【誘引】4回目2
目を開いた学生が見たのは変わらない【地下迷宮】の三叉路。そしてそこに腰掛けたままの俺だ。
「鈴木さんでなくて悪いが、現実ってのはどうにも残酷なものらしいぞ?」
今週に入ってから何度も【誘引】されていなければ、もう少し楽天的な言葉もかけられたかもしれない。
辛そうに顔をしかめた学生に代わって携帯やタブレットを拾ってやる。待ち受け画面にミュシャを選ぶセンスは嫌いではない。シャンパンのラベルで見た図案を思い出し、久しぶりに飲みに行こうかと口内が酒とタバコの味に染まる。
「まぁそんなに落ち込むなよ。現実に戻ったらいい店を紹介してやるよ」
「はっ!? い、いや、何言っているんだあんた!」
携帯などを渡しながら行ってやると何故か学生がうろたえ、顔を赤くした。
どうやら先程の風俗店の話だと思っているらしい。自分が学生の頃にそんな店に連れて行く大人がいたらどう思っただろうかと少し思案する。多分胡散臭く思いながら感謝して乗っただろう。
断ることも乗ることもできない学生を放置して、三叉路の先を覗いて見る。
壁や床の茶色に混ざる色が、赤と紫と緑で違う程度しか通路には差がない。どれも見える範囲では一本道に見えた。
しかし、その中で赤茶の道にだけ違いがあった。道を埋める大きさをした箱だ。外縁部をオレンジに塗装され、黒地の面に白字で何か書いてある箱がゆっくりとこちらに移動してくるのが見えた。
清掃音はないが、床清掃のバフ機械のようだった。
「こっちの道は無理か。お前さん、ここに来たのは初めてじゃないんだろう? 出口まで」
近いのはどちらかを尋ねようとして振り返り、最初よりも悪い顔色で震えているのを見つけた。
気を紛らせて混乱させた手間が無駄になったらしい。【迷宮】でそんなに恐ろしい目にあったのかと気になったが、自分も他人のことは言えなかった。
「逃げなきゃ……逃げますよ! すぐに!」
後退り緑の道へと入ろうとして、こちらに気づいたらしく呼びかけられた。
意味がわからないまま緑の道へと入り、走り出した背中を追いかける。
通路の作りが粗いのか、そういうデザインなのか、砂利混じりの石畳のように不規則な凹凸がある道。時折青竹踏みのような痛みが足裏から全身へと響くのは俺だけらしく、毎日の通勤ですり減った革靴は、全く俺の足裏を守ってくれない。
前を走る学生との距離が少しずつ開き、見えなくなった。
少し汗ばむほどに走って、ようやく立ち止まっていた学生に追いつく。
こちらを置き去りにしていないと確認して、学生は安堵の息を漏らした。学生の顔色は走ったためか悪くはなかったが、泣きそうに見える。チェシャ猫の不遜な笑みなど微塵もなく、迷子の子猫のような顔だ。
背後を気にかけるようにして歩き出した学生に続くが、走るよりも歩く方が体重が全体的にかかるせいか足裏が辛い。特に土踏まずが。壁に手をついて支えてもあまり差はなかった。
「あれはなんだ? 逃げないとヤバイのか?」
少しでも足裏の痛みを誤魔化したい。場所によって内臓とかの悪いところがわかると聞いたこともあるが、全体が痛い場合はどうすればいいのか。
「あれは……わかりません。最初の時も、前回も、あれが近くにきたら気絶しました」
振り返ることさえ怖いのだろう、震えた声が答える。
「気づいた時には身体も伸ばせないような場所に閉じ込められていて、携帯もタブレットも動かない状態で……教科書をずっと朗読し続けてないと、正気が保てなくなりそうになって。どれだけの時間、そうしていたのかもわかりません。気づいた時には現実に帰っていました」
まるで怪談を聞かされたような気分になり、後ろを振り返った。見えなくなった三叉路からはなんの音もしない。
「泡壁といいバフ機械といい、清掃機能は充実してやがるな」
未だに売店以外でトイレを見ていないことに、皮肉しか出てこなかった。




