ウィーク・ポイント
目下の所、私がまったく勝つことのできない人物といえば……デミの工房にいるキキだ。
工房でヨアキムが保護した子、ジン、ギィ、キキ。
この三人全員に弱いと言えば弱いんだけどね。
なぜなら、彼らの無垢な心がずっと失われないから。
彼らは生まれ落ちた瞬間から、搾取され続けて生きてきた。
贅沢な欲など持つヒマもなく、ただ生きているだけで心を削ぎ落とされ、最後に残った「人間らしく生きたい」という小さな望みのため、真剣に生きている。
そんな彼らの瞳には、薄汚い我欲の宿る余地がないんだ。
だから、私は彼らに弱い。
ギィがチェスを覚えたい、もっと強くなりたいと思っていた頃のことだ。
彼は「こんな遊びに執着してるヒマはない、もっと体を鍛えて、もっと魔法制御を高めて、工房を維持するために仕事をしなければ」と自分を戒めて、あまり真剣にゲームをしなくなった時期があった。
その時ヨアキムは「そんなことを気にせず、やりたいことはどんどんやればいい」と言いそうになっていたと思う。彼は良くも悪くも優しい所があるので、私と同じく彼ら三人に甘い。
私は逆にそう言いそうになったヨアキムを止めて、ギィへ挑戦状を叩きつけた。「私はやるべきこともやった上で、チェスを楽しんでいるけど? ギィには両立もできないんだ?」と挑発したんだ。
三人に共通して言えることだけど、彼らはヨアキムに出会って初めて「楽しいことをする喜び」を知ったようなものだ。自分自身を全部使って生きなくてはならないのが彼らの常識だから、チェスのような「遊戯」で時間を使うことに抵抗がある。
特にギィが踏み込みたいのは「仕事への理解を深めるため」という大義名分を超えて「チェスを本気で楽しみたい」という段階への欲求だったからね。
ヨアキムが「好きなことをしていいんですよ」と言えば言うほど、甘やかされている居心地の悪さがギィに残るはずだよ。
……ま、結果的に言えば負けず嫌いなギィは発奮し、私を七割は負かす実力者になってしまった。自業自得だけど、おかげで強い対戦相手が常時いるという贅沢さだ。
そしてジンは、不思議な子だ。
この「暴力が対価」とでもいうべき環境下で育ったにもかかわらず、昔から弱者を庇う癖があったのだという。何でなの?と聞いてみたら、以前彼らの他にもう一人の仲間がいたのだそうだ。
ラスという少年は元々紫紺の一般人家庭で育っていた。だが親は事業に失敗し、ラスを置いて夜逃げしてしまった。その後どういう経緯だか、彼はデミの子供たちに紛れて浮浪児としてなんとか生き延び、子隠れの穴に辿りついた。
そこでジンに出会い、彼を弟のように気に掛けたのだそうだ。また、小さすぎて的にされやすいキキを見かねて穴へ連れてきたのもラス。そしてギィが偶然穴を見つけて参入し、四人で助け合って生きていた。
しかし彼に成長期が訪れて穴で眠れなくなった数日後、あっけなくラスは殺されてしまった。
それからジンは、ラスが心に住み着いたのだと言う。
彼がいなくなった辛さを、彼のように振る舞うことで誤魔化した。
その内それがラスの想いなのか自分の想いなのか区別がつかなくなってきた。
「だから今でもラスのように振る舞うんだ。それで俺は、いいんだ」とジンは言う。
なので、私はジンには厳しい言葉を多く浴びせる。
人の上に立つという時、人を人とも思わない振る舞いをする権力者は多い。それは往々にして「人を大事にしすぎると、人の上に立つのは難しい」ということの証左でもある。
でもその難しいことを無意識に目指しているジンは、希少種なんだよ。
私は彼を同志だと思っている。
だから、私の経験を総動員して彼を誘導した。
そして……キキ。
この子は非力な自分にいつもガッカリしながら、魔法制御や治癒の知識を磨き続けた。結果、現在では中央の本職でもここまで幅広く対応できる治癒師はいないというほどの腕前になっている。
本人はまったく気づいていないようだけど、治癒師にだって得手不得手はある。
内科専門だったり外科専門だったり産科専門だったりするし、普通は分野の違う専門家が数人いて初めて「治癒院」の体裁が整うのものだ。
でもキキときたら、師匠が良かったと言えばそれまでだけど、弱冠十六歳にして言うなれば「一人治癒院」になっているんだから恐れ入る。
そんな自分の特殊さなど鼻にかけず(気付いていないんだから当然だけど)、毎日ケガ人を治したり、みんなの体調を絶えず気に掛ける優しさを持つのが、キキ。
そんなキキの最大の特徴は「邪心のない素直さ」だ。
まさに私が勝てないタイプ、ナンバーワン。
話す時に目を見るでしょう。そうすると、彼女の大きなアーモンド型の目が何の邪心もなくキョトンとこちらを見るでしょう。更にその口から出てくる言葉と言ったら、素直さ満点。
まるでブランが人間になったのかと思うほどのつぶらな瞳と純粋さ。
しかも顔の整ったきれいな女の子だ、私とヨアキムが彼女を猫ッ可愛がりしないわけがない。
*****
夏も真っ盛りという暑い日、私はいつものようにハニートラップをくぐり抜けてシュピールツォイクへと足を運んだ。今日はケヴィンさんに出題されたチェス・プロブレムの解答をしようと思っている。
あの人は私とギィ、ヘルゲに対するチェス・プロブレムのレベル設定がおかしいと思うんだ。ギィには実戦的な問題も出すけれど、私とヘルゲには審美性を求められる問題が多い。
つまり「芸術的な手でキングを詰める、架空の局面」が多いんだよね。
しかもヘルゲはこういうパズル問題の方が異様に得意なんだ……!
勝てた試しがないんだよ。
まあ、そうは言ってもケヴィンさんのパズルが面白くて私ものめり込んでいるから、文句はないけど。
店へ入ると、いつものようにマナ・グラス売り場のプレミアムポスターが目に入る。もう随分経つのに根強い人気のこのポスターは、スキを見てアルマが少しずつ追加しているらしい。この前はカイとオスカーが餌食になっていた。オスカーって逃げ足遅いよね……
そんなことを考えながらパズル屋の方へ近づくにつれ、なぜか男性を中心に数人が鼻の下を伸ばして動きを止めているのに気付いた。中には魂を抜かれたような顔をしている青少年の姿もある。
その視線を辿った時の、私の衝撃を分かってもらえるだろうか?
明るい茶色の髪を無造作に片側でまとめた女の子。インディゴのサブリナパンツから伸びるすんなりとしたふくらはぎ。きゅっと締まった細い足首も、妙に人目を引く。そして小さな顔にはアーモンド型の大きな目がシンメトリーに、絶妙な位置にある、美少女。
本当に、どこにでもいそうな服装なのに、この注目度……
彼女の「周囲の何にも興味はない」というような無表情さが、男たちの「自分だけに笑いかけてくれないだろうか」という欲をかきたてる。
その彼女が今、何をやっているかと言うと。
おそらくオピオンのタトゥを隠すために着ているパーカーの胸元を開け、そこを掴んでパタパタと煽いでいる。それだけなら、まだいい。
問題は、下に着ているものだ!
すっかり汗を吸い込んでしまったらしい薄い生地のキャミソールは肌に張り付き、その白くてなめらかな胸元を布越しにほぼ見せてしまっている。
私は目の前が真っ赤に染まるかと思うほど、瞬間的に怒りで我を忘れた。
私のキキを、いやらしい目で見るんじゃない!
ほとんど小走り寸前という早歩きでキキの方へ歩く。私にもリンケージグローブが使えたなら、すぐにカミルへ接続して真っ黒い死の闘気を周囲の男どもに浴びせかけてやるのに!
誰かが近づいてくることに気付いたキキは、一瞬ビクリと警戒した。
しかし私だとわかると、あからさまにホッとする。
それはめちゃくちゃに可愛いかった。
いやいや、そうじゃない。可愛さにやられてる場合じゃない。
ものっすごく可及的速やかに解決してもらわなくてはならない重大案件がある。
あの不埒な男どもめ……!
「……こっち。キキ、こっちへ来て」
「ユリウス? な、なに……」
「いいから。こっちへ来て」
私は魂を抜かれてだらしない顔をしていた男どもにギロッと鋭い視線を送った。
彼らは一様に視線を外し、何も見ていませんという風に解散してゆく。
「な、何してるのキキ」
「何って……いま幻獣駒を納品してきたとこ」
「そうじゃなくて。なんで、そんな薄着で胸元あおいでるの」
「え……外へ出る前に涼もうと思って」
「だめでしょ、キキみたいなかわいい女の子がそんな無防備なことをしては。工房へ送っていくから、おいで。パーカー、ちゃんと着て」
何はともあれ、「それ」を隠してもらわなくては。
そして一刻も早く工房へキキを送り届け、アルマに対策を練ってもらいに行かなければならない。透けない素材! 真夏日でも涼しい素材! そうしないと私の可愛いキキが、不特定多数の男どもに妄想で汚されてしまう。
胸元が隠れたことに安心した私は、ようやくキキの様子がおかしいことに気付いた。
……腕に、ぺっとりしてこないな?
私にかなり懐いているキキは、何かあっても私が守ってくれると信じている。
デミの中では、自分の右腕に宿るオピオンで私を守るためにくっつく。
デミの外では、私の庇護下へ迷うことなく入るためにくっつく。
そんなキキの可愛らしい行動が「ぺっとり」なわけなんだけど。
さっきの私のイライラが怖かったのかな……
デミの子はそういうことに敏いから、あの不埒な男どもへの私の怒りを感じて、恐ろしく思ったのかもしれない。これは、かわいそうなことをしちゃったな。
なんとか宥めて、私はキキに何も怒ってなどいないし、いつものユリウスだよ?という雰囲気で安心させた。案の定キキはホッとした顔で私の腕にぺっとりとくっついてくる。
――ぷにょん
腕に感じた柔らかいものがなんなのか思い至った瞬間、ビシッと私の頭蓋骨がひび割れたかのような衝撃が走る。この感触はまさか。なんで今まで気付かなかったんだ。キキはもう十六歳の女の子であって子供ではない。きっと今までは厚めの生地の服を着ていたんだ、まったく気づかなかった。今日はいきなり暑くなったから、誰も彼もが大汗をかいて温度調整に四苦八苦していた。キキが今日着ていた服を思い返すと血の気が引いてくる。ほとんど下着かというほど薄いキャミソールの上に、木綿の薄手なパーカー。あまりの暑さにぶ厚いシャツなど着ていられなかったんだろう。そして有り得ない程柔らかいこの感触。
ノ ー ブ ラ と か 、 勘 弁 し て 。
思考が一気に脳内を駆け巡り「ノーブラ」という単語が出現した瞬間、私はみっともないほどのパニックに陥ってキキを押しのけた。
「うわぁぁぁぁぁ!」
「……びっくりした……どしたの」
「どしたのって……ど、どう……うああああ……」
「ユリウス、また私、何かしたの」
した。
いや、してない。
ブラジャーを、していない。
今まで数多のハニートラップを無傷で回避してきたこの私に、初めて胸を押し付けてきたのは、まさかのキキだった。




