地下迷宮6
この場所に落ちてきた際に硬めのクッションになった床ガラス。
それがあっただろう十メートル四方の床部分に、泡壁が広がっていた。
鉄棒に沿って広がる泡壁は、成長図のように下から上になるほど立体的に広がっている。
最後に抜けた床ガラスのあっただろう鉄棒でさえ、そこに張り付いた泡壁の大きさは人間よりも大きくなっていた。
台風で鉄塔が揺れるような巨大なものが軋む音がしたのを聞いて、どちらがより危険なのかと本能が叫ぶ。
円柱から離れて背負い鞄を掴むのは、男に対して全身を晒すという暴挙だ。
だからこそそんな行動が予想外だったのだろう。
わざわざ置いた荷物をすぐに拾うということも思慮の外だったに違いない。
「キミは本当に不合理だね」
そう揶揄する声は幻聴なのか記憶の再現なのか。
そんなことに割ける意識は直後に響いた轟音で吹き飛んだ。
おそらくは銃声も鳴ったのだろうが、身体を貫いたのは弾丸ではなく衝撃音だった。
張り付いた泡壁の重さに耐えかねた鉄棒が円柱から外れて、下に広がっていた別の泡壁にぶつかる。
それが連鎖的に続いて円柱を削り、弾かれた泡壁が岩塊のように跳ねて壁ガラスを叩きわる。
更に落下を続ける泡壁の塊は欠片を撒き散らし、削られ歪んだ円柱が巻き込まれるように折れ曲っていく。
全体を上から見ればアリ地獄に呑まれていくように見えただろう。
だが下にいる我が身としては高層ビルの倒壊と変わらない。
なまじ頑丈で簡単に剥がれないように取り付けられているガラスは、壁も床も振動と衝撃を余すことなく伝えて他の鉄棒や円柱までをも震わせる。
泡壁同士がぶつかる衝撃音や、円柱が折れて落下する破壊音が全身を震わせていく中で、それでも扉の方へと走った。
足元の床ガラスが傾いているのを感じ、前にある歪んだ壁ガラスを迂回するために向きを変える。
それが幸いしたのだろう、その壁ガラスを銃弾が貫く。
この状況でまだ狙撃してきた男を振り返れば、さすがに狙いにくかったのか膝立ちで構えていた。再び放たれた弾丸が腕をかすめて、焼かれたように裂かれる痛みに恐怖が吹き出る。
なんで【地下迷宮】なんて場所に自ら来てしまったのかと嘆き、必死で扉を目指して逃げることしかできない。
追い詰められた精神が少しでもストレスを緩和させようと、この様子を観察しているのかという被害妄想が沸いてくる。
「くそったれ! テメェ首洗って待ってろ!?」
無感情にこちらを眺める顔が思い浮かび、恐怖を押し除けて悪態が溢れ出た。
悪態をついて状況が改善することはほとんどない。
扉がある壁の一つ上。その壁にたどり着いて、床ガラスが傾きながら壁から剥がれていくのを感じる。
一つ離れた場所にいる男は狙撃を諦めたのか、開いた扉へと向かい傾いた床ガラスを駆け上がろうとしていた。
泡壁が落下した方向へ全体が飲み込まれていくような状況。どうにか床ガラスの下へと抜け降りようとして、壁との隙間を広げるようにしながら背負い鞄をねじ込んでいると、壁にある扉が開くのが見えた。
扉に隠れるようにして出てきた細い左腕。それが放り投げたペットボトルが中身を撒きながら転がっていく。
傾いている床ガラスを伝ってくるそれに警戒したのか、そこを目指していた男の足が止まる。
銃口を向けられると予測していたらしく細い腕は扉の影に隠れ、押し込んでいた背負い鞄が床ガラスと壁の隙間を抜けた。
落下するよりも早く即座に弾丸が撃ち込まれて、一瞬背負い鞄が跳ねる。先に背負い鞄を落としてよかったと思えたのは一瞬で、銃口がこちらに向いた。
背負い鞄に続こうとしていた身体は壁と床ガラスの間にねじ込んでおり、だがスムーズには抜けられない。
それなのに身体を弾丸が突き抜けなかったのは、再び扉から腕が伸びたためだろう。
逆さまの視界で、健康ドリンクの小瓶が男を目掛けて放物線を描く。
その瓶に赤いものが揺れていることに気づきつつ、背負い鞄の上に落下した。押し入れに詰めてあった背負い鞄のすえた臭いよりも刺激臭が鼻をつき、慌てて起き上がる。
男も扉の向こうの人物の意図を理解したのだろう。
だが一瞬迷ったのか銃口が揺れた。こちらか扉の向こうのどちらを狙撃して狩りの充足を得るか。それとも諦めて逃げ出すか。
そうして選んだのは、どちらも狩るための選択。小瓶が落下する前に受け止めることだった。
ペットボトルから撒かれたガソリンと、宙を舞う小型の火炎瓶。
それが意味することは明らかだ。男がキャッチに成功してもしなくても、こちらが危険な状況にいることは変わらない。
背負い鞄を掴んで扉の向こうへと飛び込むのを、細い腕は邪魔しなかった。代わりに奥へと背中を押され、背中でカチンという金属音が鳴る。
それは若い頃に洒落っ気で使っていたことがある、防風ライターの着火音。
振り返ってもそれを確かめる間ことはできず、細い腕が扉を閉じる。
悲鳴が一瞬だけ聞こえたが、全てが崩れ落ちていくような大きな音で聞こえなくなった。




