避けられないモノ
死にたい人、が出てきます。
嫌な方はバックバック。
「お前は子どもの頃に死にかけたことがあるんだよ」
うちの両親はどちらも良い人だけれど、僕が小さい頃から、それが口癖だった。
実際、三歳かそこらくらいに、本気で危険な状態になったことがあるらしい。まあ、今の僕はその名残など欠片もなく、健康そのものだけど。
ただ、物心つく前から親にそんなことを言われ続けてきたせいか、僕は思春期前には漠然と、慢性的に、死を願うようになっていた。
別に、死にたいと思うほど嫌なことがあったわけではない。
小学校でも中学校でも高校でも、勉強も運動もやればそこそこできた。
クラスの人気者、という訳ではないけれど、親しい友人はそれなりの数がいたし、いじめとか、大きなトラブルにみまわれたこともなかった。
気分が特に塞ぐわけでもなく、この世に絶望しているわけでもない。
ただ単に、「死にたい」あるいは「生きていたくない」だけだった。
かと言って、自殺は嫌だった。
僕はそれなりに皆から愛されていると思っていたし、そんな彼らを悲しませることはしたくなかったから。
皆、こんなふうに感じているものなのだろうか。
それとも、僕だけなのだろうか。
そんな疑問を抱いてネットで検索してみたら、三割の子どもは希死念慮を持っているという報告を見つけて、少しホッとした記憶がある。自分だけがおかしいわけではないのだと、判って。
きっと、大人になれば無くなるに違いない。
映画とかでも、登場人物は皆生き足掻いているじゃないか。
そんなふうに思いながら、日々を過ごしていたけれど、この気持ちはやりたいことを見つけて大学に入っても変わらず、卒業して、有名な大企業に入社した後も、変わらなかった。
僕には上辺だけのものではない付き合いがある友人も三人はいて、仲が深まった女性がいて、仕事も順調に昇進した。
何も、不満も不足もない、人生。
なのに、死にたい気持ちは常に僕の中にあった。
それは潮のように常に僕のみぞおちの辺りまで満ちていて、時々、何かの拍子に喉元くらいまで込み上げる。特に理由もなく。
そんな時は、生きていることそのものが、苦痛でしかなかった。
にも拘らず表面的には問題なく、ちゃんと仕事に行き、笑い、好きなことを楽しめる。
ちぐはぐな自分にほとほとうんざりしつつ、暗い公園を突っ切って、帰路を急いでいた時だった。
「ねえねえ、そこのお兄さん」
僕は立ち止まり眉をしかめる。はっきりと聞こえたその声が、まるで頭の中に直接響いてきたような気がしたから。
耳を澄ませてみたけれど、人がいる気配はない。
気のせいか、と再び歩き出そうとしたとき、また声が。
「ちょっと、無視しないでよ」
確かに、聞こえた。
キョロキョロと辺りを見回してみると、猫が一匹、首に紐をかけられ、樹に縛り付けられていた。
でも、猫がしゃべるわけがない。
他にどこかに人が倒れてでもいるのだろう。
更に視線を巡らせると、ムッとしたような声がまた響いてきた。
「どうやってもシカトしたいわけ? ひどいな」
――どうやら、本当に、あの猫がこの声の主らしい。
「言っとくけど、ウチは猫じゃないよ」
いやいや、どこからどう見ても、猫だろう。まだ大人になりきっていない、小振りな黒猫。
僕が頭の中でそう考えた瞬間、『猫』はブルリと身を震わせた。と、いきなりその背にトンボのような羽が生える。
「は?」
なんて、でたらめな。
怖がったり驚いたりするよりも、呆れてしまった。
というより、僕はいつ死んでも構わない、むしろ好都合だと思っているから、怖いと思うことがないのだけれど。
僕はソレに歩み寄り、しゃがみ込む。
「で、僕に何か用なのかい?」
「おや、驚かないんだね。まあいいや。この紐、解いてくれないかなぁ。悪ガキどもに捕まって、こんなことになってしまったんだ」
「わかった、ちょっと待って」
「え、あれ、軽いね。そんなに簡単にこんな得体が知れないモノの言うこと聞いちゃっていいの? なんかマズいことが起きるかもよ?」
そう言って、ソレは、よくよく見ると、猫というよりもヤモリに似た目をぱちりとしばたたかせた。
「何、解放したらこの世界を滅ぼすとか?」
それはそれでいいかもしれない。僕が死を望みながら死ねないのは、後に残す者が悲しむからだ。世界が滅びるなら、その危惧がなくていい。
けれど、ソレは、心外なと言いたげな声を上げる。
「そんなことはしやしないけどさ、助けるならそれなりの報酬を求めたらどうだい?」
「報酬?」
「そう。ウチはこう見えてもカミサマの端くれなんだよ。助けてくれるなら、一つ願いを叶えて進ぜよう」
「はあ」
気の抜けた返事をしてしまったのは、その羽が生えた猫は、どう見ても『カミサマ』には見えなかったからだ。
「おや、バカにしているね?」
「まあ、ね。大体、人の望みを叶えられるくらいなら、その紐くらい、自分で抜け出せるんじゃないのかい?」
「自分自身の望みを叶えることはできないんだよ」
「ふぅん」
不便なものだな。
そう思いながら、望みを考えてみた。
浮かぶのは、一つだ。
「じゃあ、僕の存在をきれいさっぱり消し去ってくれないか?」
「はい?」
「僕は生きていたくないんだ。だから、いなかったことにして欲しい」
「それはムリ」
唯一と言っていい願いを、バッサリと却下された。
では、と、次善の案を考える。
「じゃあ、三十年くらい前に、僕を送り込めるかい?」
「三十年前?」
「そう」
「まあ、それなら簡単だけど……ずっとその世界にはいられないよ? その時代のキミがいるからね」
「十分かそこらくらいでいいよ」
「なら、問題ないな」
契約成立のようだ。
取り敢えず、紐を解いてやる。もともと、願いを叶えるなどということは信じていないから、解いた途端に逃げられたとしても、これっぽっちも惜しくはない。
自由になったソレは、首に残る輪っかの感触を振り払おうとするように、ブルリと身を震わせた。
「はあ、すっきりした。じゃ、さっそく願いを――」
「あ、ちょっと待って」
僕はすかさずストップを入れた。
「何?」
「本当に願いを叶えてくれるなら、一日待って欲しいんだ」
ソレは小さな頭をコクリと傾げた。そんな仕草は、それなりに猫っぽくて可愛らしい。
「一日? ま、いいけど。準備ができたらサラムって呼んで。じゃあね」
その一言を最後に、ソレは消え失せた。
本当に『カミサマ』だったのか、あるいは、僕が目覚めながら夢でも見ていたのか。
「――まあ、いいか。帰ろう」
*
翌日、仕事を終えて、帰宅して。
僕は半信半疑で教えてもらった名前を口にした。
「サラム」
と、ポンと音でも立てそうな勢いで、目の前にあの奇妙な猫が出現した。
「やあ、お呼び? 準備できた?」
サラムはヤモリの目をきょろりと一回りさせ、小首をかしげる。
「ああ、ばっちりだ。三十年前の僕のところに、僕を行かせてくれ」
「了解」
一瞬後、見慣れた自室の光景は消え失せ、どこか見覚えがある気がする暗い部屋に立っていた。
「ここは……」
僕は薄闇の中、辺りをグルリと見回した。やっぱり、覚えがある。子どもの頃の、僕の部屋、だ。目の前にはすやすやと眠る三歳かそこらの僕がいる。
「よし」
まさか実現するとは思っていなかったが、本当に過去の自分の前にいるらしい。
僕は小さな僕に歩み寄る。
この頃の僕は、まだ、死にたいとは思っていなかっただろう。なのにその命の芽を摘むのは何だか申し訳ないような気がしたけれど、これから延々三十年悩むよりも楽なはず。
僕は、一晩かけて調べ上げた、どこからどう見ても自然死に見える殺し方で、過去の僕を殺してあげるつもりだった。
『死にかけた』を『死んでしまった』に塗り替えれば、大人の僕はいなくなる。ずっと死にたかった僕は、最初から存在しなかったことになるのだ。
僕は僕に手をかける。
と、次第に意識が遠のいてきた。
ああ、多分、僕は消えるんだ。
これで、ようやく、楽になる――
完全に、視界がブラックアウトした。
が。
「ねえねえ。いつまで寝ているんだい? 過去に行った感想は?」
どうして、誰かの声が聞こえるんだ?
真っ先に抱いたのは、そんな疑問だった。
それに、やけに眩しい。
眉間にしわを寄せ、目をしばたたかせながら目蓋を持ち上げると――真正面にあの『カミサマ』がいた。
「どうして……」
「どうしてって、何がだい?」
「僕は、過去の僕を殺したんだ。だったら、今の僕は消え失せるはずだろう。映画とかマンガじゃ、そういうことになってるじゃないか」
僕は苛立ち半分、疑問半分の声を上げる。
サラムは大きな目をこれでもかというほどに、パチクリとさせた。
「キミ、自分を消したかったのかい?」
「そうだよ。僕はもう生きていたくなかったんだ。でも、親しい人たちを悲しませたくはなかったから、最初からいないことにしようと――」
「そりゃムリだよ」
「何で!?」
「だって、キミの人生はもうキミ一人だけのものじゃないじゃないか」
サラムは、ヒトであれば肩をすくめていただろう、そう思わせる風情で続ける。
「『今の』このキミの人生には、色々な人の人生ががっちり絡みついて混ざり込んできているから、今さら急にキミ一人が消えることになったら修正するのが大変なんだよ。それくらいなら、キミが死なないようにこの世の全てが働くね。ていうか、最初の願いの時に、それはムリだって言ったじゃないか」
つまり、運命的な何か、か?
……そういう意味だったのか。
「てっきり、ヒトを傷付けることはできないとか、そういう意味かと……」
「まさか、今の時代でキミを死なせることなんて簡単だよ。それなら問題なし。死因も病死事故死殺人、何でもござれだ。何なら、オマケでやってあげようか?」
「いや……」
僕は、かぶりを振った。
そうしながら、妙に納得する。
そうか。
死ぬことだって、簡単なわけじゃない。
ひとたび生きてしまえば、死が避けられないものであるのと同様に、生も避けられないものになるんだ。
何だか、拍子抜けした気分だ。というより、諦めがついたというか、憑き物が落ちたというか。
自宅のベッドの上で脱力している僕を、サラムは訝しげに見つめている。
「じゃ、僕はもう用済みかい? 帰ってもいい?」
「あ……ああ」
「あ、そう。じゃあね」
現れた時と同様唐突に、サラムの姿が消え失せる。
アレがいた空間に向けて、深々と息をついた。そして、つぶやく。
「取り敢えず、明日も仕事だ」
ご飯を食べて、風呂に入って、寝よう。
そして、何か、楽しいことをするんだ。
僕はベッドから下り、キッチンへと足を運んだ。