大国の動揺
ムーンバック・コーヒーで朝食を摂っていた李豪炎は、東寺重工の社員がいつになく慌ただしく出勤している様子を見て只ならぬ事が起きたと直感した。
トレーを戻して店の外に出たとこで、携帯に着信があり周紅玉の文字が浮かび上がる。周は東都の大使館に詰めている諜報部ヘッドだ。
「藤浜で東寺絡みの事故が起きたらしいわ。東密も動いているようだけどあちらも正確な情報を掴めてないみたい」
「何があったのですか」
「わからないわ、子細なことでもいいから調査をお願い」
「分かりました。情報を入手次第、連絡します」
「頼むわね」
李は周との通話を切って、暫く思案すると警察署の中にある記者クラブへと向かった。李の肩書は中韓日報の記者ということになっている。中韓日報は中韓大国で最大手の新聞社である。
李の母国である中韓大国は人口10億人を超え、帝国が軽く10個は入る領土を持つ大国の名に恥じない水球の中でも屈指の強国である。
帝国の西にある中央大陸にある国家の中でも古代文明の遺跡から、水球の中でも古くから文明があった民族として選民意識が高い国である。漢字の使う文化から帝国を中韓大国からの移民が建国した国と位置づけている。
広大な領土で生産される農産物、絹や綿で作られる衣料品が主な貿易品目である。帝国が神言宗を国教として皇帝が国主と教主を兼任するのに対して民主主義国家だ。水球の4大料理の一つである中韓料理という食文化を持っている。
軍事力もアメリゴ合衆国には及ばないが、海軍は近隣の諸国には脅威だ。北の国境に中韓大国よりも広大な水球一の領土を持つモスコー共和国があるため、その軍事行動は南方に向けられている。
記者クラブに入った李は、一目で大和人ではないと分かる金髪碧眼の男に近づいた。
「アンソニー、こんな時間に記者クラブに顔を出すなんて珍しいな」
「ふっ、お前こそ珍しいな」
アンソニーは世界的なメディアであるAG通信社の記者として帝国内で取材活動を行っているエージェントである。
アンソニーの母国であるアメリゴ合衆国は多民族国家だ。帝国の東にあるアメリゴ大陸に移民によって建国された国で歴史は浅いが、人口は4億5千万人と中韓大国には及ばないが水球一の鉄鉱石の産出量を背景にした軍事技術力は水球のどの国をも凌駕する軍事大国だ。
他民族国家のため独自の食文化は持っていないが肉食が主流で、提供される料理のボリュームが多いのが有名だ。貿易品は軍事物資、畜産品が大きなウエイトを占める。
そんな大国が帝国に大使館を設置し、腕利きの諜報員を配置しているのには訳がある。
帝国の領土は中央大海に浮かぶ4つの島を合わせて地球のオーストラリア大陸のほぼ3分の2くらいであり、それは水球では10番目ほどの規模であるが、その領土から産出する資源が半端ない。
帝の西島の佐宇地砂漠は不毛の地であった。そこから産出する黒い油は長らく利用価値がなかったが、文明の発展に伴い動力の原料になり飛躍的な需要を生んだ。帝国の産出量は一国で水球全体の6割を超え、黒油の権益は全て皇室にあり、世界の経済にとてつもない影響力を持つ。砂漠では風力発電で本島に電力を供給している。
それだけではない。北島は火山活動が活発でレアメタルなどの鉱山資源が豊富であり、当然ながら金銀銅鉄の鉱山もある。中でも水球の金の埋蔵量の8割が帝国にあると言われているが、その権益もすべて皇室にある。火山の熱を利用した地熱発電で電力を本島に供給している。
南島は高い山と美しい湖を有し、ダムを利用した水力発電で本島に電力を供給しつつ、豊富な森林資源が建築素材や紙の原料となっている。
一番大きな本島は水田で主食の稲を、肥沃な大地では様々な作物が収穫されていて、他国に頼らずに自給でき、他国からすれば経済制裁も効果がなく厄介極まりない。
軍事力に関しては大陸と隔離した島国の帝国は造船技術が高く、50年ほど前に水球各国を巻き込んだ世界大戦では世界最大の国土を誇るモスコー共和国の中央大海艦隊を殲滅したほど精強である。
水球の経済と軍事バランスを一国で破壊しかねない国力を持つ帝国が、皇帝の独裁政権であることに両国は言い知れぬ危機感を抱いていた。
「藤浜で何があったんだろうな」
情報を入手していない李はアンソニーの探りに対して慎重に言葉を返した。
「さあな。ただ、東寺重工がここまで慌てるのを見たのは初めてだ」
「確かに」
李とアンソニーは互いに有効な情報を入手できていないていことを共有し、記者クラブにもたらされた情報を精査することにした。
二人が藤浜に居たのは第二皇太子の高野呑海が、藤浜市の介護施設を視察に訪れたのを取材する名目であったが、ミッションは別の物にチェンジした。
何人かの記者と話をした李は、今朝方マンションで発砲事件があり、殺人犯が逃亡中だということに何か異変が起きていると感じた。チップで管理されているこの国で、殺人を犯して逃げられる訳がない。チップを携帯し忘れた外国人であれば、探知されることもないがそんなリスクを冒す理由がない。
「んっ」
ふと窓の外に目をやった李は、警察署の玄関口に勢いよく入って来たワゴン車が停まった。ナンバープレートの番号から東寺重工の車両だと分かった。李の緊張が伝わったのか、アンソニーもワゴン車を注視している。
「何か運び出すつもりだな」
無言で部屋から出た二人は駐車場に停めてある車に急いだ。車に乗り込む前に二人はアイコンタクトを交わして頷いた。
アンソニーが東寺重工の支社に向けて先行し、李はワゴン車を尾行した。
李の携帯電話に着信があり、画面にアンソニーと表示が出た。電話に出るとアンソニーが短く告げた。
「次の交差点で止める」
「了解」
日本と同じく左側通行で交差点では対向車を気にせず左折できる。水球で左側通行なのは帝国だけである。
東寺重工のワゴン車が左折したので李は一気に距離を詰めた。李が交差点を曲がると、運転ミスをしたように見せかけたアンソニーの車がワゴン車を塞いでいた。李はワゴン車がバック出来ないように後ろにつけた。
李はワゴン車から降りて怒声をアンソニーに詰め寄る二人の東寺重工の社員の背後に忍び寄り、項に手刀を叩き込んで気絶させた。東密のエージェントではない、ただの会社員など二人の敵ではない。
李とアンソニーはワゴン車の荷台に乗り込んで、目隠しの布を引き寄せた。
「なんだこれは」
マンションの歪んだ玄関ドアと思われる物に人の拳の跡や足跡がついている。金属に形が残るほどの打突を人間ができるはずがない。
「人型の兵器を開発したのか」
「関節の造りがロボットのようではないな」
二人は互いの感想を口にし、携帯で撮影した後に布を被せて車に戻った。李もアンソニーも今後のことを協議するために東都に向ってハンドルを切った。
「この戯け者が」
東寺重工藤浜支店の支店長室に怒号が響いた。
「左側通行に慣れていない白人がハンドルミスして前を塞がれ、車を降りたところで急に気を失ってしまいまして」
「でも、ドアは奪われていませんし」
社員二人の言い訳は、火に油を注ぐことになった。
「ドアを見られたに違いない。皇室からも圧力を掛けて、警察の鑑識から秘密裏に引き取るはずが台無しだろうが」
支店長ともなれば東密の存在や、他国のエージェントが帝国内で活動していることを知っている。会社に定時に出勤して、たまに残業して給与を貰って生活している社員の危機感の無さに絶望しそうになった。
李から写真を転送された周は顔を真っ青にして、駐帝国大使である張偉伯の元に走った。
「張大使、緊急事態です」
その言葉にノックもしないで入室してきた周を咎めることなく、大きな机の上に溜まった書類にサインをしていた張が言った。
「何があった」
「この写真をご覧ください」
周が机に近寄り、携帯の写真を見せた。
「我が国の功夫の達人でもできないことだな」
張は映像の情報を瞬時に読み取り、眉間に皺を寄せた。
「速やかに映像を分析して、事にあたるように」
「了解いたしました」
得体のしれない東寺重工産と思われる人型兵器の探索に中韓大国は動き出した。
アンソニーから転送されてきた写真を見た帝国駐在情報局長オリバー・コーンウェルは良く出来ているフェイク画像だと思って噴き出してしまった。だが、高野呑海の取材をすっぽかして、東都に向かっているというアンソニーのメールを読んでジョークでないことを知った。
オリバーは、駐帝国大使のキャサリン・ハーグリーブスの許へと向かった。
「これは由々しきことね」
軍事大国であるアメリゴ合衆国ではあるが、人型の兵器の開発はこのレベルまで達していない。単体でこれほどの威力を持つ物が大量生産されたらを思うとゾッとする。キャサリンは世界の均衡を保つために、戦争になろうと帝国のプロジェクトを阻止しなければならないと覚悟を決めた。