13.家族の幸せ
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「お母さま、お父さま、おはよう。朝のお薬よ」
エリーゼはチェルシーと共に、母の部屋へ足を踏み入れた。
寝台の上で母が上半身だけを起こし、その側に父が寄り添っている。仲睦まじい夫婦の光景に見えるが、母だけがまだ寝間着姿であることに、ちくりと胸の奥が痛む。
「おはよう、娘たち」
「おはよう。ふたりとも、お薬ありがとうね」
(よかった。今日は昨日よりずっと気分がよさそう)
母の顔色を一目見て、エリーゼはほっと胸を撫で下ろした。
彼女は心臓に病を抱えている。日常生活を送れないほどではないが、このところ気温が少し低くなってきているせいで、寝込む日が増えていたのだった。
「今日のお薬はチェルシーが調合したの」
「お姉さまに教わりながら作ったから、安心してね」
チェルシーの手には木盆が携えられており、その上には青い液体の入った小瓶が乗っている。
異国でしか採取できない『ネロリア草』という薬草を使って作った、特製の水薬だ。
エリーゼは父から、そしてチェルシーはエリーゼから作り方を習い、母のために毎日調合しているというわけである。
「まあ、チェルシーったら。手が真っ黒」
チェルシーから水薬の入ったコップを受け取るなり、母が目を丸くした。
彼女の指先から掌にかけて、黒いインクを拭き取った後のように黒く染まっていたのだ。
「ちょっと、薬液を零しちゃって……」
手を背中の後ろに隠しながら、チェルシーは罰が悪そうにぺろりと舌を出して見せる。
ネロリア草は煮出して薄めるとそれは綺麗な青い液体になるのだが、原液が手につくとこのように黒く染まってしまい、最低でも一週間は消えてくれないのだ。
「わたしも早く、お姉さまみたいに上手にお薬を作れるようになれるといいんだけど」
よそへ嫁いでしまうエリーゼに代わって、チェルシーが薬作りの練習をし始めたのは一年前だった。
彼女はエルドラン男爵家の実の娘である。婿を取り、家を継ぐのは彼女がふさわしい。
結局度重なる婚約破棄によってエリーゼは今もなお実家に居続けているわけだが、母の薬を作れる人間はいくらいても困ることはない。
「大丈夫だよ、チェルシー。エリーゼも小さな頃は、よく手を黒くしていたからね。それどころか、顔にまで飛び散らせて」
「お父さまったら、昔の話はしない約束でしょ?」
冗談めかして睨み付けると、父もまた「おお怖い」と大げさに肩を竦めてみせた。
それを見ていたチェルシーと母が、くすくすと声を上げて笑う。
家族で過ごすこの優しい時間が、エリーゼは何よりも大好きだった。
「ところでお父さま、薬草のことで質問があるの。ちょっといいかしら」
「ああ、もちろんだよ」
部屋の外へ出るよう促すと父は心得たように頷き、エリーゼの後について部屋を出る。
廊下を歩き、母の部屋まで声が届かぬ場所までやってきたのを見計らい、エリーゼは小さく口を開いた。
「――昨日商人と話したんだけど、次からまたネロリア草が値上げされるんですって」
「……そうか」
父は一瞬息を詰めた後、重いため息を吐き出す。
心臓の病に覿面の効果があるネロリア草だが、市場に流通している数が非常に少ないため、元々単価が非常に高い。
その上数年前から、なぜか単価以上の金額を出してまで大量に買い占める人物が現れ、更に価格が上昇していく一方である。
これまでは先祖代々受け継いだ家宝や土地などを切り売りしてなんとか薬代に充ててきたが、今以上に値上がりするとなると相当厳しいというのが正直なところだ。
とはいえ母の命を長らえさせている薬草を、金がないからと簡単に諦めるわけにもいかない。
「大伯母さまにお願いして、ドレスを貸していただけないかしら。今まで以上にたくさん夜会に参加して、いい結婚相手を見つけないと……」
「エリーゼ、私もお母さまも、お前には幸せな結婚をしてほしいと思っているんだ。お前は頑なにそうではないと言い張るが、身売りをするような真似をしてほしいわけではないんだよ」
チェルシーが気付くくらいだ。
父もまた、娘がどういった理由でこれまでの婚約者たちを選んできたのか、見抜いているのだろう。
「――お父さまとお母さまがいつまでもお元気でいてくれることが、わたしにとっての幸せだもの。身売りなんて思ってないわ」
顔を曇らせる父へ向かって、明るい笑みを返す。
嘘ではない。エリーゼにとって一番大切なのは家族で、自分のことなど二の次でいいのだ。
家族を幸せにするためなら、相手がどんなに年上だろうと傲慢な男であろうと、金持ちである限り我慢できる。
「とにかく、お父さまは何も心配しないで。大丈夫、まだしばらくネロリア草の予備はあるし、わたしもメイドのお仕事頑張るから!」
「だが……」
「さあ、急がないと遅刻しちゃう。それじゃ、わたしは仕事の準備をするから、お父さまはお母さまのところに戻ってあげて」
父の言葉を遮るように声を上げると、エリーゼは二階にある自室へ向かった。
「――私たちの願いは、お前自身が幸せになってくれることなんだよ。エリーゼ……」
そんな、父の呟きを聞くことなく。