38.転機
石造りの地下室の中央では、カフリノが佇んでいた。
ウラガーンが入ってもまだ余裕のあるこの部屋は、元々ユエンが表立っては難しい実験をするために使っていた部屋である。そのため麻袋に入っている素材以外はほとんどなにも置かれておらず、広々としていた。
「面倒な事だ」
オルレニアがぽつりと呟く。
屋敷に戻って確認すると、素材は予想通り、『黒』による浸食を受けていた。
『黒』は、ほかの『色の力』に比べて除去が難しい。魔術によって複雑に溶け込ませた『黒』を除去するのは至難の業である。
それを証明するかのように、オルレニアが強引に『黒』を引きはがした素材が、砂状に崩れていく。
「これで、ノーグ商会が敵である可能性が高まったな」
オルレニアは手のひらに残った素材の残り滓を握りつぶす。
アルテはその隣で、ぼんやりとその光景を眺めていた。
『崩れた色彩』が上手なのか、自分の判断がいけないのか。あとすこしだと思っていたことが一向に終わらない感覚に、少なからず疲れがあった。
「これだけの素材を揃えるのも簡単なことじゃないんだがね。これを注文したせいで、サルマンにも大きな借りを作ったんだ」
『キラキラしている石は、確かにめずらしい。山の主などがよく集めていた』
「ほう、それは面白い話だね」
『話しかけるな。きもちわるい』
牙を剥いて、ウラガーンがユエンから距離を取る。
普段と変わらない二人――正確には一人と一匹――の様子を見て、アルテは軽く頭を振ると、オルレニアの顔を見上げた。
「いかがいたしますか、ヴィエナ様」
オルレニアは眉間に皺を寄せながら、悩みこんでいた。
ルフィアが捕まっている現状に焦りもあるのだろう。先ほどからアルテは、オルレニアの考え込んでいる姿を多く見ていた。
「特区の戦力を削ったとはいえ、崩れた色彩が動き出すまでそう時間はあるまい。こちらも反撃を考えねばならぬ」
「ノーグ商会を叩くかね? 私は手っ取り早い方法だと思うが」
「否。我が魔術を使い、この街に潜む者どもを殲滅する」
アルテは思わず、目を剥いた。
まさかそんな選択をするとは、思っていなかったからだ。
「お言葉ですがヴィエナ様。ルフィアさんがこの街にいた場合、それは危険なのでは?」
オルレニアの『色の力』は、群を抜いて強大だ。しかし、極力それを使おうとしない理由を、アルテは察していた。
『白』にとって、『黒』は最も危険な『色』である。
周囲の『色』を自らの中に取り込み、自分のものにすることが出来るのが『白』の特徴だ。そんな『白』の特徴を『黒』は逆に浸食に利用し、崩壊させてしまう。
『色』が崩壊した生物は、死に至る。
オルレニアが『色の力』をほとんど使おうとしないのは、隣にいるルフィアのことを気遣ってのことだと、アルテは予想していた。
「それでルフィアが死んでいては、元も子もあるまい」
オルレニアの外套に黒い靄が掛かった。
瞬きの間に、オルレニアが立っている床が黒く染まる。一切の光を呑み込むその『黒』は、アルテに本能的な恐怖を抱かせた。
たしかにオルレニアの力があれば、『崩れた色彩』を炙り出し、殲滅することも可能だろう。
しかしその方法は、あまりに危険だった。
「多くの住民も巻き込みます。罪なき人々を傷つけることに、わたくしは賛成できませんわ」
「崩れた色彩が動くならば被害は出る。この方法であれば被害は最小限に納められよう」
「ですが――っ」
食い下がろうとして、アルテは口を噤んだ。
オルレニアの技術ならば、被害を最小限に収めることが出来てしまう。ルフィアの現状がわからない以上、なるべく早く行動をしなければいけないのは事実だった。
そしてオルレニアには、大きな焦りがある。ルフィアの存在が大きければ大きいほど、それは大きくなるはずだ。
オルレニアにとってのルフィアが、自分にとっての妹であるならば、止めることなど出来なかった。
『おい』
意識の外から声をかけられ、アルテは驚きながら振り向いた。
背後では素材の入った麻袋を横倒しにして、中身を散乱させているウラガーンがいた。
『綺麗なものがあるぞ』
その口には、素材の一つである枝が咥えられていた。わずかに薄青の花弁がついたそれは、たしかに見た目だけは綺麗に見える。
アルテは苦笑いして、ウラガーンに歩み寄った。
「それじゃだめなのよ、ウラガーンさん。崩れた色彩が手を加えているから……」
『そんなことはわかっている』
喉を撫でるアルテに、ウラガーンは首を振る。
『わずかだが、ルフィアの匂いがする。綺麗な匂いだ』
ふん、と鼻を鳴らしてウラガーンはいくつかの素材を前足でかき出す。
まさかと思ったアルテの隣から、オルレニアが身を乗り出した。素材の一つをつまみ上げ、眉を顰める。
「何だと?」
床の色が元に戻り、既にオルレニアの体から、『黒』の靄は消えていた。膝を着き、素材を見つめて言葉をこぼすオルレニアの前で、ウラガーンがふわりと銀色の尻尾を振った。
「よもや、黒を排したと云うのか」
オルレニアの眉間の皺が、わずかにやわらいだ。
つい直前まで最も殺気立っていたオルレニアの光明を見つけたような表情に、空気が一変する。
「問題が解決したのかな? 私には、何もわからないが」
エメラルド色の目を瞬かせて、ユエンが面白そうに笑った。興味を惹かれたのか、オルレニアと同じように素材をつまみ上げて、じろじろと眺めている。
アルテはウラガーンから咥えていた枝を受け取ると、こくりと喉を鳴らした。
「よくぞ見つけた。これらは、黒に染まっておらぬ」
『私を褒めるな。褒めるなら、ルフィアを褒めろ。たくさんな』
誇らしげに尻尾を振るウラガーンの前で、アルテはゆっくりとオルレニアへ視線を向けた。
立ち上がり、オルレニアが恐ろしい顔を歪めて笑みを浮かべる。
「ヴィエナ様――」
「喜べアルテ。ルフィアの白が、崩れた色彩の黒を退けた様だ」
アルテは目を見開き、口をぽかんと開いた。
生物の体には、使うことは出来ずとも『色』が巡っている。
それは外部から侵入する他の『色』を退けるための力にもなり、内に抱える『色の力』が多ければ多いほど、抵抗力は強くなる。
驚くべきことに、ルフィアの『白の力』は体の内に収まらず、触れたものの『黒』までもを退けたのだ。
「失敗した時のために、多めに頼んでおいて正解だったね。一回分くらいは無事のようだよ」
ユエンの声が、遠くから聞こえたように感じた。
じわりと胸のなかが熱くなり、アルテは口を結ぶ。
少しの間、溢れ出そうになる感情を抑えてからアルテは部屋の中央に立つカフリノへ顔を向けた。
「では、カフリノの復活が行えますのね」
ずっと、待ち続けたことだ。
たった一度の失敗も許されないが、失敗しなければいいだけのこと。成功の確信を得られるほどには、研究した。
カフリノが復活すれば、オルレニアが力を使う必要もない。
わずかに時間はかかるが、『崩れた色彩』のとの戦いでも、万全の『色の騎士』として力を発揮できる。
問題は解決した。
「すぐに行いましょう。ヴィエナ様、力をお貸しくださいませ」
「先の判断を自戒せねばな。指揮は委ねるぞ、アルテ」
「ユエン、お願い」
「わかっているとも。これまでに何度、君の実験を手伝ったと思っているのかね」
素材を配置し、『色』を流すための模様を描き、アルテの指示で、魔術の準備が整っていく。
そんななかで、アルテはわずかな気がかりを持っていた。
それはルフィアの、異常な『白』の力について。
「あとで、聞いてみましょう」
今は目の前のことに集中しなければならない。アルテは思考を切り替えた。
『白の力』を持つ者は、そう多くない。生まれつき『白』を多く持つ者は『色』への抵抗力が低く、ひ弱だからだ。
そのなかで、触れるだけで『黒』を退けられるほどの『白』を持つというのは、尋常な存在ではない。
白の娘。
アルテは頭に浮かんだその名前を、そっと片隅に残したのだった。
◎◎◎◎
手錠で後頭部を殴られた人型の影が、床に崩れ落ちる。
ルフィアは同じようにして石の床に伏す二人の影を見てよし、と頷いた。
足枷を外して、牢に入ってきた影たちを倒すことには成功した。
一人は不意打ちで、一人は奪い取った短刀で、もう一人は手錠で。無事に終わったが、これまでにないほどの集中力を発揮したように思う。
ルフィアは影の一人から鍵を奪い、口で咥えて手錠を外した。
「行こう……」
開いたままの牢の扉から、燭台が左右に備えられた長く薄暗い廊下に出る。
外の音が聞こえず、窓もないところを見る限り、ここは地下のようだった。
ずっと裸足だったせいで、すっかり足の感覚は麻痺している。しかしそのおかげで、冷たい石の床でも体はしっかりと動いてくれる。
捕らえられていた隣の牢を見ると、人のものと思われる骨が散乱していた。
肉や皮が付いていないところを見る限り、放置されて長いのか、あるいは丁寧に処理がされているらしい。
気分を悪くしながら、音を立てないように腰を低くして歩を進める。
どこの牢を見ても、生き物の姿は見えない。そこにあるのは骨や、人の顔をした木材、動物と人を混ぜたような金属製の像だった。
「一体、なにをする場所なの……?」
気味の悪さを覚えながら廊下の突き当たりまでくると、上へ向かう螺旋状の階段があった。
ルフィアは影から奪った短刀を握り、軽く肩から力を抜いた。エメレイがいるとすれば、この先だ。
普段の装備ならエメレイには勝てるが、今は短刀と動きにくいドレスである。加えて、片足は関節を外したばかりで鈍い痛みと違和感があった。
まともにやればルフィアが遥かに不利な状態だが、外に出るためには倒さなければない相手だ。
足音を立てないように階段を上り始める。
鈍痛のせいで、体を持ち上げるのは片足になってしまう。時間が
かかる事に歯がみしながら、しばらく階段を上ると、上の階が見えた。
石造りの部屋のようだった。
廊下と同じく、蜜蝋燭で部屋は照らされている。その光に、人影が映し出された。
「……!」
短槍を持った男の影――エメレイだ。
机かなにかがあるらしく、そこに寄りかかるようにして立っている。『崩れた色彩』に、そうしているように指示を受けているのだろう。
視点は階段のほうを向いているが、警戒はしていないように見える。ルフィアは短刀を右手で強く握ると、大きく引いて構えた。
決して悪人ではなかったが、今は敵だ。
反応する前に、一撃で殺す。
ぎりぎりまで階段を上り、最後の二段を飛び越える。
飛び出した先に、エメレイはいた。短槍は肩に預け、握ってさえいない。
「ヤァッ!!」
ルフィアは無事な足で石の床を蹴ると、一気に加速した。
蝋燭の炎に黒い刃が煌めき、エメレイの顔に驚きが走る。
狙いは寸分違わず、エメレイの喉元へと刃は迫った。
「うおぉっ!」
しかし、刃はエメレイの顎を掠めただけで終わる。
ルフィアの感覚に、体が付いてこなかった。疲労と足の鈍痛が邪魔をして、大幅に速度が落ちていたのだ。
頭のなかで悪態を吐くより早く、ルフィアは後ろに跳んだ。
遅れながらも短槍を構えたエメレイの間合いから逃れる必要があった。
互いに動きを止めると、エメレイが息を震わせながらにやりと笑う。
「まさかとは思ったが、出てくるたァ驚きだ」
「わたしは、鉄を斬れますからね。あの程度で捕らえておけると思わないでください」
「ハッ、その程度で騙せると思ってるのか」
エメレイの目が、ルフィアの右足に向いた。
「関節を外したな? だから俺を仕留めそこなったわけだ」
「さて、どうでしょう。情に流されたのかもしれませんよ?」
「ありえねえ。そんなやつは傭兵なんてやらねえよ」
ルフィアは視線だけで周りを見るが、状況はかなり悪い。
石造りの部屋は人が五人並べる程度の幅しかない四角形で、地上に繋がるのかもしれない螺旋階段は部屋の隅にひとつだけ。
そして、エメレイは螺旋階段を背において短槍を構えている。
「どいてくれたりはしませんか?」
「嬢ちゃんが俺の首を狙わなければ、あったかもしれねえな」
「勘違いしたんです。ほかの人と」
「俺は善人だからなあ、そんな危険人物は放っておけねえよ」
「わからずや」
「うるせえ」
ひとまず動ける程度に、足の痛みは落ち着いた。
ルフィアは短刀を構えるが、思わず顔色を悪くしてしまう。
「いつでもかかってこいよ。串刺しにしてやる」
不調のままでは、まず正面からは勝てない。
かといって、エメレイが攻めてくることはない。彼は階段の入り口を守るだけでいいからだ。
唯一ルフィアがエメレイに勝っている身軽さを活かすにも、部屋が狭すぎる。
まるでルフィアを封殺するために仕組まれたような状況だ。
「いつまでだって待ってやるぜ?」
「へえ、素敵な誘い文句ですね」
「はっ、かわいらしい考えだ」
ルフィアが動く。
思い切り踏み込み、エメレイの間合いに入る。そのまま短刀を構え、エメレイが振った横薙ぎを受け流した。
ずきん、と足に痛みが走るのを無視して更に踏み込むが、短槍が突き出され、ルフィアは身をよじって下がらざるを得ない。
得物の長さが大きく影響していた。
エメレイは下がったルフィアへの追撃はしない。どこまでも受けの姿勢でいるつもりの様だった。
「憶病者」
ルフィアが鼻で嗤って挑発すると、エメレイは一瞬だけ反応を見せるが、すぐに笑い返す。それから口を開き、言葉を返そうとするエメレイにルフィアは短刀を構えて迫った。
「チッ!」
ルフィアが間合いに入ると、エメレイは槍を上段から叩きつけるように振るった。刃に手を添えてルフィアはそれを床に流すと、短刀の間合いの外からエメレイに向かって切り上げを行う。
エメレイは咄嗟に短槍を引き戻すが、短刀が届かない距離だと理解すると、顔をしかめた。
すでにルフィアは大きく身を落として、右斜めに迫っていた。
「舐め――」
懐に入り込み、短刀で撫でるようにエメレイの肩口を斬った。
しかし革鎧で守られていない部位とはいえ、内側には防寒具を着ている。深くは入らず、エメレイは思い切り槍を振るう。
「――るなァッ!」
直前までルフィアがいた場所を鉄の短槍が叩き、火花が散った。
肩からぽたぽたと血を流しながら、エメレイはルフィアを睨み付ける。
いくら短槍とはいえ、鉄製だ。エメレイの片腕の力で振るうには難がある。
片足にハンデを抱えたルフィアと、これで条件はほとんど同じになった。
「クソッ」
「通してもらいますよ、エメレイさん」
片足の鈍痛、違和感にもだんだんと慣れてきた。
本調子よりは数段劣るが、少なくとも感覚のずれによる失敗は犯さないはずだ。
様子見をするルフィアを睨みながら、エメレイは一歩後ずさった。
「元から、一対一は苦手なんだよ。こういうのは、強いやつが強いからな」
「なんの話ですか?」
「俺の話だよ。俺は何でも使えるが、どれも中途半端さ。天才さまには、やっぱり敵わねえ」
会話による時間稼ぎが目的か。
ルフィアが短刀を構えると、エメレイは螺旋階段へ足を乗せた。
「卑怯者と嗤ってもいいぜ? 俺は依頼を果たすまでさ」
そのまま、階段を駆け上っていく。
拍子抜けな状況に、ルフィアは腕を下ろして螺旋階段を見つめた。
罠が仕掛けてあるのか、あるいはどこかで不意打ちでもするつもりなのか。
上って行ったエメレイを見る限り、罠があるようには見えない。
ルフィアはゆっくりと階段に近付くと、石造りの段差に触れながら上り始める。
そう長くはない階段は、すぐに上が見えた。
同時に、風が吹く音が聞こえる。
ルフィアが先程と同じように階段から先を確認すると、そこは物置きのようだった。
地下への入り口である床扉は開かれている。本来閉じられていたはずのところをエメレイが開けて行ったのだろう。
木箱等に気を遣ったのか、蝋燭などは備えられていない。ただ壁に開いた四角形の穴から、月明かりが差し込んでいる。
ルフィアが階段を上りきって部屋に出ても、エメレイの姿は見えない。樽や木箱の積まれた薄暗い部屋を見回すと、扉はすぐに見つかった。
「そういえば、わたしの持ち物」
扉を開けようとして、ルフィアは手を止めた。ここが物置きなら、自分の装備が置かれているかもしれない。
木箱や樽を開けて、中身を確認していく。
「ない、か」
しばらく探しても食べ物や鉱石、毛皮ばかり。
ルフィアはため息を吐くと、見つけた革紐で髪をまとめた。それから短刀を使って革にいくつか穴を開けると、革紐を通して草履にする。
急がなければ追っ手が来るかもしれない。
簡単に支度を終えると、短刀を構えたまま、扉を開けて外に出た。
「ここは、貧民区?」
星がきれいに見える夜空の下でも、鬱蒼とした空気があった。
職人区からの排水が流れているここは、本来人が住むことを想定してはいないのだろう。荒れた石畳の道の傍に、住民が建てたぼろぼろの家々が立ち並び、水道橋の周りには雑草が生い茂っている。
南の街とは違って外で寝ることがそのまま凍死に繋がるため、道で寝ている人間は見えない。
それでも、痩せ細った亡骸は探せば簡単に見つかりそうだった。
「おう、やっと出てきたか」
そしてルフィアが視線を止めた先では、二人の男が職人区へ向かう道に並んで立っていた。
「本来なら、前もゲルダンの支援に徹するつもりだったんだ。あんたの相方が、あんなバケモンじゃなけりゃ」
片割れ、エメレイが短弓を構えた。
「さっきも言ったが、卑怯者と嗤ってもいいぜ。依頼を果たすのが、俺の目的だからな」
「娘っ子一人を捕まえるために、大の男二人がかりとは面目立たねえが、お前ぇが相手なら仕方ねえよ。ルフィア」
もう一人を見て、ルフィアは思わず目を見開き、言葉に詰まった。
「ドルフさん」
「おう、すまねえな。俺もこっち側だ」
まるで街で会った時と変わりなく、ドルフは片手を上げて、軽く笑った。もう片手にはいつも持っている石槌があり、隆々とした身を包むのは要所に鉄板の付いた革鎧である。
ルフィアが今戦えば、エメレイよりも数段厄介な相手。
そしてその傍らには、弓を構えたエメレイがいる。
最悪の状況だった。
「さて、選びな。大人しく捕まるか、抵抗してぼろ雑巾になるかだ」
さすがに軽口を返す余裕はなかった。
ルフィアは背筋を寒気が走るのを感じながら、思考を回転させる。
まず、逃げることは得策ではない。貧民区は職人区しか入り口がない上に、物陰に隠れるまでの間に、エメレイに射抜かれる可能性もある。
体力的に劣るルフィアでは、そもそも逃げ続けられないという問題もあった。
だからと言って、立ち向かうことも得策とは言えない。自分の装備がすべてそろった状態でも、エメレイとドルフを相手に戦うことは難しいというのに、今の状態で勝ち目は薄い。
刺し違える気で挑めば勝ち目はあるが、ルフィアの目標は、オルレニアたちの下へ戻ることであった。
交渉しても、二人が応じる可能性はほとんどない。傭兵は、金の繋がりがもっとも深い職業だ。
金を支払えないルフィアに、彼らを寝返らせる手段はない。
ただ、試してみる価値はある。
「いいえ、二択じゃありません」
ルフィアは喉の奥から絞り出すように、小さく声を上げた。
そして地面に短刀を放り捨てると、肩から力を抜き、ドレスの裾を破いた。
妙な行動にドルフが槌を構え、エメレイが矢を弦に掛ける。
ルフィアはそれを見ながら破いた裾から手を入れて、下着に縫い合わされた硬いナニかを掴むと、思い切り引きちぎった。
ルフィアが指先でつまむと、月の明かりに照らされて、それは鈍く輝く。
「なんだ、それは?」
ドルフが訝しげな顔をすると、ルフィアは微笑んで小首をかしげた。
「……金貨です、ドルフさん」
金貨を手にした時、万が一を想定して、下着に一枚だけ縫い付けておいたのだ。
ドルフたちがいくらで雇われたのかはわからないが、この場において、これはルフィアにとって唯一の策であった。
ハッタリを、通すのだ。
「あなたたちが、いくらで雇われたのかは知りません。ただ、わたしを守ってくれるなら、前金で金貨一枚を出します」
「ほお、そういうことか」
「わたしを無事に目的地まで連れていけば、報酬として金貨十枚を出しましょう」
以前にケビンから受け取った金額は、金貨十四枚。
金貨十枚なら、ノーグ商会から引き出せば、なんとか支払い切れる金額だ。
正直、プラーミアのなかを移動するだけで金貨十枚というのは破格だ。貴族の子息であっても、報酬は銀貨数十枚がせいぜいだろう。
普通なら、乗らない理由がない話だ。
「それだけの金額を、支払える保証はあるのか?」
エメレイが矢じりの先をルフィアに向けながら問う。
これが大きな問題だった。実際に支払える状態ではあるが、ルフィアでは説得力がないのだ。
この問いが来るのはわかっていた。
だからこそのハッタリだ。
「もちろんです。わたしの実家は、貴族ですから」
目を伏せて、両手を胸に当てて、出来る限り優雅に見える仕草をする。
実際ルフィアはあまり気にしたことはなかったが、他人に比べて、すこし自分の見た目がきれいであることは自覚していた。
シミもニキビもない陶器肌はもちろん、髪はいつもさらさらで、肉付きの貧相な体は良く言えば細身ですらっとしている。
ゲルダンから、「見た目だけは良い」と何度言われたかわからない。
加えて、今はまるで貴族のようなドレスを着ているのだ。
エメレイがまさか、と驚いた顔をする。
「わたしの側にいた黒づくめの男は護衛です。実家の屋敷にいては危険な情勢だったので、一傭兵としてこの街で忍んでいたのですわ」
言葉遣いにも気をつけながら、あくまで違和感がないように嘘を吐く。
オルレニアの下まで行けば簡単にばれてしまうような嘘だが、現状を乗り切るためにルフィアは必死だった。
「お前ぇが錬金術師の特区を出入りするのを見たって聞いたが、そういうことか」
「そうか。それなら捕まえた上での待遇も納得がいくな」
想像以上に辻褄があったらしい。
ルフィアの考えの外で、ドルフとエメレイは勝手に納得がいったようだった。
下手なことを話さないように口を閉じながら、ルフィアはここぞとばかりに金貨をちらつかせる。
「どうでしょう。引き受けてはいただけませんか?」
緊張で声が震えないようにするのが、精一杯だった。
ドルフとエメレイは互いに顔を見合わせて、唸り始める。それから少し黙り込んだあと、首を横に振った。
「お前ぇをここで捕らえれば、一人につき金貨一枚だ」
「不確かな報酬より、確かな報酬を取りたいぜ、俺は」
エメレイが不満げな声を上げる。
ルフィアは、ごくりと喉をならした。
失敗した。頭のなかが真っ白になっていく感覚が、顔から表情を奪った。
短刀を取るか。
その考えに至ったときには、すでにドルフは目と鼻の先にいた。
「行くぞ、お嬢さま」
ドルフの太い腕がルフィアの細い体に回され、抱えあげられる。
高くなった視界の先で、エメレイが武器を片付けていた。
「え、え」
「なに驚いてんだ。さっさとその金貨を寄越しな」
ルフィアの手から金貨を取ると、ドルフはにやりと笑う。
「頭が良いやつは嫌いじゃねえ。今はお前ぇの言葉に乗せられてやるよ」
何度かドルフの言葉を頭のなかで反芻させてから、ルフィアは状況を理解した。
交渉は成立したのだ。
「ありがとう、ございます?」
ルフィアの声色を聞いて、やれやれとばかりにエメレイが頭を掻く。
先の発言を聞く限り、エメレイは乗り気ではなかったのだろう。この判断は、恐らくドルフが下したものだ。
わずかでも、感情的な部分があったのだろうか。
ひとまず、窮地は脱したようだった。
ルフィアは職人区の明かりに目を細めながら、ほうとため息を吐いて全身の力を抜いた。
「やけに明るいな。エメレイ、なんか祭りとかあったか?」
「いや、知らねえな」
ふと、ドルフの言葉を聞いて、ルフィアも明かりの方を見た。
目が痛くなるほどに明るい光は、確かに尋常ではない。
そして、ぞわりと悪寒が走った。
「まずい。目的地は錬金術師の特区です、ドルフさん、急いでください」
「あ? なにがまずいってんだ」
「とにかく急いで!」
この気配は、プラーミアに来てから何度も感じたものだ。
『崩れた色彩』の襲撃や、ノーグ商会の付近を通ったときに感じた、なんともいえない気持ち悪さ。
間違いなく、悪魔の気配だ。
「ドルフ! 見ろ!」
「くそ、なんだってんだ」
閃光とともに、爆発音が響いた。
職人区から黒い煙が立ち上っている。
ルフィアの言葉に困惑していたドルフも、さすがに足を速めた。
『崩れた色彩』によるものであることは、間違いない。
そして意図はどうであれ、ルフィアの感じた気配が間違いでなければ、近辺に悪魔が現れた。
状況が動き出した。
ルフィアはドルフに抱えられながら、そのことを肌で感じていた。




