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泡の壁2

 愛煙者が飲酒後に全力疾走するのは、自殺行為に近い。



 それでも選択肢がない場合、死に物狂いで全力疾走するしかない。

 緩やかなカーブと傾斜の地下通路は、果てのない先だけが見えている。

 通り過ぎていくものは空っぽのポスター看板、乗り換え案内の表示、空調設備と種類は少ない。


 しかし空調設備を越える度にその音が途絶える距離が近くなり、背後に感じる泡壁の圧力は強くなる。

 肺に張り付いたタバコの名残に呼吸が引っかかり、肌に張り付く服は足を引っ張る。

 革靴が立てる爆走音よりも、こめかみを流れる血流が立てる拍動音が耳を震わせて、脳がつられて揺れていく。


 血の気が引いて暗くなり始める視界の先に、通路の終わりが見えた。


 間にあるのは一つの空調設備。

 もつれ始めた足で無理矢理地面を蹴り、少しでも速度を落とさないように走り続けても、出せる速度には限度がある。

 最初に稼いだ泡壁との距離は消費され、余裕は全くないだろう。


 空調設備を越えて程なく、途絶える音を聞く。


 迫りくる泡壁を背後に感じながら、胸ポケットに入れたタバコを一本掴む。

 せめて最後に一服したいと、走りながらライターを取ろうとして指が滑った。


 乾いた音と共にライターが置き去りにされたのを聴きながら、油膜面っぽい泡壁は燃やせたのではないかと今更に思う。

 しかしキャバレーで貰った使い捨てライターの火は手から離れれば消えてしまう。そもそも火をつけてさえいない。

 ライターが呑みこまれたせいで更に泡壁の圧力が増したのを感じ、吸えないタバコを叩きつけた。


 目の前にある十字路と、その奥に見える上り階段。正しく昨日の道を選べていたと思っても、たどり着けなければ意味はない。


 ほんの一瞬止まったらしく背後の圧力が弱くなり、さらに強い圧力が戻ってくる。それが意味することに気づき、再び胸ポケットに手を入れて最後のタバコを叩きつけた。

 ゴミを取り込み終えた一瞬だけ泡壁が止まり、速度を上げて再度浸食を再開する。



 それがわかればあとは耐久勝負だ。



 体力が尽きる前に通路を抜けるため、走りながらポケットを(まさぐ)る。

 携帯や充電器、財布や定期。それらを投げる前に、それを手にとれたのは幸運だろう。



 居酒屋のチラシ付きのポケットティッシュ。



 少しでも泡壁が止まる時間が増えるように、全く使っていないそれをまき散らす。

 走りながらの手元作業というのは難しい。もっと細かく千切ればよかったと思っても、既に手を離れた物を拾うことはできない。

 後はただ全力を使って、少しでも速度を上げて逃げ切るだけである。



 なりふり構わず振るう腕。歩幅が大きくなり、蹴り脚は革靴越しに床の固い感触を伝えてくる。

 酸欠と貧血は加速して、ますます視界は青暗い。

 もはや無酸素運動となった全力疾走は、注ぎ込んだエネルギーに比例して速度を上げた。自分の意思でここまで全力を出したのはいつ以来だろうか。


 溢れ出る脳内麻薬が落ちそうな意識をトリップさせて、流れ去っていく地下通路の灰色の壁面がせり上がって見える。

 そのまま踏み込んだ右脚は全体重を受け止めきれずに足首と膝が捻りを受けて身体が泳いだ。



 振り回していた両手が空中を掻いて、右脚を避けた左脚が無理矢理に地面を捉える。立て直そうとして踏み締めた反動か、腿裏から尻にかけて引きつった痛みが走る。


 まるで三段跳びの踏切のように、勢いづいた脚は身体を投げ飛ばした。せり上がっていた灰色の壁面が加速して迫り、手をつく余裕もなく右肩が打ち付けられた。跳ね返る身体が横に回転して、どうやって立っているのかもわからないままに前後が入れかわる。


 ティッシュに足止めされている泡壁は、もう真近にある。加速回数を大幅に増やした泡壁が迫る前に視界はそのまま回転。目の前に再び灰色の壁面が迫ってくるのが見えた。



 それが床で、壁にぶつかって倒れかけているのだと、全くその時は理解していなかった。



 ただ無意識に蹴った脚が身体を更に床へと向けて加速させて、無意識に伸ばした手が身体を支えて回転させたのだろう。

 逆さまになって放り投げられた身体が、ほんの一瞬どこにも触れていない浮遊感に包まれる。

 眼前まで迫った泡壁が前髪に僅かに触れたのか、額の上が引っ張られた感触は一瞬。


 その直後、前まわり受け身のように交差路に飛び出した身体は、固い床へと落下した。




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