歌姫と舞姫 sideキキ
はじめて、中央の街から外へ出た。
ユリウスがゲートを開いて、工房で「行ってきます」と挨拶してから数歩進んだだけで、私はこの国の真ん中から南西の端っこまで移動したらしい。
正直、最初は実感などなかった。ただ「中央よりあったかいな」としか思わず、でも匂いが違うのはわかる。それと、音。
デミの音は何だと言われれば、夜に酒場でかかっている古い音楽と酔っ払いの嬌声。娼婦の甘ったるい客引きの声と、誰かを殴っているケダモノの怒声。
でもこの里には、建国祭の時のような楽しくて軽快な音楽が溢れてる。
「ねえユリウス、なにかお祭りをやっているの?」
「あはは、キキもそう思う? でも違うんだ、金糸雀の里はいつもこういう楽しい音楽がどこかで演奏されてるのが普通なんだよ」
「え、これが普通なの?」
ダンも嬉しそうにウンウンと頷き、ここは楽しいところですよと請け合った。
――私には、ちょっと信じられない。
この里も、他の部族の街も、デミのように大規模な「スラム街」は存在しないのだという。多少は貧しい者が集まって暮らしている場所もあるらしいけど、私たちのような浮浪児はほぼ存在せず、孤児院で暮らしたりするのだそうだ。
中央にも孤児院は、ある。でもデミの子をそこへ収容してしまうと、その子が振るう暴力に他の子が耐えられないので入れられないのだそうだ。
それは……正直言って、よくわかる。子供の群れの中でさえ、ケダモノから逃げようと走っている時に、囮だとばかりに他の子から突き飛ばされて生贄にされそうになったこともあったから。
そういう酷い行為でさえ、デミでは「普通のこと」。それを非人道的だの倫理に反するだの言っても、私たちはポカンとするだけだ。そしてその意見は「あー、外のやつらしいや」とだけ思って、自分が生きる糧にはならない情報だから何も心へは響かない。
……きっと、この里にはこの里の、つらい事や悲しい事も存在するんだろう。その悲惨さをデミと比べるなど無意味だ。人が二人以上で生きている場所では、どんなことも起こり得る。喜怒哀楽、どの感情もあって当たり前なのだと、私はもうわかってる。
それでも私は信じられないと、思った。
こんなに大勢の人が暮らしている場所で、つらい事も悲しいこともあるのに、毎日のようにこんな楽しげな楽曲を奏でて暮らしていけるということが。
この里の人は、強いのだろうな。
デミみたいに汚泥へどんどん沈んで、浸かって、人間ではない何かになってしまうような弱さがないんだ。ここは、心が強い人々の里に、違いない。
*****
カペラという立派な石造りの建物へ到着すると、ダンとユリウスは満面の笑顔で出迎えられた。そしてユリウスに促されて小ホールと言う所へ足を踏み入れると。
――ぐわん!と私の脳か心臓が、揺らされた気がした。
何かの結界……遮音方陣?
その境界を超えた瞬間に、待ち構えていた何十人もの人々から、音の爆弾が叩きつけられたようだった。
おめでとう、幸せな二人へタラニスの祝福をと、金の錫杖を持ったきれいな人を中心にして歌う人々。その歌は心と体を震わす声が絶妙な和音を作り出し、私とユリウスを音で抱き締めに来る。
そして彼らの声を羽衣のように纏いながら、どこから降りてきた天女なのかと思うほど、重力を感じさせない動きで舞う彼女。
――あの建国祭で見た、舞姫だった。
「ご婚約おめでとう。よく、がんばったわね」
舞姫は私の左手を掬い上げるように持ち上げ、軽く握った。
「ユリウス様、キキさん、ご婚約おめでとうございます! ああ、ほんとに素敵です。なんて素晴らしいご縁で歌うことができたんでしょう! おめでとう!」
金の錫杖を持った歌姫も、私の右手を掬うようにして握った。
――私は、すぐににこりと笑って「ありがとうございます」と言えばいいだけだった。それだけだったはずなのに、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
あの建国祭で舞姫を見て、美しさに魂を奪われた。そしてあの日手に入れた「青い池へ行ってみせる」という決心が始まりだった。
それからは毎日のように、歌姫の声と、ダンの映像で心を支えてきた。
そのダンは、ユリウスと「いい映像記憶が撮れました!」と喜び合っていて。
ああ、舞姫の「よくがんばったわね」という言葉が胸を突く。
よくここまで這い上がって来たと、言ってくれているようで。
たぶん私は、今の歌と舞、そして心からのお祝いを言ってくれて手を握る、この二人の姫に心を奪われている。きっとこれは「感動している」ってことなんだろう。もう何でもいいの、彼女たちとダンへ、私の心にいま溢れてしまっている何かを伝える方法が欲しい。
言葉を使うのがヘタくそな私に、何かこれを表現できる方法を、誰か教えて。
「……っ」
唇は何も紡がず、ただ、涙が出た。
震えるだけで何も音を発しない唇は役に立たない。
ただ涙を流して彼女たちを見つめ、握ってくれた手に力を込める。
すると二人の姫は目を見合わせてから微笑み、私を柔らかく抱きしめた。
「最高のギャラね、これは」
「ええ、その通りです。とってもいい報酬ですね」
「……あ、ありが、とう……」
「ちょっと王子ィ! こんな純粋そうな子、ダマして嫁にしたんじゃないでしょうね!?」
「セリナ、ひどい言いがかりだよそれ……」
後ろから、歌っていたたくさんの人たちが押し寄せて「おめでとう!」と肩を叩いたり握手したりしていく。楽器を持った二人の男の人はユリウスへ「美人の嫁さんを貰うと、周囲からのやっかみとからかいがもれなくつくのさ、諦めろ王子」と言って慰めていた。
ようやく涙が止まった私は「あの、ほんとに、ありがとう」とか「とっても、すごい歌と、踊りで。何て言っていいかわからないの。でも、ありがとう」とか、支離滅裂にみんなへあたふたと言葉を発していた。
舞姫は極上の美しい笑顔で「さっきの涙でキキの気持ちはダイレクトに伝わってるわよ、大丈夫! あなたなら、王子と一緒に幸せになれるわよ」と言って額へキスしてきた。
「……そういえば、王子ってユリウスのこと?」
「そうよぉ~、だって『ザ・王子!』って感じがしなーい? 生粋のお貴族様なんて私らも初めて友達になったから、それ以来ずっと王子って呼んでるのよ!」
「あー、そっか。私はずっとユリウスのこと、『こうぎょくのだいぼうけん』の表紙にそっくりだって思ってたの。そうだね、王子様みたいだね」
それを聞いた一人の男の人が、ずいっと前に出てきた。
「お、キキさんはこうぎょくファンかい? あれは俺たちが出版してる絵本なんだよ」
「そうなの? すごい……私、あの絵本で文字の勉強したの」
「そいつは嬉しいね! 俺は歴史編纂局のミハイルだ、欲しい本があったら連絡くれよ。すぐ送ってやるからさ!」
「ふふ……ありがとう。私って、考えたら小さい頃に大切にしてた全部が金糸雀の里で作られたものだったみたい。すごい里だね、ここ」
ミハイルや他のみんなは、それはそれは誇らしげに胸を張った。
温かい笑顔に囲まれて、まだ感動の余韻が残ったまま様々な人と話していると、私の側で一心不乱にガリガリと何かを書いてる女の人がいた。何をしているのかなと不思議に思って見ていると、ダンが「あー……」と苦笑いする。
「ベティ? いい記事書けそうだね」
「ダン! 多角映像は撮ったわよね!? この感動を言葉にするわ、こんな素晴らしい出来事……! くぅ、だめよベティ、涙は後! 今はこの胸に溢れるあの場面を全て文字にぃぃぃぃ!!」
「……ユリウス様、キキさん。インタビューとかナシで大丈夫そうです。ああなったらベティは最高の記事に仕上げますよ、僕が保証します」
「「そ、そうなんだ……?」」
私とユリウスはちょっと呆気にとられつつ、ユリウスが持参したお礼のお菓子をカペラのみんなへ配っていた。「残った分はみなさんで分けてください」と言って、私たちはカペラを出る。
ダンとベティはそのまま残り、歌姫たちに記事のチェックをしてもらうからと言って別れた。
――そしていま、里の入口近くにある大きな宿の食堂で、私たちと舞姫一行は「かんぱーい!」とグラスを合わせている。
みんなはビッラやワインを飲み、私はユリウスが注文してくれたペリエを飲む。どんどんテーブルに並ぶ料理はどれもおいしそうで、おじいさんのシェフとユリウスは仲良さげに「これ! このカトレータが食べたかったんです!」と話している。
おじいさんシェフは「奥さんの好きな料理も教えておいてくださいよ、次に来た時には必ずお出ししますからね」と私にも優しくしてくれた。
私は舞姫のセリナとその夫のラザーン、彼らのまとめ役であるシンバの三人から、ユリウスの無茶振り要求で困った逸話を聞いて笑った。
逆に彼が三人からの情報を得て何を成し遂げたかという話も聞き、こっそりと惚れ直したりしていた。
でもおいしそうに料理を食べている彼は、私の大好きないつものユリウスに変わりがないなと思って、少しだけホッとした。




