【誘引】三回目5
カートンもどきの山を眺めても、タバコは手元にない。
身体の痛みは大部分が弱くなっていたが、左のかかとだけが異常に痛む。薬局などがあれば湿布でも貼るのだが、見える範囲にあるのは喫煙所の案内看板だった。
確かにそれも必要なのだが、いい加減で水分が欲しい。居酒屋で飲んだ冷酒が最後の水分で、その喉越しを思いだせば唾が溢れた。
階段前にある地酒を売りにした和風な店にそそられて、飾られている酒瓶に手を伸ばしたが当然中身は無かった。営業中の看板は出ているのに、店の入口も窓も据え付けられているように動かない。以前に別の場所で来店したことがある系列店だ。絶対にタバコがあると確信できる店だけに、悔しさすら感じる。
昨日はスタッフオンリーの扉を開けたら現実に帰還できたので、試す価値はあるだろう。そう思い直して、脇道にスタッフ用の扉がないか確かめる。そう簡単には見つからないらしい。
しかし、喫煙所が上階にあると書かれた店内案内図が見つかった。
疼くように痛む足を引きずり、階段を這うようにして上る。昨日もこんなことをしていた気がする。きっと根本的に【地下迷宮】に向いていないのだろう。むいているのは多分、前向きにテスト勉強にあてるような若いヤツだ。
上司や同僚などに比べれば全然若いと思っていたが、学生ほどの若さは失われていたらしい。タバコでは補えないが、自分を誤魔化すくらいはできる。一服してひと息入れようと、ゆっくりとだが階段を進んでいく。
「おおっ!」
階段から上がった先に、果てしなく奥まで伸びる通路があった。
そこにいつも昼飯に食べる蕎麦屋があった。しかもその店内の券売機に並べて、タバコの自販機が置かれている。
通い慣れた店を見つけた奇妙な安堵感と欲しいものを見つけた喜びに、足の痛みさえ無視しながら急いで向かう。
「いやー、やっぱりこの店はいい店だよなぁ」
記憶から蘇る蕎麦つゆの香りとタバコの匂い。
それが実感できていないことに気付かずに、のれんを潜りながらスライドドアを開けた。
店内へと入ろうと踏み込んだ足が宙を掻いて、二歩三歩と繰り返す。
視界に広がるシャンプーのポスターモデルの赤茶けた長髪が、到着した電車で見えなくなった。降客たちが先を急ぐようにホームを流れていく。
ドアが閉じて電車が走り去り、ようやく両足が地面についた。先程まで感じていたかかとの痛みや疲労感は欠片も無くなっている。
「ちくしょう! くそっ! クソォッ!」
だが言い尽くせない不満感が身体中に溢れて、つい口からはみ出した。
週末まで毎日三話投稿予定です。(1時、2時、3時で投稿予定)




