火曜日の喫煙所2
喫煙所のあるフロアまで上がっていくエレベーターの中に、沈黙が落ちる。
社屋内にあるエレベーターは外の景色などなく、健康診断を推奨する貼り紙以外には灰色の壁面だけ。角にあるフロアのボタンと、ドアの上部で点灯が移り変わる数字くらいしか見るものもない。
そこに乗り込む際に軽く会釈を返したきり、数字の明かりが移り変わるのを見つめたままで、向けられる視線に耐えている。
彼女からすれば後輩に告白する前に恋心を砕いた犯人だ。恨み言の一つくらいあるのかもしれない。
だが狙っている後輩には既に同棲する彼女がいて、きっかけにはなったかもしれないが失恋は時間の問題だったと思う。だから無言で睨みつけるのはやめてほしい。
八つ当たりでカッターナイフを突き出されるトラウマは一晩では癒えはしないのだ。
頭一つの背丈差から見下ろすセミボブは、親近感よりも忌避感を増加させている。黒い前髪の隙間から見上げるような眼差しは、フレーム無しのメガネ程度では圧を和らげることもない。
十人以上が乗り込めるエレベーターで、触れそうなほど近くから凝視されるのは息苦しい。壁に挟まれているなら尚更である。いや、片方は壁ではなく壁のように平らなのだが、どこがとは口が裂けても言えない。今は本当に口を裂かれかねない。
視界の端に映る右手にはナイフは見えないが、この圧力はなんなのだろうか。
「顔色、悪いですね。また【誘引】されたんですか?」
「いや……今日は、されてない」
気のせいだろうがいつもよりエレベーターが遅く感じる。普段なら途中で誰かしらが乗り込んでくるのに全く止まることがなく、目的のフロアを目指してゆっくりと上がっていく。
途中のフロアへのボタンを押して逃げたいが、間にある壁の圧力が強くて手を伸ばせない。
「昨夜は? 【地下迷宮】に行きましたか? そこで何かありましたか?」
移り変わりの遅い数字に焦れていると、何故か尋問が始まった。視線を向ければ目力の強い黒目とあう。前髪とメガネが焦げそうな視線は、逸らすことを許さない。
それでも少しでも距離をおこうとすれば必然、壁に背中を押しつけるようにして向き合う体勢になる。
背丈が逆ならば壁ドンでもされたのだろうか。
胸元で睨み上げてくる彼女からは、タバコなのか香水なのかミント系の臭いがする。
爽やかさと清涼感の代名詞のような香りに背筋が寒くなっているのを感じる。
「答えられないことでも? 例えば…………犯罪」
カッターナイフとはいえ本気で刃物を突きつけられるなど、普通は経験することではない。
その体験は自覚している以上に恐怖を刻んでいたらしい。全身が総毛立つのを感じ、昨夜の恐怖が再現される。
目の前にいるのが、あの女子高生のような恐怖感。カッターナイフを持っているのではないかと考える余裕もない。
軽薄な音を立ててエレベーターが止まりドアがのんびりと開く。弾かれたような勢いで隙間に身体をねじ込みながら外へと逃げた。
エレベーター前で待っていた人たちが驚いていたが、知ったことではない。
距離を取って、しかし恐怖につられて振り返る。女子高生は走ってこなかった。
壊れそうな勢いで激しく鼓動する心臓に右手を重ねて、ゆっくりとエレベーターから降りてきた彼女を見る。
入れ違いに人々がエレベーターに呑まれて消えても、近づいてこない。
「……絶対…………から」
何か呟いているのが見えたが、言葉はほとんど聞こえなかった。
週末なので次の話は一時間後に投稿します。