、わたしも言い過ぎました。国王の命を受けたあなたが、〝王女〟の身を心配するのは当然のことですもの」
冷静になって考えれば、当たり前の話だ。
エリーゼの頼みを聞いて普通に接してくれることを約束してくれたとはいえ、それはあくまで表面上の話。彼にとってエリーゼが、守るべき主君の娘であることに変わりはないのだから。
「言っておくが、私は別に、君が王女だから心配したわけではない。もちろん、王族の体に傷をつけてはいけないと思ったのも事実だが――」
「別に、いいんですよ。ギデオンさまの立場はわかってますから」
今更言い訳をしなくたって、別にもうエリーゼは腹を立ててなどいない。
ただ、寂しかっただけだ。家族と別れ、見知らぬ王都に来て、唯一心許せる相手だったギデオンに突き放されたような気がして。
だから、子供のような八つ当たりをしてしまった。
「そうではなくて……! 君は、嫁入り前だろう」
「嫁入り前」
思いがけぬ一言を、つい繰り返す。
一体ギデオンは、いきなりなんの話を始めたのだろうか。
「保護者として、嫁入り前の女性に怪我をさせるわけにはいかない」
大真面目な顔で言われて、思わずぷっと吹き出した。
嫁入り前だとか保護者だとか、若いくせにずいぶん大仰で昔気質な言い方をする彼がおかしかったのだ。
「残念ながら、あなたもごらんになったとおり、婚約破棄したばかりですからそんな予定は当分ありません」
笑い混じりに「相手もいませんし」と付け加えたエリーゼに、ギデオンはそうか、と短く返事をする。
その表情はなぜか、少し堅くて気まずそうで――エリーゼがその理由を知るのは、それから少し後のことになる。
◆◆◆
ノースフォード公爵邸で一週間ほど世話になったころ、ギデオンが仕立屋や商人を屋敷に呼ぶと言った。
ほぼ身一つでペトルヴェイルにやってきたエリーゼには、身の回り品が圧倒的に足りていないから、とのことだ。
「ずっと母のお下がりというわけにもいかないからな。流行の仕立屋に、ドレスをいくつか仕立ててもらおうと思う」
ドレスには流行り廃りがある。シャノン夫人のドレスはどれも美しいが、今の流行からは若干外れているようだ。
すぐにギデオンの呼んだ仕立屋や商人が屋敷にやってくる。エリーゼの部屋はたちまち、色とりどりの布地やキラキラしたアクセサリー、精巧なデザインの宝石箱や最先端の化粧品であふれかえった。
「こちらは春のほんの短い期間しか咲かぬ珍しい花を煮出して染めた、希少なタフタでございます」
「お嬢さまは色が白くていらっしゃるので、こちらのライラック色やチェリーピンクはいかがでしょう」
「タフタもよろしいですが、こちらの北国の流氷から想起して作られた、ジャガードなども夜会には最適かと……」
生地商人やデザイナー、お針子に囲まれ、次から次へと首の下に布を当てられる。
庶民は町へ買い物に出るけれど、お金持ちは家に店がやってくるというのは本当だったのだ。
名ばかり貴族のエリーゼは、あっという間に商店の一室のようになった自室に、目をチカチカさせることしかできない。
さすがにギデオンはこういう状況にも慣れている。されるがままのエリーゼが視線で助けを求めると、代わりに商人たちに指示を出してくれる。
「そのチェリーピンクと、そちらのラベンダーモーブのタフタ。それからオールドローズのサテンと、パウダーブルーのシフォンを。ジャガードはそのマリンブルーがいいな。刺繍が豪奢で威厳がある」
まるで呪文のようだ。
これまでエリーゼにとって、青はどれも青だし、紫はどれも紫だった。しかし色にはそれぞれ、正式な名前があったのだと初めて知る。
「それぞれ合う外套も仕立ててもらおうか。後でデザイン画を見せてもらって、デザインを詰めよう。それから、似合うアクセサリーを仕立ててもらおう」
ほとんど既製品や古着で過ごしていたエリーゼにとって、一からすべてを仕立てるというのは未知の経験である。
承諾を求めるような視線をよこされ、こくこくと頷くことしかできなかった。