温かい夫婦
膝が、まだカクカクしている気がする。でも長への挨拶は済んだんだもの。大きな山は越えたってことだよね。ユリウスもいるんだし、大丈夫。
そうして椅子に腰かけて必死に心を落ちつかせようとしていると、フッと手元に影が落ちてきた。顔を上げると、知らない男の人が立っている。
「失礼、フロイライン。ユリウスと一緒にいたようですが……彼のご婚約者ですか?」
「……」
「すみません、警戒させてしまったようですね。私も中枢議員でオイゲン・紫紺と申します。あなたのような美しい方を初めて見たもので」
「……」
「どうかされましたか? よろしければお名前をお聞かせくださいませんか」
「申し訳ありません、彼のいないところで知らない方と話したくなかったんです。失礼します」
この人、娼館のお姉さんを見るような目で私を見た。きっと弱そうだからつっこめると思って話しかけてきたに違いない。ユリウスが行った方向へ逃げようと思って立ち上がり、一歩踏み出すと男の手が私の腕を掴もうと伸びてきた。
――パシッ!
ほんとに小さな、指先くらいの大きさの結界を出して男の小指をピンポイントで弾く。男は「イテ!」と言って小指をさすり、何が起こったかわからないみたいで「何だ?」と周囲をキョロキョロする。その隙に私は小走りで逃げ出した。
……魔法行使は許可がないとダメって聞いたけど。身を守るためだし、仕方ない。あの男が結界だと気付いていないんだから、大丈夫だと思おう。
ユリウスはどこにいるんだろうと思って周囲を見回すと、ドリンクが置かれているテーブルにいるのを見つけた。ホッとして近寄って行くけど、ユリウスが誰かと話しているのに気付いて足が前に進まなくなる。
――相手は、とても綺麗な女の人だった。
ユリウスはちょっと困ったような顔。
でも温かい笑顔でその人と話している。
柔らかそうな、豊かな胸。細い腰と、優雅な動き。薄紫のドレスがとてもよく似合っていて、ユリウスと並んでいると美しい絵画のようで……この迎賓館に相応しい、二人。
何よりユリウスの表情には優しさが溢れていて、どこにも険がない。
きっと、とても親しい……好きな人、なんだ。
――そっか。
――失恋、か。
ぼんやり立っていたら、さっきの男に追いつかれてしまっていた。
「フロイライン、待ってください。せめてユリウスが戻って来るまでご一緒できませんか?」
「……できません」
「あー、ユリウスと話している方が気になるかな? 彼女はリリアンナ・紫紺という方で、ユリウスの幼馴染ですよ。お父上が議員でいらっしゃる」
「そんなこと聞いていません。失礼、します」
オイゲンという男は、私が踵を返して歩き出しても、うろちょろと付いてくる。
本当に、勘弁してほしい。
そろそろ我慢できない。
できるなら早く帰って、工房の自分の部屋で、ベッドに突っ伏して泣いてしまいたい。
こんなドレスは脱ぎ捨てて、こんな道化の化粧は全て落として。
でもユリウスを置いていけない。
そんなことしたら、きっとあの虎みたいな長に何か興味を持たれてしまう。
どこへ行けば。
どこへ逃げれば。
もうダメ、泣いてしまいそう。
もうダメ、挫けてしまいそう。
ジン、助けて。
ギィ、助けて。
その時、追いかけてきた男と私の間にフッと割り込んできた人影があった。
そして私の目の前には、さっきの……フィーネ。
「はいストップ~。彼女、長様が直々に呼んだんだよねー。クラブ通いの止まらないオイゲンさん、長様の大事なお客様を追いかけまわしていたって、報告してもいい?」
「な……! なんだ君は……」
「ん? 長様とジギスムント翁の魔法相談役だけど。アルノルト・緑青でっす。俺にジャマされたって、長様に言い付けてもかまわないよ?」
「お、追いかけまわしていたわけでは……失礼しますね、フロイライン……」
「彼女に付き纏ったらすぐわかるよ~? マナ固有紋、記録したからね?」
「……っ!」
「さようなら~」
ヒラヒラと男へ手を振って追い払うと、アルノルトはこっちを振り向いて「大丈夫? 怖かったね。くっそ、ユリウスのやつ何やってんだよ!」と怒り出した。
フィーネは私の手をそっと握って「さ、こちらへおいで、キキ。ぼくと少し話して、落ち着こうではないか」と椅子に座らせてくれた。
アルノルトはユリウスを連れて来ると言って去って行き、フィーネは柔らかく微笑みながら私を見る。
「キキ、君は勘違いをしていると思うよ」
「……何を、勘違い……してるの」
「リリアンナは確かにユリウスの幼馴染さ。だが幼少の頃に彼女が原因でユリウスは酷い目に遭っていてねえ。疎遠になっていたが、彼女は先日ご結婚したのだよ。それをユリウスに報告していただけさ。一応は幼馴染の結婚だからね、ユリウスも嬉しい報告が聞けたとお祝いを述べていたわけだ」
なんで、フィーネは彼らの話していた内容を知ってるんだろう。
なんで、フィーネは私がそのことを気にしているとわかったんだろう。
本当、なのかな。
私、まだこっそりとユリウスのことを好きでいて、いいのかな。
なんで……私は今日初めて会ったこの人に、気を許しそうになっているのかな……
「あの、ありがとう」
「ん?」
「えっと、助けてくれて、ありがとう。さっきの……アルノルトにも、お礼、言わなきゃ。あの男、議員だって言ってた。あんな追い払い方して、フィーネたちに迷惑がかからないかな……」
「心配は無用さ、キキ。アルは紫紺の長様と友達なんだ。そういうバックボーンがある場合、大丈夫かなと心配しなければいけないのは先ほどのバカな議員だね。安心したまえ」
「あの、虎みたいな人と、友達なの……」
「ぷは! 虎か、それはいい。ああ、それとぼくらはヘルゲの仲間なんだ。いつも工房へお邪魔してはギィとチェスをしていると聞いてるよ」
「あ……ああ、それで二人とも不思議な目をしてたんだ」
「ははは、ぼくらは白縹だからねえ。こう見えてぼくは軍属なのだよ」
「軍人? ……本当に?」
「ふふ、そうさ。君も体が華奢で悩んでいたりするかい? ぼくはそれ以上の低身長、細身だよ。しかし、何事も物は考えようさ。工夫次第でいくらでも道は開けるのでね」
「そっか、そうだね。工夫は、大事だね」
フィーネと話していると、さっきまでぎゅうぎゅうに締め付けられていた心臓が、まともなリズムに戻ってきてホッとする。
なんだかフィーネって、温かい。
ずっと昔から知っていたみたい。
強張った表情筋がほぐれて来て、私は自然な笑顔をフィーネへ向けることができた。




