ヨアキムと賢者
アルカンシエル国には紫紺・瑠璃・露草・緑青・金糸雀・山吹・蘇芳の主要七部族と、白縹一族がいます。
この物語の舞台はその大国アルカンシエルの首都である「中央」の街。
その中にあるスラム街「デミ」と、紫紺の支配階級社会です。
私は、キキ。
どの部族かって聞かれてもわからない。強いて言うなら、オピオンのキキ。デミのケダモノから生まれたみたいだけど、誰が私を産んだのかなんて知らない。だって「デミのガキ」はみんなそういうものだから。
中央の街、南西の地区にあるスラム街――通称「デミ」の子供は、毎日殴られたり蹴られたりが当たり前。性欲のはけ口になることもあれば、イライラしているケダモノに嬲り殺されるおもちゃになったりもする。
そんな世界で、私たち三人は幸運にも「子隠れの穴」という避難場所を見つけて、他の子供よりもかなり安全に数年を過ごすことができていた。まあ安全と言っても、結局は食べ物を手に入れるために毎日必死に走り回らないと餓死決定だったけど。
そういう生活をして十歳になった頃、養父に出会った。養父なんて言うと、きっとヨアキムは感動して泣いてしまうから、言ったことはない。でも私とジンとギィは、口には出さないけど彼を父親だと思ってる。
ヨアキムには、ギィが最初に出会った。本当に奇妙で、ヘンテコな人だった。清潔そうな服を着た、痩せぎすな男の人。デミのケダモノに絡まれて餌食になるかと思ったら、彼は抜群の魔法力であっさりとそいつらを叩きのめしたらしい。
そしてどう考えてもヘンテコだったのは、出会ったばかりの私たちに純度の高い魔石を一つずつくれたことだった。結界方陣の入ったその魔石は、一つ売れば私たち三人の半月分の食費になること間違いなしの品質。それを、三つ。しかもジンの眼鏡を作るため、さらに四つの魔石を潰してレンズを作ったりしている。
私たちは、呆れた。本当に、呆れたけど……
初めてだったの。
力のある大人が、私たちを真剣に気に掛けるっていうのが。
初めてだったの。
何かをやり遂げたら「よくがんばりましたね」って笑いかけてくれるっていうのが。
私たちは月明かりの草原で、ジンの無事を喜んで大泣きしたヨアキムが忘れられない。私たちの命があることに、あんなに喜んだヨアキムを。
*****
「オピオン」というのは、私たちのグループの名前。
……たぶん、グループって言い方でいいと思うけど、要するにヨアキムに保護された私たちが初めて所属した「生きる場所」のこと。
あのままだったら私たちはそのうち穴に入れなくなってデミへ放り出され、こんなご立派なことにはなっていなかった。ギィはきっと順調にケダモノへ育っただろうし、ジンは運が良ければ生き延びて、やっぱりケダモノになったかも。そして私は、どう考えても穴を出て数日で犯されて死ぬか、娼館にでも拾われて病気や老いで商品にならなくなるまで客をとっていたはず。
でもヨアキムはまるで手品のように、私たちに選ばせたの。
何になる?って。
美しい幻獣駒を見せて神話を語り、自分たちを何に守らせて成長する?って。
ふふ、信じられないでしょ。
「ケダモノになるか、死体になるか選べ」じゃないの。
「どの幻獣に自分たちを守らせて生きていくかを選べ」だったの。
私たちは三人で話し合って、一つの幻獣に決めた。
それが、オピオン。
「創世の蛇」と呼ばれ、無の中に有を作り出した、目のない蛇。
汚い混沌で生まれた私たちが、何かを作り出せるかもしれないって……心に、小さな明かりが灯ったあの夜。数日後、右腕にそのタトゥを刻んだ私たちは「自分がしっかりしてさえいれば、もうケダモノになる未来はない」という、途轍もない高度へとヨアキムに引き上げてもらった。
……ほんと、晴天の霹靂ってあのことだと思う。あの時はなにも知らない無学の子供だったから、そんな言葉は知らなかったけれど。
だって、心の持ちようだけでケダモノになる未来を回避できるだなんて。
ヨアキムに会わなければ、私たちはケダモノか死かの二択だったんだもの。
***** ***** *****
デミ中心部にあるメゾネットをデミ最大マフィアである「ケイオス」のボスから与えられたヨアキムは、チェス駒の製作をする木彫り工房を作った。そこで暮らし始めた当初、私たちは戸惑ってばかりだった。まず、キッチンの使い方がわからない。まさか屋台の食べ物みたいなものが、自分たちにも作れるだなんて思わなかった。
トイレやバスの使い方も、知らなかった。でもヨアキムが疑問に答えてくれるっていう案内人形を備え付けてくれたから、半年くらいで私もいくつか料理ができるようになったの。火加減とかわからなくて、最初は目玉焼きを炭にしちゃうところだったけど。
そのうち自分たちで食事を作れるようになったし、三食をバランス良く食べる献立とか、調味料の使い方とか、いろいろ案内人形へ聞くようになった。その案内人形は「こういうことが知りたい」って入力すると、驚くほど丁寧な説明を返してくる。たまに案内人形へ立て続けに質問しては回答を見て、またそれに質問したり。まるで生活に関する先生がそこにいるみたいだった。
そのうちギィが「こいつ何でも知ってやがんな……負かしたる!」などと言い出して、人形へ挑むように質問を入力した。でも毎回的確な答えが返って来るので根負けし、案内人形のことを「賢者」なんて呼ぶようになった。
賢者は、私たちにたくさんの知恵をくれる。
でもジンとギィが『暴力に対抗する技術が欲しい』と入力すると、選択肢が出た。
・相手を殺すための技術
・相手の動きを止めて、抵抗できなくする技術
・相手の攻撃を防御するための技術
賢者は、どれだ?って聞いてきた。こんなことは、初めてだった。
ギィは少し考えた後、二番目か三番目が欲しいと答える。
すると賢者は、またしても見たことのない反応をした。
『君たちは、正しい答えを出した。雇用主へ必要な物を授けるとしよう、数日待つがいいよ。詳しくは雇用主に聞きたまえ』
その数日後、ヨアキムは木製のパペットを持って工房へ来た。
「ジンとギィは、これで訓練しなさいって賢者が言ってましたよ」
「……なんだ、それ?」
「パピィです。武術と格闘術の型を実演してくれたり、組手もできる人形なんですよ」
「どうやって使うんだ」
「ああ、賢者から訓練メニューももらってあります。この通りにがんばってください」
本には図解付きで各種体術の解説と注意が書いてあって、ジンとギィは夢中になって訓練しはじめた。数年後、ジンは合気柔術やトンファーを使いこなすようになった。ギィは空手とキックボクシングと捕縛術と棒術と……もう何が何だかわからないほどたくさんの技を使うようになった。
私もがんばったけど、あまり上手くはならなくて。やっぱり筋肉の付きにくい、貧相な体格だったし。仕方ないので、今まで通り魔法で役に立てるようになろうと考えて勉強に精を出した。
そういえば工房に住み始めて一年経った頃、初潮が来た時には半泣きで賢者に頼ったっけ……
下着に血がついていて、いつケガしたんだろうと考えたけど、思い当たらない。お腹の内側が痛いから、私はきっと内臓に病を持っていて、下血したんだと思った。
せっかくヨアキムにケダモノへの道から掬い上げてもらったのに、彼らのそばから遠からず自分が消えるのだと思うと、心臓がぎゅうっと痛くなる。
だって、きっとヨアキムはたくさん泣いてしまう。
私たちはラスが死んだ時に泣かなかったけど、それは泣くほどの余裕がなかっただけだった。ジンも、ギィも、私も、あまりの衝撃に脳が痺れてしまって。でもそんな呆然自失状態でいたら隙ができて殺されてしまう。
だから、ラスのことを心の中の頑丈な箱へ仕舞い込んだだけ。
でも工房での安全な眠りに慣れてきたら、その箱は案外簡単に錠前が外れた。
私たちは悪夢を見るようになり、汗をびっしょりかいて飛び起きる。他の二人も同じ。私たちはお互いが泣く所を、工房で初めて見ることになった。
私が死んだら、きっとジンとギィの悪夢は倍になってしまう。
私が死んだら、ヨアキムは自分の涙で溺れてしまう。
私は焦って、彼らを残して消えたくないと思い、泣きながら賢者に入力した。
『下血した 死にたくない』
その時の賢者は、やっぱりいつもと違った。
私の症状を聞き――それは初潮であって病ではないこと。大人の体になっていっている証拠であること。人体の構造について図解で説明しながら、賢者は粛々と私が内臓の病ではないことを証明してゆく。
賢者は手当の方法を教えてくれたり、そのための品物をこっそり届けてくれた。月経の間の過ごし方や、ホルモンバランスの影響で気分まで左右されることも説明してくれて、私はようやく安心できた。そして私が理解して落ち着くと、賢者は言った。
『これまで以上に自分の体を守りなさいな。いつか、たった一人に自分を捧げようと思える日が来るまで』
その時の私には「捧げる」というのがどういう意味かわからなかった。
自分を売らずにタダでつっこませるという意味だろうか?
お金などいらないからと思える人が出来るまで、もったいぶれということなのだろうか?
そんな風にしか、理解はできなかった。
それでも賢者が言った「自分の体を守れ」というのには同感だった。
ケダモノにつっこまれて心が一気に死んでいく子供はたくさん見たし、何より体を死なせてみんなを悲しませたくない。
だから賢者が「自分の心と体を守れ」と言ったのだということは、しっかり理解できた。
キキ10歳から11歳