氷雪の貴公子
その夜、ユリウスを不機嫌にさせてしまったことに内心しょんぼりしていた私は、お風呂から出てため息をついていた。三年ほど前から私は一人部屋になっていて、ジンたちと一緒に眠れないのは淋しいけど、こうしてため息をつくことを我慢しなくて済むのはありがたい。
悶々と「何がいけなかったのかな。暑いのにくっついてしまったから、汗だくの私が気持ち悪かったのかな」などと考え込んでいると、賢者からの呼び出し音が聞こえた。
一階へ降りて賢者のメッセージを見ると、私宛だった。
『キキへ 今から、下記の寸法を測って知らせてねぇ』
何だろうと思ったら、身長、体重、スリーサイズに肩幅。腕の長さや股下の長さまで。しかも胸囲はアンダーバストとトップバストの寸法も……!
……ちょっと、イヤだった。
『なんで?』って入力すると、賢者は『成長期の女の子には適切な衣服が必要だから、サンプルを送りまぁす!』と軽い感じで返してくるけども。
渋々、全部の寸法を測って入力。
……ああ、胸囲は測りたくなかったなあ。
まあ賢者だしいいか、と思って送信。
なんだか今日はヘコむことばっかりだなと思いながら、部屋へ戻った。
翌朝、賢者から私宛に小包が届いていた。
これは郵便じゃなくて、『賢者便』だ。
賢者はヨアキムを介して荷物を届けてくれることもあれば、いつの間にかダイニングへ品物を置いていくこともある。ほんとに不思議なシステムだけど、最初からこんな感じだから疑いもせずに袋を開けた。
麻でできた涼しそうなパーカーやシャツ。胸元にフリルがたっぷりついていて、汗をかいても透けないだろうなっていう木綿のキャミソール。インディゴの、薄手でタイトな七分丈のパンツ。
それと、下着が、たくさん。
なにこれ……上下セットで、白とか薄いブルーとか薄いピンクとか。レースがついていて可愛いけど、これってもしかしてブラジャー? こういうのって、もっと胸の大きな娼館のお姉さんたち用の下着だと思ってたんだけど。
せっかくなので、全部着てみた。ブラジャーの正しい着け方なんていうメモまで入っていたので、その通りにした。
……締め付けられてるみたいで、これ、好きじゃない。
それで賢者に『服を、ありがとう。でも下着はどうしてこれなの?』と入力した。成長期の女の子用って言ってたけど、どう考えても私にブラジャーは不要だとしか思えない。賢者は『これをきちんとつけていれば、必要以上に厚着をする必要はなくなるよぉ? もちろんデミでは今まで通り気をつけなきゃいけないけどね』と返してきた。
そういうことかと納得したので、『わかった、ありがとう』と返事をする。ブラジャーに慣れるまでなんだかモゾモゾした感じを我慢しなきゃいけなかったけど、賢者のおかげでその年の夏は割と快適に過ごせたと思う。
でもユリウスは、私と腕を組んで歩いてくれなくなった。
*****
ユリウスはあれ以来、特に不機嫌にはなっていない。いつものように話してるし、私たちにはわからないポイントで急に「キキ、かわいい!」と叫び出すし、ギィと真剣にチェスをするし、ジンには真面目な相談をされて的確なアドバイスをするし。
ジンは少しずつ増えている「オピオン」の子たちをどうしていけばいいかをヨアキムやユリウスに相談している。工房で保護することもあるけれど、この工房もそんなに大人数で暮らせるようにはできていないから、ずっとは置いておけない。何よりヨアキムやユリウスの変装を解いても大丈夫な環境を維持したいから、他の子をここへ住まわせる訳にもいかない。
するとヨアキムが「これ以上ルチアーノに物件を提供させるのは得策じゃありませんね。少々お待ちください」と言い、その数日後にはセルゲイのアトリエが入っている建物を丸ごと使っていいと言い出した。
……四階建て、八戸。二階部分はセルゲイの私室とアトリエ。一階部分はオピオンの会議用の部屋と詰所。詰所っていうのは、助けを求めに来た子やケガをして運ばれてきた子のための受付や緊急避難場所みたいな感じ。そして三階、四階の四部屋をオピオンの子供たちの家として使えと。
ジンは驚いて「ヨアキムにそんな大金使わせるつもりじゃない、やめろよ」と言った。
ギィも「何やってんだお前。俺たちが勝手に集めたガキどもじゃねえか」と少し怒った。
するとユリウスは薄く微笑みながら、静かに冷たい言葉を二人へ叩きつけた。
「ジン、ギィ。例え僅かでも人の上に立つ者が甘いことを言ってはいけない。たかだか十六歳と十八歳の君たちに何ができるって言うんだ? 未成年である君たちは、必要に迫られたとは言え、無計画に保護した子供たちの為に物件を契約することはできない」
「……だったら、仕方ねえじゃんか。その辺にいさせて、なるべくメシ食わせるように俺らが気を付けてればいいだけだ」
「君たちは、彼らの飼い主か何かなの? エサを与えて体を維持させてあげれば、それで満足なの? 違うでしょ、志を同じくする『仲間』が増えたんでしょ?」
「だからってヨアキムにこんな大金使わせる気なんて、なかったんだ」
「ジン。大金を使うと決めたのは、ヨアキム。彼は自分がそうしたいから、使った。もしそんなお金がなかったとしたら、ヨアキムは違う手段を模索しただろう。
――で、『見捨てたくない仲間が増えたけどどうしたらいいかわからない』とか『家を確保してくれなんて頼んでいない、そんな大金使えなんて頼んでいない』とか言ってるそこの甘ったれ二人。力がないくせに、どうして子供たちを集めた? 保護できる権力も財力もないのに、どうして仲間を増やした?」
ジンとギィは、悔しそうに、でも返す言葉が見つからずに、押し黙った。
でも私は知ってる。リックやルナのように「自分たちと同じ目に遭う子が一人でも減るようにしたい」と思っていて、ジンの力になりたいと真剣に思っている子が何人も出てきて、ジンもギィもどうしても見捨てることなんてできない。
もし私たちが彼らの家を用意できずにデミに放り出したとしても。あげくに「自分たちの力で生きろ」と言ったとしても。きっと、彼らは何とも思わないだろう。
でもヨアキムに救われた私たちには、わかる。何の教育もされずに、あのケダモノの国で駆けずり回ってるだけじゃ、得られないものがある。
せっかく心に小さな明かりが灯ったのに、それをむざむざケダモノに殺させるだなんて。私たちに、ラスを何度も殺せと言ってるようなものなの。だから、そんなにジンとギィを責めないでほしい。
「ユリウス、そんな風に言わないで。二人はただ、私たちみたいな子を増やしたくなかっただけなの。私たちを救ってくれたヨアキムに、そんな負担をかけたのが申し訳ないだけなの」
「キキ、君もだ。誰かを本当に救いたいなら。救ってくれた恩人に負担をかけたくないなら。自分があらゆる力を持っていなくては、誰も救えやしない。『可哀相な子を増やしたくなかっただけ、恩人に申し訳ないだけ』と言うけれど、その気持ちだけで全てがうまく行くなら誰も苦労しない。君たちがその望みを叶えるために必要な力の種類と量を見極められなかったから、いまこんなことになっている。そしてそんな未熟な君たちの、抜け落ちた無策の穴を埋めてくれたヨアキムへ言う言葉が『そんなことをさせるつもりはない、やめろ』なのか」
「……キキ、もういい。ヨアキム、俺たちが悪かった。物件を用意してくれて、助けてくれて、ありがとう」
「俺も、悪かった。考えナシだった」
「……いいんですよ。ユリウスもありがとうございました」
「私は何にも? お金も出していなければ、力も貸していない。言いたいことを言っただけ。じゃ、後はそっちで話してね、また来るよ」
ユリウスはヨアキムに向かってにこりと笑うと、ゲートを開けて自宅へ戻って行った。
私は「ユリウスの言うことはもっともだ」とか「ジンとギィの気持ちをユリウスは全然わかっていない」とか「あんな言い方をしなくても」とか……ぐちゃぐちゃな、悔しいような、哀しいような、情けないような気持ちで。
でもわかってる。ユリウスの言ってることは、紛れもない「現実」だった。
「ねえジン、ギィ、キキ。私もね、あなた方に相談もせず、勝手に物件を用意したりして申し訳ありませんでした。最初は、あなた方を工房に住まわせることでさえ傲慢で偽善的な振る舞いだと思っていたんです。でもジンたち自身から『仲間のために安全な場所を確保したいけどどうすればいいだろう』って聞いて。やっていいなら確保しちゃいましょうなんて、つい簡単に考えてしまったんです」
「謝るなよヨアキム。俺、いま最高に自己嫌悪だ。ユリウスの言う通りだと思う」
「……まったくだ。俺、ヨアキムに『偽善者』って言ったことあったじゃん? あれ、マジで撤回させてくれ。考えナシの偽善者は、俺だった。ほんとに、悪かった」
「ふふ、じゃあ私たちはみんな偽善者でいいんじゃないですか? 偽善上等ですよ、やり切れば何か別のものになるかもしれません」
私は、彼らが何でこんなにスッキリと話し合えるのかわからなかった。ユリウスの言ったこと、頭では分かってる。でもラスが死んだ衝撃で悪夢を未だに見続ける私たちを、ユリウスにわかってもらえなかったような気がして。
――ああ、私こそが「甘ったれ」なんだ。
一人だけ女で、弱すぎる私に、みんなは甘い。
守ってもらって、可愛がってもらって、ヘンなのって思いながらもヨアキムとユリウスへ完全に心を許して寄りかかっていた私は、きっと相当な甘ったれなんだ。だからあんな風に冷たく言われて、ユリウスに突き放されたような気がしてるんだ。
こんなんじゃ、ジンとギィの力になんて……なれない。
自分が、恥ずかしい。
「キキ? どうしました、落ち込んではいけませんよ」
「……ん。ヨアキム、私もごめんなさい。ユリウスの言った事、頭ではわかってるつもりなの。でもどうしても、『力がなかったら見捨てるしかないっていうの? 見殺しにしろっていうの?』って、そう思っちゃって」
自分ではどうにも処理しきれない気持ちを持て余していると、ヨアキムは優しく微笑んで私たちを見た。
「……ねぇ三人とも。あの子隠れの穴を作った人の話、してあげましょう。彼はね、デミの人身売買組織を潰そうと潜入していた、軍人だったんですよ」
「は!? マジか……」
「ええ。それでね、彼は何年も頑張った計画が大詰めだっていう時に、たくさんの子供が嗜虐趣味を持ったデミのクズへ売られていくことを知ったんです。でもその子供たちを自分が逃がしてしまったら、せっかく何年もかけて組織を潰せるように仕掛けた罠が台無しになってしまう」
「……」
「彼は、その子供たちを助けなかった。二日間だけ耐えろって言って、あの穴を作りました。二日後にその組織も、子供たちを買ったクズも始末した後で、生き残っている子に『穴があるから逃げろ』と言ったんだそうです。もちろん子供たちのうち数人死んだ後でしたし、誰も彼の言うことなど荒唐無稽なホラ話か、罠だと思って信じませんでした」
「だろうな、俺だって信じねえよ」
「ふふ。でもギィ、あなたが言ったんですよ? 『ガキの性奴隷を売ってるクソヤローのところにいた偉いやつが作った』って。その子供たちの誰一人として信じなかったなら、なぜその話が伝わってるんでしょう。
――誰かが、信じたんですよ。そしてまさにその穴で、あなた方は生き延びた。その軍人は自分のことを『許される資格のない偽善者の大罪人』だと思っています」
「私たち……自分に力が付くまでは、あの子たちを放っておくべき、だった?」
「ふふ……そこが今回の件の難しいところですよねえ。ところで三人とも。その軍人とあなた方には大きな違いがあります。何だと思いますか?」
「そりゃ……軍属の大人と、デミのガキって違いだろ」
「――残念。答えは『私がいるか、いないか』です。あなた方には、私がいる。その私が、仲間を見捨てられなくて困っているあなた方に、解決策を提示できる力があった。しかも自主的におせっかいをやいてまで力になりたがるような『ヘンテコヨアキム』なんです。さて、どこが悪いと言うんです? 偽善上等、ですよ」
ヨアキムは肩を竦めて道化た。
私たちはまた、その優しさに救われている。
でも、まだ完全には浮上しない私の顔を見たヨアキムは苦笑した。
「ねえキキ。ユリウスは、わざとあんな言い方をしたんですよ?」
「――え?」
「彼の十八番です。あのままでは私がジンたちに『勝手な事をしてすみません、でももう用意しちゃったのであの物件を使ってください』ってお願いする展開になったと思いませんか?」
「うん……」
「彼は『現実を見ろ』と正論をブチかまして悪役になることで、私たちにしこりが残らないように誘導してくれたんですよ」
うそ……
ううん、きっと、本当なんだ。
そうだ。
あの時急に雰囲気が変わったユリウスからは、何かの結界でも纏ったような冷たい気配があった。
桜の花びらも、白百合もなくて。
あれは、きっと中枢で生きる為に身に付けたユリウスの結界。
あれが、「氷雪の貴公子」の仮面。
私、本当は何もユリウスのことを知らなかったんだ。
私たちといる時のユリウスは、彼のほんの一部だったんだ。
そしてバカな私は、非難するような目でユリウスを見つめてしまった。
帰る時に、ヨアキムとしか目をあわさなかったユリウス。
「言いたいこと言ってスッキリ」みたいなふりをして、さっさと帰ったユリウス。
私はこの時、心の深いところでコトンという音が聞こえた気がした。
それは、私が恋に落ちた音だった。




