【誘引】初回(1/3)
新連載開始しました。
通勤や通学の時間潰しにどうぞ。
万が一、という言葉がある。
かつてはとても珍しいことを表していただろう確率も、人口増加によって相対的に発生件数を上げたのは当然のことだというのは、理屈では理解できる。
都の人口は約千四百万。万が一であっても千四百人である。
そこから通勤、通学で利用する人数に絞っても、延べ人数となれば必然的に確率は跳ね上がる。
理屈は理解できる。
「だからって全く納得できねえけどな」
延々と続いている地下通路を、通勤のために歩き続ける俺の足取りは気怠い。もう三日も地下通路のかわり映えしない景色の中を歩いている。
すり減った革靴以上に心がすり減り、汗だくの身体は張り付いたワイシャツ以上にくたびれている。
タブレットPCが入った手提げ鞄さえ重く感じて投げ捨てたのは何回だろう。
一緒に突っ込んだペットボトルのお茶はもうほとんど残っていない。しかし前後数キロに伸びる通路に自販機は見えない。
ため息を漏らして顔を覆えば、通勤前に剃り落としたはずの髭。その感触にうんざりする。
通勤に髭剃りを持つ習慣はないが、これを不精髭というのは理不尽だろう。髭が剃れていない俺は同じ期間、風呂に入れていない。せめてもの救いはポケットティッシュを持っていたことだろうが、それももう心許ない。
「腹減ったなぁ……。立ち食いそば屋が恋しい」
そんな俺の切ない思いは通路に染み込んで、ただ空調の音だけが残った。
無人の売店まで戻って弁当を買うにしても、戻るのに三日かかるので戻る気も起きない。
天井付近に固定された案内看板には、乗り換え路線のある場所を示す矢印があるが距離の記載はない。
今日も歩き続けるしかない。
いったい会社に着くのはいつになるのだろうか。
空調機をいくつも通り過ぎるうちに頭が空っぽになっていく。そんな脳裏に漂うのは、ニュースなどでまとめられていた話だ。
次の話 【誘引】初回(2/3) は一時間後の投稿となります。