木曜日、自宅
無事に現実に帰れるというのに何故かキレ気味の鈴木と共に、非常口のようなドアを押し開けた。
乗り換え時に【誘引】された場合は、現実に帰るとホームのベンチに座っている。今回は初めて会社から出た時点で【誘引】されたとは言え、さほど大きな変化はないだろうと思っていた。
会社の周辺だと思って見渡した場所には、オフィスビルのような高層ビルは少ない。古びた雑居ビルと十年ほど前に建てられたマンション程度しか見上げるものがない、朽ち果てた家がまばらに混ざった田舎町のような風景。
これでも都心まで直通電車がある町だ。
そんな町に埋もれた古い一軒家の前で、俺はボケた頭で突っ立っていた。
「なんで家に出るんだ……?」
携帯を見れば退社時間の少し前。ママチャリで買い物に向かう近所のおばさんを目で追いながら、自分一人しかいないことを確かめる。
中野と二人で【誘引】された時も戻った時は近くにはいなかった気がする。それは【地下迷宮誘引現象】の基本的な仕様なのかもしれない。
伸び放題になった柿の木と松の木。色あせてかけたブロック塀の向こうには木造二階建ての我が家がひっそりと佇んでいる。
玄関脇に放置されたままの皿には土埃が溜まり、かつて入っていた野良猫用の餌は跡形もない。
ブロック塀に挟まれた格子状の鉄扉は少しサビが浮いて、塗装も剥がれかけている。
それを抜けた先にある玄関は木製風に塗装された引き戸。自分以外に帰ってくる者が居なくなった家には当然、鍵がかかっていた。
「あら、今日はお早いのね」
それを開こうとして隣の家の押田さんに声をかけられた。振り返ると、ふくよかすぎて垂れ気味の身体を揺すりながら分厚い化粧で埋まった顔を歪める。
招いてもいないのにブロック塀を越えて足元の皿を踏みつける無神経に、嫌悪感を覚える。
「よかったら、うちで夕飯でもどうかしら」
「いや、もう済ませたんで結構です」
俺の親が近所付き合いをしていた彼女は、親が死んでから面倒を見てやっている風な態度を取るようになった。うちの土地と合わせてマンションを建てたいという欲望が明け透けな人物で、正直嫌悪感しかない。
それでも表立って何かされたという証拠もないため、気色の悪いハニートラップもどきを避け続ける日々にはうんざりする。一時は途絶えていただけに、再開されたそれが非常に鬱陶しい。
「胡散臭い女に騙されたから、不信になるのもわかるけれど、私のことは信用していいのよ?」
親しげな言葉が薄っぺらく土地が欲しいという思惑が透けて見える。そんな人間の笑みには反吐が出る。
「信用する相手は選ぶことにしているんです。勝手に他人の敷地に入らない人とかね」
そうでなくても親の葬式の最中に土地の売却を提案してきた人間なんぞ、かけらも信用するわけがない。
アレルギー持ちらしく猫もタバコも喘息を引き起こすのを知った上で、俺はタバコを咥えた。魔除けのようなものだ。
「……ご機嫌よう」
効果覿面。魔物が去っていくのを見送り、踏まれていた皿が割れていないのを確かめて家に入った。
鼻をくすぐる梨とも蓮ともつかない香りは以前よりも大分薄くなっている。その香りに釣られていた野良猫も今はもういない。香りの主も。
咥えたままのタバコに火をつけようとして、その香りがタバコの匂いで薄れることを思う。
「……なんで俺は自宅で禁煙してんだ」
そう文句をこぼしながらも、手はタバコを握り潰していた。
週末なので次の話は一時間後に投稿します。