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シャワーがお湯に変わるまで  作者: かさかささん
7/7

7話 シャワーがお湯に変わるまで

 ――アパート。


「ハァ……ハァ……ゼィ……ゼィ……フゥ……ヒィ……」


 過度な疲労を象徴する息切れと共にアパートへ帰ってきた翔。全身は汗だくである。


 それは暑いから出た汗でも、大学からの道をノンストップで走ってきて疲れて息が苦しいわけでも無い。恐れていたものから逃げ出す際に生じた冷や汗と、約束を破ってしまった罪悪感で胸が苦しくなってしまった呼吸の乱れが原因だ。


「くそっ、くそっ!」


 目を背けるためだけに使用したサングラスを乱暴に放り投げ、風呂場へ向かった。


 シャアアアアアアア。


 冷たい水。


 それを全身に浴びていると、冷たかったが少しだけ心が落ち着いた。


「つめて……」


 嫌な汗が段々と流れ落ちていく。


 だが、声が聞こえないフリをして逃げてしまった事実は無くならない。


 声が出せない相手に酷い事を、本人は気にしていない素振りを見せるが最低な行為を、相手を悲しませるような行動を取ってしまったのだ。


「っ……かぁぁっ!」


 ゴクッゴクッゴクッゴクッ!


 シャワーから出る水を、翔は大きく口を開けて飲み始めた。


 無性に喉が渇く。嘘を吐いたから、その後ろめたさから喉がカラカラになっている。


 ゴクッゴクッ……プフェエエエエエエ!


 口に入りきらなくなった水は、無常にも鼻から溢れ出る。


「ぁっ……かぁああっ!」


 ゴクゴクゴクゴクゴクッ!


 再びシャワーから流れる水を飲み始める。


 大量に、鼻から噴出してしまう程の水を飲んでも全然足りなかった。


 ゴクゴクゴク……プフェエエエッ!


 当然吐き出す。口から、鼻からも壮大にぶちまける。


 何度も、何度もその行為を繰り返し、翔はようやく僅かばかりの潤いを得た。


「うぇ……ぺっ、ぺっ」


 排水溝に唾を吐き出しながら、翔は浴室にペタリと座り込んだ。


 情けない。


 シャワーを浴びながら水を飲んでは吐き出す姿が情けないというのもあるが、それよりも何よりも逃げ出してしまった自分が情けなかった。


 鎮目を下に見ていた事。


 下に見ていた者に好意を持ってしまった事。


 好意を持ってしまった相手に嫌われるのは恐い。それが下に見ていた者なら屈辱的だ。


 だが、実際の鎮目は良い奴だった。だからこそ翔は避けたのだ。


 声が出せない事でいつの間にか下に見ていたはずの鎮目が良い奴だと、自分よりも遥かに素晴らしい人間だと感じさせられたから。


 だから恐くて逃げ出した。傷付く事を恐れて逃げた臆病者だ。

 

 シャアアアアアアア。

 

 三十秒。

 

 それだけの時間を費やせば、シャワーの水はお湯に変わるはずだ。


「つめてぇ……つめてぇよぉ……」


 シャワーから流れる水が、ちっともお湯に変わらない水が、翔の心が……。


「…………」


 バタン。


 赤くなった目をこすりながら、風呂場を後にする。


 パンツとシャツだけを着て、敷きっぱなしの布団に倒れるように眠る。




「――なっくん、起きてください」


「ぁあっ?」


 彩加の声がして、自分が眠っていたのだと気がついた。

 

 湿った枕に触れて、どうして眠ってしまったのか思い出した。


「おーきーてーくーだーさーいー」


 耳元で彩加が呼びかける。しかしまだまだ眠り足りない。再び眠りにつく。

 

 ポカッ。

 

 殴られた。


「いてーなー、何だよ……寝させろよ」


「だめです。お風呂に入る時間なので一緒に入るべきです」


 無理矢理起こされただけでなく、風呂まで要求する暴君っぷり。


 いつもなら意地でも寝てやる所だが、今の翔に反撃する力は残されていなかった。


 シャアアアアア。


 彩加はどうやら学習したようで、一旦シャワーの栓をひねってから水を浴びないように風呂場の外へと出た。


「少ししてから入ります」


 三十秒。


 大体それ位の時間が経った頃、彩加は翔の手を引いて風呂場へ入ろうとした。


「……どうしたのですか?」


 その場から動こうとしない翔に、彩加は首をかしげる。


「いや、シャワーがよ……冷てーんだよ」


 うつむきながら小さく告げたその唇は、プルプルと小刻みに震えていた。


 恐い。


 また冷たい思いをするのが。三十秒という時間が経ってもお湯の温かさを感じられないかもしれないという恐怖が。


「おかしな事を言いますね。今日はいつもより静かですし、何かあったのですか?」


 園児にすら見透かされるほどに、翔は脅えていた。


「学校の帰りに飯でも食おうって約束したんだけどよ……帰っちまった。アイツが呼んでいるのに聞こえない振りした。傷つけた。見下してた。最低だ」


 彩加に言っているのか自分自身に語りかけているのか分からない口調で、翔は白い顔をしてブツブツと呟く。


「アイツは何も悪くないのに、俺がビビッて逃げ出した。声はちゃんと聞こえてた……」


「何ですか? お友達にいじわるしたのですか?」


 暗い雰囲気の翔は「……ああ」と弱々しく頷いた。


「それはいけません、ちゃんと謝るべきです」


 簡単に言ってくれる。


 それを言う勇気があればとっくにしているだろう。シャワーの冷たさにすら臆する小心者には到底無理な話である。


「悪い事をしたら謝らないといけません。絶対にです」


 正論だがそれは出来ない。どころか、鎮目と顔を合わせる事すら今の翔には不可能だ。


 自分の弱さを今更ながら自覚し、それを知らずに好意を持って接した愚かさを呪った。


「悪い事をする人は悪い人ですが、良い事も出来るのが人間です」


 どこで覚えた言葉なのか、彩加は淡々とそれを告げる。


「誰かを悲しませたらごめんなさいをして、その後に悲しませた分よりたくさん喜ばせてあげれば、それはもう良い人なのです。だから大丈夫です」


「おっ、おいっ!」


 半ば強引に翔の手を引いて、彩加はシャワーの下に歩いて行く。


 シャアアアアアア。


「どうですか? まだ冷たいですか?」


 シャワーから流れる冷たい水は、三十秒という時間の末に温かいお湯に変わっていた。


 それは時間が経過したからなのか、彩加と一緒に入ったからなのか、どうしてなのかは分からないが、もう冷たさは感じなかった。


「あったけぇ……あったけぇじゃねぇかよぉ」


 温かいお湯に触れ、翔は感極まってボロボロと涙を流した。


 ほんの三十秒前までは冷たい水だったことを忘れてしまいそうな温かいお湯を全身に浴びて、どこか心まで温もりに包まれているような感覚に陥る。


「俺……ちゃんと謝れるかな?」


 それは段々と勇気に、シャワーがお湯に変わるそのように、翔の心の温度が徐々に温められていくようだった。


「はい、なっくんならきっと出来ます。だからお風呂上りにアイスが食べたいです」


「へへっ、言われなくても買ってあるっつの」




 ――風呂上り。


 ようやくいつもの元気を取り戻した翔は、アイスを食べ終えた彩加を寝かしつけた後、珍しく授業以外の時間に筆記用具を用意した。


 カリカリカリ。


 ノートの文字は雑に書く翔。だがそれを出来るだけ丁寧にして、一通の手紙を認めていた。


 酷い事をした。きっと鎮目は傷付いた。もう嫌われているかも知れない。しかし願わくば、もう一度仲良くなりたかった。


「明日……会えるかな?」


 想いを込めた手紙を、仲直りする為の架け橋を、今の自分に出せる最大限の勇気を、翔は自分の気持ちと一緒にバッグにしまう。


 変わる。


 今の関係が、弱い自分が、傷付けてしまった相手の気持ちだってきっと変わるはずだ。


 そう、冷たい水も三十秒あれば温かいお湯へと生まれ変われるのだから。

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