【誘引】初回(3/3)
いつのまにか寝落ちしていたらしい。
延々と伸びる階段の踊り場に横たわっていた俺は、まだ通勤の途中だったことを思い出す。
携帯をみれば相変わらず圏外の表示のまま。充電も切れかけている。階段についた頃から半日ほどが経過していた。
身体のあちこちが痛むせいでほとんど休めた気はしないが、少しは気力が戻っていた。開き直ったとも言える。
再び階段を上り続け、途中何度も休憩を挟んで進んでいく。百段ぐらいおきに踊り場があるのが唯一の救いだろう。もし踊り場がなければまともに休むことも出来ず、寝返りで転がり落ちて死ぬ可能性もある。池田屋の階段落ちなど目じゃないほど長い階段は、いまやどちらの端も見えない。
見えないので上がり続けるしかないのだが、なんでこんな思いをしながら通勤しなくてはならないのかという思いが過ぎる。
苦笑を漏らすまでもなく、膝が笑っている。裏腿だって向こう脛だって大笑いだ。
生活するために仕事に行く。これから仕事をするのだ。なんて笑える話だろう。笑いすぎて涙が出そうだ。
地下鉄の構内で髭面のおっさんが半泣きになって歩いていれば、現実ならば不審者扱いされる。まだ三十路にならないのに、おっさん扱いされるのだ。現実は世知辛い。
だがここは現実ではなく、言うならば異世界だ。
【誘引】された先で他人に会うことはほとんどないらしく、確かにこの三日半で一度も人影を見ていない。弁当やタバコなどを買ったコンビニでも。
もちろん次回などという機会は御免被る。
肉体の疲労が精神をすり減らし、半ば惰性で足を運んで階段を登り続けて更に数時間。
ほとんど無我の境地に至った頃、階段が終わった。
上がりきった階段の先に見えるのは、階段下にあるのと大差ない通路。
唯一の違いは歪んだ字で書かれた看板と、防火扉のような真っ白な壁扉。
もはや意識や思考どころか人格さえも失いつつある俺の手が、それでも出口を求めて扉を押し開く。
そうして扉が開いた瞬間に、雑音に包まれた。
もはや意識とは無関係に歩き続けている足の動きに、背中が背もたれに押し付けられて尻が滑る。
ホームのベンチに腰を下ろした状態であることに気付けるほどに意識が戻ったときには、滑った尻がベンチから落ちるところだった。
したたかに打ち付けられた尻と背中が軽い痛みを訴えて、その無様を見た周囲の通勤客が視線を逸らす。
ホームに並んだ柱に貼られた駅名を見て、降車したホームにいることを再確認した。身体の疲労感は無くなっているのだが、精神的な疲労感は全く抜けていない。
泣きたい気分をため息でごまかして、うつむいて目元を押さえる。不精髭のない今朝剃ったばかりの顔を揉み解して、立ち上がるだけの気力が戻るのを待つ。これから乗り換えホームまで歩いてまた満員電車に揺られなければならないと気付いて、なぜそんなことをしなければならないのかと泣きそうになる。
そうか、仕事に行くために通勤しているのか。
避けるようにして周りを歩き去っていく乗客たち。一つの生き物のように乗降する人波を眺めて、本来なら自分もその一部になっていた筈だと思い至る。
仕事をしに行くために、電車を乗り換える。そんなありふれた日常を毎日なんの疑問も持たずに行えていたはずなのだ。
携帯を取り出して時間を確かめれば、【地下迷宮】を延々と歩いた時間がなかったように、いつも通っている時間が浮かび上がる。
電車を一本くらい送らせても間に合う時間に、大きくため息が漏れてうなだれた。
今日はまだ月曜日だ。
次からは毎晩1時の投稿予定となります。