金曜日、大学内5
少し湿った土の上に寝転んで曇った空を見上げていることに気づき、痛む身体を堪えて起き上がる。
どうやら本当に自由に行き来できるらしい。
先程まで老人と座っていたベンチに一人で座り、タバコを取り出そうとしてキャンパス内は禁煙だろうかと考える。少なくともベンチ周辺には灰皿はない。
タバコを片手にぼんやりと学生たちが講堂を行き来するのを眺める。二十歳前後の学生たちに教鞭をとりながら、それと大差ない女性に凶行を繰り返した老人の行動は理解できない。
肉体の復旧だけで凶行に至るわけでもないだろうが、人体実験の被験者というのは老人だけの括りではない。
全く運動をしていなかった身体で全力疾走したことや、結果的には泡壁から逃げ切れた事実に、自覚がないうちに自分が変えられている可能性を考える。
「……健康になるのが悪い、とは言えないんだろうがなぁ」
まだまだ不健康とは縁遠そうな学生たちがはしゃいで走っていくのを眺めつつ、あんな風にはしゃぎまわることはなくなったなと顧みる。
健康志向など縁のない、仕事とタバコが最も身近な生活を続けた身体にとっては、無意識のうちに不健康な行動をとることさえ自然なことだ。
灰皿がないから控えようと思っていたはずのタバコにはいつのまにか火がついて、吐き出した煙を眺めている。
なんとなく湿気ったような味に思えて、その不味さに顔をしかめた。手持ち無沙汰で取り出した携帯も、同僚からの怒りのこもったメールに見る気が失せた。
結果的に老人から【地下迷宮】への移動手段を奪ったことになる。今後は鈴木が向こうで老人に襲われることはなくなるだろうが、恩に着せるつもりもないし、わざわざ知らせるつもりもない。単に見知った人間が殺されている事実が気に食わないという自己満足だ。
手に入れた板を眺めつつ、他にも出回っているなら犯罪に利用する奴もいるだろうと確信を持つ。【地下迷宮】の売店や券売機などには現金もあるし、地下街ならブランドショップもある。
現実で犯罪を起こして【地下迷宮】に逃げる事だってできるだろう。
そういう意図で入り込む人間に出会えば、また凶行の被害者になる可能性もある。それは自分にも言えることで、移動手段が手に入ったとは言え安易に使う気にはなれなかった。
煙よりも濃い灰色の空は雨が降りそうで、何も解決していないように思えて頭が痛くなる。
脱力した手足を無造作に伸ばしてベンチにもたれて、煙を吹き出しても雲は晴れない。
「キャンパス内は禁煙ですよ?」
頭を起こすと言い捨てて逃げていく学生の姿が見えた。
不味いタバコさえ落ち着いて吸うこともできない愛煙家には辛い現実に、少しだけ【地下迷宮】にいく理由が見つかった気がした。