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Transparent - 無垢の色 -  作者: 赤月はる
第二章 ユリウスの事情
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そのユリウスって誰






あまりに痛い想像をした私は、この純粋な女の子をこんな風に考えさせるデミへの憎悪を滾らせそうになった。

だけど、私にそんな資格はないのだと思って自分を諌める。

施政者側である私に、その手落ちの集大成でもあるデミへの批判などできない。


怒りを向けるとしたら、やはり、私自身に対してなんだ。


だから真剣にキキへ伝えなければ。


君はとても美しいんだと、伝えなければ。





意を決して、使用人に手鏡を持ってきてもらった。

キキが辛いと思っても、イヤだと思っても、今日の自分を見てもらう。


だけどキキは手鏡を裏返したまま、手を震わせて俯いてしまった。


可愛いキキ。

美しいキキ。

本当は、真綿でくるむように守ってあげたい。


なのに私はいま、正に心を鬼のようにして彼女を追い詰めている。

自分は醜いと思い込んでいるこの子が痛々しくて、早く解放したくて仕方ない。


いつまでも鏡を見ようとしないキキに業を煮やし、私はいつもなら絶対にしないであろう強硬手段に出た。寝室の壁面にある大きな姿見なら、どうやっても目に入ってしまうだろう。




――もうそんなに、恐れないでくれ、キキ。




思い切ってがばっと抱き上げると、その軽さに驚く。

どこもかしこも細くて華奢なキキは、それでも思った通り柔らかかった。

あの夏の日に強制的に知らされた彼女の柔らかさが、いま腕の中にある。



私が「大人に成長したキキ」を体感して少し驚いていると、キキは小さく悲鳴を上げた。全身を緊張させ、カタカタと震えが酷くなっていく。


――そんなに鏡を見るのが怖いのか。


私はあまり精神疾患に詳しくないんだけど鏡恐怖症エイソプトロフォビアの人には治癒院への慰問で会ったことがある。少しでも反射して自分が映りそうなものがあると、その人は部屋の隅で布団をかぶってガタガタ震え、独り言を言っていた。


キキはあそこまでの重篤な症状ではないはずだ。工房のバスルームだって普通に鏡はあるし、ヨアキムたちが彼女にこんな恐怖症があると知っていたら私へも注意を促すはずだ。


だったらキキが怖がってるのは「今日の自分」のみ。


キキ自身の「認識」を賭けたこの勝負、絶対負けるわけにはいかない。

この子が少しでも理解してくれて、自分を守ろうという意識を持ってくれるためなら嫌われても……かまわなくはないけど、つらくて仕方ないけど、我慢するしか、ない。


私にここまで悲壮な決意をさせるなんて、キキは酷いよ……




キキから嫌われてもおかしくないほど強引なことをしているつらさ。

腕の中で恐怖に顔色を失くすほど震えているキキの痛ましさ。


なのにこの子は恐怖を与えている張本人である私へ必死にしがみつく。


――そのいじらしさが可愛くて仕方ない私は、やはり歪んでいないか?





*****




ようやく顔を上げたキキは縋るように私を見上げている。

その破壊力といったらヘルゲの炎獄も真っ青な威力だけれど、そんな歪んだ悦びに浸っている場合ではない。


この子を早く、解放するんだ。


そして静かに自分を抑えて、キキへようやく自分の姿を見せることに成功した。

キキはただ無表情に、鏡を凝視していた。



「天使みたい、でしょ」


「……」


「娼館のお姉さんだけが美の基準じゃない。世の中にはたくさんの物差しがある。デミには天使みたいなお姉さんはいなかったから分からないかもしれないけど、キキは間違いなく美しいんだよ。少なくとも今日迎賓館で会った人たちが手放しで君を褒めていた言葉は、嘘やお世辞なんかじゃないんだよ」


「……ど……も、いい」


「ん?」


「誰かが、私をどう思ってたって、どうでも、いい。ユリウスが、怒るなら、もう自分を貧相だなんて言わないから。だから……嫌わない、で」


「私がキキを嫌う? 何言ってるのかな、有り得ないよ。えっと……そっか、ちょっと乱暴にこっちへ連れて来ちゃったから、びっくりしたんだね。あんまりキキが鏡を見るのを怖がってるから、強引に見せちゃえって思ったんだ」


「鏡は別に、怖く、ない」


「でも震えるほど鏡見るのをイヤがってたじゃないか」




――キキの言っていることがわからない。


鏡が怖いわけではないのは、なんとなくわかっていたけど。

でも自分の姿を見たくなくて震えていたのは事実でしょ?


それに嫌われるとしたら、どう考えても私の方だよね?

キキがこんなに嫌がっていることを強制した私が嫌われるんじゃなくて、どうして私がキキを嫌うなんて言うんだ。嫌いな子のことでこんなに真剣に悩むほど私はヒマじゃない。


というか、キキは自分の姿をちゃんと見たのに「どうでもいい」って言った?


弱ったな…自分の姿を見ていないからこんな状況になっていると思っていたのに。これが正解だと思い込んで、強制的に鏡を見せて、なのにこれも見当はずれ?


一体キキにこれ以上どう言えばわかってもらえるんだ?






キキに鏡を見せて良かったと思えたのは、もう彼女が震えていないことに気付いてからだった。それでも当初の予定だった「自分がきれいな女の子だと自覚してもらう」には程遠い結果で。


途方に暮れていると、なぜか復活したキキが「おろして」と言い出した。

いやいやいや、それは無理があるよキキ。

さっきまで自分がどれほど恐怖にまみれて震えていたか、覚えていないの?


そう言って書斎の方向へ一歩踏み出すと、キキは――


キキは、私が思いつきもしなかった、震えていた理由を語った。



「私が震えてたのは、ユリウスに嫌われるのが怖かっただけだよ。もう怖くないから、歩ける」


「 ? えーと、手鏡を見なかったのも、見たら嫌われるって思った? よくわからないよ、キキ……」


「違う。私はユリウスに、恋しているの。でも分不相応なお化粧されて、ピエロみたいな私は、王子様みたいなユリウスに、相応しくないの。ただでさえ、デミの人間だからユリウスの周りをうろちょろしちゃいけないのに、バカだから、恋しちゃったの。だからね、せめて嫌われたくないの。会えるだけで、いいの。だから、嫌われたら、会ってもらえなくなるから、怖いの」



恋している



キキが? 誰に? 私とヨアキムの眼鏡に適う男なのか? 王子様みたいなユリウス? そんなユリウスって誰だ、私と同じ名だよ、奇遇だね? で、君がバカだから恋しちゃった? キキがバカなわけがないでしょう、バカなのはその男に決まっているよ、ところでユリウスって誰? ピエロみたいな私? だからそうじゃないとさっきから言ってるのに、キキは強情だな。で、君が恋しているユリウスって、どこの誰? 嫌われたくない、会えるだけでもいいだなんて、君はどこまで健気なんだよ……そんなきれいな気持ちを向けられるその男は幸せ者だね、しかしいったいどこのユリウスなんだ?



「あ、だからね、鏡を見たくないってゴネちゃったのは、ごめんなさい。ピエロみたいな自分に決まってるから、ただでさえユリウスがかっこいいのに、あんまりその、みじめな思いをしたくなかったの。それだけなの、ダダこねて、ごめんなさい。だから鏡は、怖くないの。さっきユリウスが、私を嫌うとか有り得ないって言ってくれたから、もう怖くないの。だから、もう歩けるの」



キキ、私にはわからないよ。その「だから」はどこから来た「だから」なの? さっきから言ってるじゃないか、君のどこがピエロだって言うんだよ、どう言ったらわかってくれるんだ? で、君が恋しているユリウスって、ただでさえかっこいいユリウスって、どこの誰かな。君にみじめな思いをさせたユリウスがバカなのであって、キキはバカなんかじゃないんだってば。




――華奢なキキを抱く腕がなぜか震えてきた。


疲れてなんていないのに、なぜか脳が痺れて、心と体が分離して、理路整然とした思考ができなくなって、「このままじゃキキを落としてしまうかもしれない」という危機感だけが本物だとわかったので、その唯一の正解に体を従わせる。キキにケガなどさせたくない。


そうして「唯一」に従った私は、一番安全だと思われたベッドの端へ腰を下ろした。


では、最初から考えてみようか。


キキは恋しているらしい。


彼女が言う「ピエロみたい」だの「王子みたい」だのというのはキキの主観から来る修飾語だから取り除いてみよう。


『ユリウスに嫌われるのが怖かった。私はユリウスに恋している。化粧されても貧相な私はユリウスに相応しくない。デミの人間だからユリウスに付き纏ってはいけないのに恋してしまった。せめて嫌われたくない、会えるだけでいい、嫌われたら会ってもらえなくなるから怖い』


『鏡を見たくないとゴネたのは、貧相な自分に決まってるからみじめな思いをしたくなかった。だから鏡は別に怖くはない。ユリウスが私を嫌うとか有り得ないと言ってくれたから、もう怖くない。だから、もう歩ける』



……


……


私、か?



キキのきれいな気持ちを向けられている幸せな男も、ただでさえかっこいいとキキの目にうつっている男も、キキにみじめな思いをさせたバカな男も、どこの誰だか知らないけどキキの心を奪ったという憎たらしくて何度殺しても殺したりないなとつい考えてしまったほど罪な男も。


私、なのか?


愕然だか呆然だかわからないが大混乱した脳内で「そんなわけないだろう、自惚れた恥ずべき思考だ」とか「でもこれらの文脈のどこをどう抜粋しても私のことみたいなんだけど」とか会議になっていない会議が始まっていて、恐ろしいほど外界へ意識を向けることが難しい。


するとふわりとキキのマナが体に浸透して、金縛り状態が楽になった気がした。

ふと気付くと、私の腕の中にいたはずのキキが消えている。


かわりに出現していたのは、「私の足の間で膝をついて、手を軽く握って、心配そうに私を見つめている、破壊力が殲滅級な美しい女性」だった。






  

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