【誘引】7回目7
タバコを咥えた顔面と力の抜けきった腹を踏みつけて、足を取られた壁は転んだらしい。
石壁にぶつかった鈍い音がしたのは聞こえていたが、口の中に押し込まれて崩れたタバコと腹の痛みに再びむせ返り、それどころではなかった。
何度も唾を吐いてタバコの残骸を吐ききって、痛む腹をさすりながら鈍い音がした方に目を向けても、壁はそこに転がっていた。
量産されているような黒のスーツに包まれているのは、石壁ではなく肉でできた壁。スカートは倒れた拍子に少しあられもないことになっていたが、最奥が見えない程度には長い。よくこのスカートであれだけ走り回れたものだと感心する。
セミボブの前髪に隠れるような眼鏡は石壁にぶつかった衝撃のせいかヒビが入っていた。その下にある目は白目を向いて、口はだらしなく半開きのまま。鼻が少し赤くなっているように見えるので顔面から石壁にぶつかったのかもしれない。
職場の喫煙所でよく後輩に視線を送っていた女性社員だ。先日一緒に【誘引】された中野の姉でもあるらしい。
「……生きてはいるみたいだな」
どうやら幻覚ではなく実在していたらしいと思いながら、目覚めた拍子に走り出しかねないと考えて、行き止まりの壁へと引きずっていく。多少ジャケットやスカートが依れたかもしれないが、些細なことだろう。
分岐路を背にすれば行き止まりに中野姉を追い込んだ状況になるが、また追いかけ回すのも踏みつけられるのも遠慮したい。
なまじ見知った相手でもあるため、放っておいて出口を探すのも気が引けた。
踏まれた腹と顔面の痛みに顔をしかめ、それをした当人が目覚めるのを待つ。
しかし気を失った女性をただ待ち続けるのは、どこか犯罪めいたものに思えてくる。誤魔化しに取り出したタバコを眺めてしまった。殺されるのも殺すのも心中も人生には必要ない。
代わりに携帯を取り出してみたものの、むしろ犯罪臭が増した気がする。ましてやネットに繋がらない携帯でできることは少ない。
「全く、くそったれめ」
結局、背を向けて座り込んでぼんやりとするくらいしかできなかった。