貴族たちの遊戯 sideキキ
緊張しながら、湯気の立つカップに口をつける。
ふんわりといい香りが漂って、こんな芳醇な茶葉はとっても高級なものに違いないと思った。
少しだけ力が抜けるような感覚になって、改めて同じテーブルに座っている綺麗なファルケンハイン夫人を見る。
ユリウスの、お母さん。私ってばランベルトとエルにくっついたメイドのふりして、ユリウスの家へこっそり忍び込んでいたようなものだ。改めて考えると、とっても悪いことをしていた気になってしまう。お詫びを言ったほうがいいのかな。でも何て言えばいいのかわからない……ユリウスが好きなので忍び込みましたって?
――きっとなんて失礼な子だと思われて、嫌われちゃうだろうな。
そんな風にぐるぐる考えていると、カップから唇を離せなくてずーっと紅茶を飲み続けているみたいになってしまった。熱くてふぅふぅと息を吹きかけながらも飲んでいたら、もう半分くらいまで減っている。
「……ふふ、どうかしら、この紅茶。主人が好きだから凝っているのよ」
「とっても、おいしいです」
「よかったわ! 私はユリアナ・ファルケンハイン・紫紺というの。あなたのことはペティから聞いてるのよ、キキさん」
「え、え、聞いて……る?」
「ええ。息子のために頑張ってる子がいるって聞いたらいてもたってもいられなくって。ペティに無理を言って、今日あなたに会わせてもらうために来てもらったの。ごめんなさいね?」
「いえ……そんな……でも、私、は……」
「ん? あなたは?」
ユリウスのお母さんは、彼そっくりの柔らかい笑顔で私を見た。その瞳はどこまでも優しくて、包み込むようで、私はもう罪悪感で項垂れそうになっていた。
正々堂々とユリウスが好きだと言えなかった自分に。
忍び込むようにして、この人の家へ出入りしていた自分に。
「私は、デミで暮らしています。ユリウスに相応しいとは、とても思えなくて。でもどうしても会いたくて、その……ユ、ユリアナ様のお宅へ、身分を明かさずこっそり入りました、二回ほど。申し訳ありません……」
恥ずかしくて顔を上げられなかった。
いくらランベルトが「問題ありません、私とエルの付き人という身分は正当なものなのですからね」と言ってくれていたとしたって。私のやったことは「こっそり会うしかない者」の所業に違いないんだから。
ふっと、手元に影が落ちた。
急に暗くなったので何だろうと目線をあげようとしたら、私の右側へユリアナ様がふわりと跪いてる。そして握りしめている私の手を包み込んでから、微笑んだ。
「あなたは、とっても真面目な方なのね? まったくもう、ユリウスもかわいらしいお嬢さんを見つけたものだわ。ねえキキさん……ううん、キキ。ペティの友人なら私とも友人になってくれないかしら?」
「え、え、だって、あの」
「ねーえ、キキ。最初の一回は、家の者の誰もあなたが来たとは知らずに出迎えたかもしれないわね。でも二回目は全員知っていたわよ? あなたがメイドさんのお仕着せを着て、ユリウスへ会いに来ていたってね」
「えええ!?」
「んもう、あの子がそんな根回しもしていないと思うの? ユリウスがどれだけあなたを欲しがっていて、どれだけ周到に根回ししていたか気付いていないんでしょう。だからそんなにしょぼんとしないで?」
驚いて、目を瞠る。この人から目が離せない。
根回ししていた? ファルケンハイン家の人たちに? みんな、私がユリウスに会いに来ていたことを知っていたの?
「ランベルトさんと可愛いエルもね、後から私たちへお詫びに来てくれたの。どうしてもキキさんをユリウス様に会わせてあげたかったんですって言ってたわ」
……そんなの初めて聞いた。
私には「何も問題ありませんよ」としか言わなかったのに。
泣きそう。
誰も彼もが、私をユリウスのいる場所へ送り届けようとしてくれる。
泣きそう。
ユリウスは私が来ても大丈夫なように、準備万端で待ってくれていた。
力のない私を、考えの浅い私を、みんなが押し上げてくれる。
「ふふ、でもまあ……私の息子は議員と言うには少し型破りなのよ。だからキキが驚くようなことをしでかしても仕方ないわね」
ユリアナ様は執事が私の隣へ移動させてきた椅子へ優雅に座り直し、私の手をもう一度包むように触ってから、ゆっくり話しはじめた。
あの子は、小さな頃に人の愛情を一つも信じられなくなってしまった。
今でも忘れられない、あの子が「私はそんなに悪い子なのですか」と真っ白い顔色で静かに問いかけたことを。
それから成人し、議員の仕事を淡々とこなしているあの子は、まるで油が切れて錆びついた人形のようだった。
――私や夫にはそう見えるのに、周囲にそれを気付く者は誰もいない。
きっとこの子はいつか、壊れてしまうだろうと思っていた。
それでも何もできない自分たちに歯がゆい思いをしながら彼を支えていたが、ある日突然、彼は生まれ変わった。
金糸雀の里で、親友に出会って、彼は生き生きとした「私たちの息子」に戻ったのよ。
それからは、何も心配ないと思えるようになったけれど。
一つだけ、気がかりがあった。
――彼は結婚にまったく興味を示さない。
過去の経緯から、無理強いだけはすまいと決めていた。
それでも親は子よりも先に死ぬものだ。
できれば愛する人と幸せになってほしいと、ユリアナ様は「そう願うことしかできなかった」と言った。
「キキ、あの子を幸せにできるのは、あなただけなのでしょう? だったら私はあなたに縋ってでもお願いするしかないわ。ぜひあの子を、幸せにしてくれないかしら。もちろんあなた自身もね。だから……ユリウスと結婚することがあなたの幸せにつながらないのならば、二人でどうすればそばに寄り添っていられるのかを探して? 別にユリウスがデミから中枢会議所へ通ったっていいのではないかしら、長様が認めてくださると思うわよ。そうだわ、ユリウスをデミで囲っちゃいなさいな」
「な、そんな! そんなことをしたら、ユリウスは! は、犯罪組織と癒着しているとか、そんな風に政敵に流言飛語をばら撒かれたら、議員をやめなくてはいけなくなるんじゃ」
「じゃあ、あなたがうちに来る? そりゃあ私はその方がいいのよ、キキがヒマな時はお話できるでしょうし。うちからデミへ通う?」
「え、え、あの」
コロコロと笑いながら、とんでもないことばかり言うユリアナ様。こういうところ、ユリウスに似てるかもしれない……
私が目を白黒させていると、ペティとフェルナンド、それともう一人若い男の人がやってきた。ペティは笑いながら「ユーリ、キキをあまり困らせないでちょうだい。キキはとっても真面目なのよ」と言って座った。
ユリアナ様はちょっと口を尖らせて「まあ、ペティの方が先に友人になったからって! 絶対キキは私の娘になってもらうんだから! 羨ましいでしょう」と言う。
フェルナンドは仲の良い貴婦人たちのおしゃべりを横目に、呆れながら私へ話しかけた。
「キキさん、こちらは私の弟でサイラス。私たちはユリウスの派閥の者でね、彼とは一緒に中枢の亡者退治をする仲間さ」
「亡者?」
「そ。君も会っただろ、オイゲン議員とかさ。ああいうバカを排除するのが私たちの役目」
「へえぇぇ……」
ちょっとフェルナンドの言葉には驚いた。確かに中枢はユリウスの戦場なのだと認識していたけど、それは一般的な意味での「職場」と思っていたってことで。
でもフェルナンドの言葉は、中枢会議所というところが本当に「戦場」だってことをすんなりと私に納得させた。
そんな私の様子を見て、サイラスも笑いながら頷く。
「ほーんと、オイゲンを追い詰めたユリウスのやり口ったらえげつなかったよ。長様の魔法相談役まで引っ張り出してとっちめたからね」
「魔法相談役って、アルノルト?」
「そうだよ、ユリウスの一番の親友さ」
「……あなたたちも親友なんじゃ、ないの? ユリウスがそこまで話してるなら、きっと親友だと思ってる」
私の知ってるユリウスなら、そうに決まってる。
氷雪の貴公子の仮面をかぶらずに中枢で話しあえる人。
この兄弟は、きっと彼の大切な人であるはず。
「あっは! こりゃ参ったね兄さん」
「……まったくだね」
「な、何が?」
「私たちは、そうだな、一番の戦友だとは思ってるよ」
「戦友……」
「そうさ。その戦友から、レディ・キキへ伝えたいことがあるんだ」
フェルナンドとサイラスは真面目な顔で、でも瞳で笑いながら話す。
「ユリウスにはあなたが必要だ。もし本当にユリウスがデミから通うと言い出しても、私たちが彼を失脚などさせない。もちろん、レディがファルケンハイン家からデミへ通っても同じこと。私たちはユリウスを守りたい。ならば彼の大切な者も守るさ、全てを『私たち流』にね。だから安心してユリウスのそばへいてあげてほしい。彼はあなたがいないと……えーと、夜も日も明けないんだ」
「兄さん、うまいこと言ったね」
「うるさいよサイラス」
「私、三か月ほどユリウスと会わないでいた時期があったの。その間に何か……あった?」
フェルナンドはうーっと言いながら目を逸らし、サイラスはくすくす笑いながら「じゃあ僕がバラそうかな!」と言って話し出した。
「もう大変。今までは『この程度の小物は放っておいていいよ』と言ってた程度の相手へ向かって、氷より冷たい言葉で殴る蹴る。もう戦意喪失しただろって相手へ向かって、まるで死体に鞭打つかのような仕打ち。で、その屍をご丁寧に溶けない氷の棺へ入れてあげてたよ」
……それって、八つ当たり……?
「あらあら、じゃあしばらく不機嫌だったのはキキに会えなかったからなのね? ほーんと、いつまで経っても男の子はダメねえ」
「まったくだわ。サイラスもキキにそこまでバラしたら、ユリウス様の立つ瀬がないでしょう。ほんと、男の子はダメだわ」
「「母様もユーリおば様も、三十路間近の男を子供扱いしないでください」」
母親には敵わないらしく、苦笑いをしながら席を離れていく兄弟。それを見送りながら、ユリアナ様はわくわくした顔で「さ、女同士でおしゃべりしましょ!」と紅茶を淹れなおしてくれた。
私はその日、ペティとユーリ(と呼ばされた)と一緒に、ずーっと笑いながらおしゃべりした。そして夕方になってからユリウスのお父さんが合流し、回らない口で懸命に「レオン、ハルトさ、ま」と呼んでいたら「近いうちに娘になるんだろ? レオンて呼んでみようか」とユリウスみたいなニッコリした笑顔で言われた。




