溶ける劣等感 sideキキ
顔の熱をなんとか冷ましたかった私は、甘く蕩けるような顔をしたユリウスの腕の中からようやく解放されていた。緩んでしまう頬を隠したくて両手で顔を覆っていたけど、ユリウスに「これじゃ話ができないよ?」と言われて渋々と顔を上げる。でもその途端にまた頬へキスされるので「これじゃエンドレスだよ」と文句を言った。
「はは、確かに。じゃあランベルトとエルを待たせちゃったし、書斎に戻ろうか」
「うん」
ドアを開けて書斎に戻ると、エルが楽しそうにしゃべるのをランベルトが笑顔で頷いて聞いている。
「だからねお父さん! こうなったら魔王ギィを懐柔して、こちらの味方につけるのが得策だと思うの! 魔王だけど心根は優しいのよ?」
「ははは、確かにギィさんは優しいね。ぶっきらぼうだけど頭の回転も速いし……あー、なんでジンさんもギィさんも木彫り職人なのかなあ! うちの商会にほしい人材なのになあ!」
「――お父さん、その気持ちすごくわかる。だけどジンさんもギィさんも上流階級相手に我慢を強いられるようなポジションは似合わないよ。だめだめ、彼らはもっと自由な場所じゃなきゃ。あくまで今回はキキさんの味方になってもらうように懐柔するだけだよ!」
「そうだよなあ~エルの言うことが正しいね……あ、ユリウス様とキキさん。お話はもういいんですか?」
二人の会話を聞いていたユリウスは面白い物を見たという顔でくつくつと笑っている。私を自然な動作でエスコートしてソファヘ座らせると、すっと隣に座って二人へ話しかけた。
「レイズ商会からのお気持ち、確かに頂戴しました。つきましては水晶に関するご相談を定期的にうかがって、最善の道を模索しましょう」
「ありがとうございます、これは心強いですね。ではまた四日後にお邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。エルにも会えるかな?」
「はいっ! 私もユリウス様にお会いしたいです!」
「あはは! ……ほんとに二人とも、ありがとう。ランベルトさん、後ほど私の秘書でエルンスト・瑠璃という者がお宅に伺うかもしれません。決して怪しい者ではないので、彼の話を聞いてもらうことは可能ですか?」
「……シンクタンクの」
「ええ、全幅の信頼を寄せている秘書です。私からレイズ商会会頭へ提案があるんですが、私よりもエルンストからご説明した方が確実なので」
「もちろんです。お待ち申し上げております」
私にはよくわからない仕事の話をしたらしいユリウスは、くるりとこちらへ顔を向けてしげしげと眺めた。
「それにしてもキキって何でも似合うな……伊達眼鏡しててもかわいさが隠れてないんだけど」
「 !? な、なに、言ってるのユリウス」
「いやいや本当ですよキキさん。変装させたのに容姿が引き立ってしまうからどうしようかと思いましたよ。あなたに気配を殺せる特技がなければ、エルと同じくらい目立ったでしょうねえ」
「あれスッゴかったよねお父さん! 私もあのキキさんには、いるってわかっててもぶつかっちゃうかもしれないもん」
「うーん……ちょっと方策を考えてみようか。その件もあとでエルンストから相談させますんで、よろしくお願いします」
「承知いたしました、ユリウス様」
こうして時間は短かったけどユリウスと無事に合うことができた私は、ファルケンハイン家を後にした。
――私の中でユリウスへの気持ちに対する答えは出ている。でもそれを押し通した時にどうなるのかという予測はまったく立っていない。こういう不安って、ランベルトに相談していいものなのかな……
そんなに遠くもない距離を馬車に揺られて移動している間、私は悶々と考え込んでいた。でも私の狭い視野では、この大渦をどう泳げば対岸へ辿りつけるのかっていう正しいルートを見つけることができない。なんて、バカなんだろうな、私。
馬車を降りてランベルトの屋敷へ着くと、自己嫌悪でしょんぼりした私を感じたらしいエルが手を握ってくる。エルはなぜかこういう勘も鋭いんだよね……
「キキさん、元気ない? ユリウス様と会えてうれしそうだったのに。さっきは温かい気配だったけど、いまはなんだか気持ちの気温が下がってるよ?」
「エルは、本当にすごいね。気持ちの気温がわかるんだ?」
「ん~、目が見える人って表情でわかるんでしょ?私はその人の動き方とか漂ってくる気配で大体わかるよ」
「……そっか、そういうのって重要だよね。私もユリウスが隠し事うまいから、彼のことだけならわかるんだけど。エルは会う人全部にそれだけ神経を集中できるってことなんだね。エルはとっても素敵な子だよ」
話しながら作業場へ戻って、服を着替えた。やっぱりあのお仕着せは肩が凝る。でも変装させてくれたおかげでユリウスに会うことが出来て、本当に嬉しかった。ランベルトとエルには、感謝しかない。
作業場を出るとランベルトは応接間でお茶を出してくれた。そしてヨアキムのような「暖かく見守っている瞳」で話し出す。
「キキさん、不安なんですね?」
「……うん。ランベルトには、きっと理由もわかってるんでしょ。さすがエルのお父さんだよ」
「あはは、伊達に愛娘を見つめ続けていないですからね! ユリウス様が好きな気持ちは押さえられないとわかっても、これからどうなるんだって不安なんでしょう」
「……うん」
紅茶を一口飲むと、その温かい液体が「気持ちの気温」を上げてくれたみたいでホッとする。
「ねえキキさん。私と妻のエリーゼはね、お互い深く愛し合っていたと確信しています。妻を殺したクレメンティーネは私と商売の関係で会った時に『あなた見目もいいし、私の夫にしてあげるわ』と言い出したんです。そのころ既に複数の男性と浮名を流していたクレメンティーネは周囲から冷めた目で見られていたんですが、私は商売相手だから普通に笑顔で接したんですよ。ただ、それだけ。それだけの出会いであの女に執着され、丁寧にお断りしようがイラついて返事をしようが取り合ってもらえず、男娼を選ぶように私を手に入れようとしていた。そして私はお互い愛し合っていればどんな困難も乗り越えられると信じて結婚した最愛の妻を亡くしました」
ふう、とため息を一つついて、ランベルトはまっすぐ私の目を見た。
「私とさえ結婚しなければ、エリーゼは死なずに済んだ。何度そう思いつめて自分を罰しようとしたことでしょう。でも私にはエルネスタがいて、あの子のために動いた結果、ユリウス様やあなた方工房の人々との出会いという救いが訪れた。
――ねえキキさん。結婚すればあなた方に必ず幸せばかりが訪れるだなんて言いません。でもね、私にはエリーゼと過ごした日々が宝物なんです。誰にも、未来がどうなるかなんてわからない。その時一番大切だと思ったことを、一番大事にする。それしか人間て、道を選べないと思いませんか? そうやって選んだ道の先に何があるかはわからないけど、後悔もするだろうけど、生きているといいことがあるんです」
こくんと紅茶を飲んだランベルトは、微笑む。
苦渋を味わった人にしか出せないような、微笑み。
たまにヨアキムにも見ることができる、微笑み。
なんだか胸が痛くなる。こんな慈愛に満ちた笑顔ができるようになるまで、ランベルトもヨアキムもどれだけの辛酸を舐めてきたんだろう。私には想像もつかない。
ケダモノの国を必死に駆けずり回ってる時は、死んで無になるか、生き伸びて人間以下のモノに成り下がるか、それしかなかった。それは0か1かっていう違いだったけど、その0と1の間にある細くて険しい道を歩んだ彼らしかこんな微笑みを会得できないのなら。
デミはなんという生ぬるい世界なのか。
死ぬより生きる方が苦しくて難しいんじゃないかと思うことが多々ある。そして殺すより生かすほうが絶対に難しい。なのにデミでは簡単に人は死ぬ。愚かだから、すぐに簡単な方へ流れるデミの思考回路。私はヨアキムと出会って、教育されて、ユリウスに恋をして、ランベルトという賢い友人を得た。
だからデミの愚かさを理解することができたんだ。
あの建国祭で、ジンとギィと一緒に、悔しくて泣いた。
こんな汚泥に生まれたことが悔しくて、いつかあの青い池へ到達するのだと決心した。
でも私はもう、いつのまにかこんなに宝物のような素晴らしい人々に囲まれている。
知らないうちに青い池へ辿りついて、その洗練された心に触れて生活している。
ランベルトは黙り込んだ私をじっと見てから、最後にこう言った。
「ユリウス様とよく話して、周囲の人の言葉をよく聞いて。きっとギィさんもジンさんもあなたがどうしたいかを真剣に話せば力になってくれます。もちろん、私とエルもね」
きれいなウィンクをしておどけるランベルトを見て、なんだか私も力が抜けたように笑ってしまった。きっと私は「デミと外の差」にひどいコンプレックスを持っていて、それはこれからもついて回るだろうとは思う。
それでもわかってくれる人もいるんだと。
敵ばかりじゃなくて、味方もいるんだと。
そう、信じてみてもいいのかもしれない。




