~倒れる者と救う者~ 五話
倒れた良治が見上げた先に立つのは一人の少女。その現実感のなさに、珍しく彼は夢かと思った。何故こんな場所に彼女が。予想の範囲外の出来事で思考が停止する。
「あれ、頭でも打ってる? 間に合わなかったかしら?」
「……いや大丈夫だ、多分」
声をかけられ、ようやく出たのはそんな言葉だった。未だに事態がよく呑み込めない。
「なら良かったわ。――って、さすがにあれだけじゃ無理みたいね」
彼女の視線の先は立ち上がろうとする『熊』に向けられていた。
「グ、グ……」
「タフねー。思いっきり横っ面に一発入れたのに」
すたすたと迷いなく進み、良治を守るように立つ。その姿は正に威風堂々。初めて出会う異界の生物に、勅使河原結那は一片の恐怖心も態度に出さずに立ちはだかった。
「――ふっ!」
ダッシュで距離を詰め、左・右と『熊』の腹に拳を入れる。しかし『熊』もそのままやられているわけではない。右手の爪を大きく振るうが、それをあっさりと屈んで躱す。と同時に踏み込んで右ストレートを打ち込む。
「ガフゥッ!?」
「まだまだまだまだっ!」
左右のラッシュをこれでもかと腹に叩き込む。その身体のキレに良治は驚いた。
(なんだあの動き……かなりのものだと思っていたが、あれはもう俺以上だ……)
良治は素手での格闘戦も苦手ではあるがそれなりには出来る。苦手な理由の大半は、彼自身の体格。身長は高くはないし、筋肉量も多くない。鍛えれば筋肉は付くのだろうが、付け過ぎると彼が最も重要と考えている瞬発力に影響が出てしまう。その為自然に、彼の格闘戦は身のこなしや手数の多さを重視したものになる。
(あれはもう、理想形の一つじゃないか)
今繰り広げられている光景は、格闘のみに血道を上げ、真摯に向かい合った人間が辿り着く極地。打撃力と速度を両立し、先読みと眼の良さを活かして回避し懐に入り込む。それは弛まぬ努力の結果に裏打ちされた自信が成せる技。
「――はぁっ!」
「――ガ、ア……」
ダメージを受け頭が下がったところに、あの河原で見た右のハイキックが入り重々しい地響きをさせ倒れる『熊』。体重の乗った、鮮やかな、それでいて鋭い蹴り。離れた位置から見て、その美しさを知った。
「……まるで女神だな」
「あら、見惚れちゃった?」
「まぁな……それよりありがとう、助かった」
「いえいえ。どーいたしまして」
倒れた『熊』が塵になっていくのに少しだけ驚いた結那だったが、良治の声に気付いて歩いてくると悪戯っぽく笑う。良治は上体だけを起こしてそれに苦笑いで返した。
「挨拶と説明は申し訳ないがあとで。すまないが一緒に行動してくれ」
「了解。でも一緒に行動ってその状態で言えることかしら?」
「……確かに」
溜め息交じりの言葉に良治は自分の状態を確認した。身体はぼろぼろ、体力も尽きている。残っているのは僅かな気力だけだ。
「ま、肩くらい貸すわよ。それともお姫様抱っこでもする?」
「全力で拒否させて貰う。悪いが肩を貸してくれ」
「いいわ。ほら」
「助かる」
礼を言いつつ結那の肩に掴まりなんとか立ち上がる。足の力の入り具合で、思ったよりも状態が悪いことを自覚した。
(まずいな……歩くのもやっとか)
「大丈夫?」
「なんとか。それより……」
掠れかけた目で周囲を見回す。和弥たちの姿は見えないが、未だ戦っている気配はする。しかしさすがに戦況までは予測できない。
「誰か来るわ。どうする?」
結那が和弥たちとは逆方向を見ながら固い声で囁く。逃げるか隠れるか、もしくは戦うかの判断を求めているのだろう。軋む身体を無視して、頭を向けると視界に見知った人物が走ってくるのが見えた。その人物は姫路支社で待機していた俊二だった。
「柊君、大丈夫か?」
「なんとか。それより現状を」
第一声が心配ということは、それほど酷いように見えたのだろう。余り心配はさせたくない。意識して気を張って答える。
「そうだな、では現状報告を。姫路支社で待機していた安松さんが暗天衆に襲撃されて重傷だ。今治療しているがどうなるかわからない。それで高遠さんが撤退命令を出している」
「……了解です」
総大将の負傷は致命傷と言える。それが死ぬかもしれないほどの重症となれば尚更だ。被害の少ないうちに撤退を決断した高遠の判断は適切だろうと良治は思った。
「別働隊は?」
「ここに来るまでの間に伝えてある。向こうもギリギリみたいだったが俺の役割を放棄するわけには行かなくてな……すまない」
「俊二さんはそれで良かったと思います。……魔族ですか」
「ああ……。あの馬みたいな奴がそっちの女性二人で対応してた」
女性二人とは葵と眞子のことだろう。それなら恐らく渡り合える。何せ葵はあのシグマとサシで戦えたほどの実力がある。そうそう遅れは取らないはずだ。
「都筑君は? 彼のところにも伝えたほうがいいか?」
「そうですね、お願いします」
ここは俊二に任せる他に手段はない。隣の結那に頼むようなことではないし、そもそも結那と和弥は面識がない。伝令としては不適格だ。
「わかった。それで、その女性は?」
「……友人です。予想外の」
「……そうか。予想外のタイミングで危機を救ってくれる。友人とはそんな人のことを言うんだろうな」
「ですね」
友人とは有り難いものだ。心底良治はそう思った。
「ああそうだ。まだ報告がある。……ここに来るまでの間、柊君たちの部隊の者の死体があった。それと、別働隊に遭遇する前に暗天衆の者を一人倒した。恐らく犯人だろう」
「高橋か……」
こっちの伝令が俊二たちに伝わったという報告がない以上間違いないだろう。単独で動いたところを狙われた。俊二が襲われた情報と合わせてそう予想出来る。
(完全に俺のミスだな……)
潮見天音は認識していたが、他の暗天衆の存在を見落としていた。相坂に合わせる顔が本当にない。深く、深く後悔した。
「別働隊に人には言ってある。……では」
軽く手を上げると俊二はそのまま走り去っていった。
「……良治」
「……ああ、解ってる」
このままでいても意味はない。自分に出来ることを全力でするしかない。それを理解してはいたが、感情が言う事を聞いてくれない。
「胸も貸す?」
「……まったく。遠慮するよ」
塞ぎ込もうとした心が少しだけ軽くなる。その心遣いが嬉しくもあり、自分が情けなくもあった。
「撤退する。道を戻ろう。……ありがとう」
「惚れた?」
「まさか」
「残念」
もう一度だけ俊二の去った方を見て、二人は顔を上げて歩き出した。
「――ム」
「?」
鎧を着けた骸骨、即ち『ツナシゲ』が和弥から何かに気付き距離を取る。その反応を見て和弥は周囲に目をやると、すぐにその変化に気が付いた。
「が、はっ……!」
血を吐き倒れていく鍵里正輝。微かに覗く右目は虚ろでもはや生気はない。このままでは死ぬだろう、そう誰もが思うほど彼には死相が浮かんでいた。
「残念ダガココマデダナ」
「お、おい!」
武者姿のツナシゲは身を翻すと、ガシャガシャと音を鳴らして鍵里正輝の元へ走り出した。そして蹲る鍵里の身体を抱えるとまた走り出した。
「コノ人間ニハマダ死ンデ欲シクハナイノデナ。――サラバダ」
「くっそ、待てよ!」
追いかけようと一歩踏み出したところで、『熊』に襲われかかる味方が見え、そのままそっちに駆けだす。そして一刀のもとに『熊』を斬り伏せて振り向くが、もうそこには何も居なかった。
「くっそ、逃がしたか……」
「そうですね……でもこの状況じゃ仕方ないですよ」
今斬った『熊』が最後の一体。周囲に魔獣の気配は消えたが、こっちも無傷とは言えない。死んではいないが、倒れて呻いている者もいた。
「そうだな……ん?」
俊二が走ってくるのが見え一瞬何かあったのかと思ったが、そう思うのと同時にこの戦闘が終結していく予感がした。
「相坂さん、多分撤収だ。準備を」
「あ、はい!」
和弥は倒れていた者に肩を貸しながら俊二の到着を待つ。鍵里正輝の安否を気にしながら。
(早く止めないと。……終わらせないと)
長引けばそれだけ死者は増え、心に傷を作る者も増える。こんな誰もが傷付くようなことは一刻も早く終わらせなければならない。
(出来たらあいつも助けたいが)
難しいことだが諦めたくはない。和弥は夜空を仰ぎ大きく息を吐いた。
「――ふむ。順調なようだな」
「はっ。潮見様も役割を果たしているようです」
「よし。このまま任務を続行しろ。出来る限り兵庫の連中の戦力を削げ」
「はっ。かしこまりました」
小さな灯り一つしかない暗い小部屋。黒ずくめの男が去るのと入れ替わりに現れたのは、赤い瞳を持った影のような物体だった。
「ズイサ殿、何かありましたかな」
「いや、特に何もないが少し心配でな」
黒い影が質量を持ったような不思議な物体は、その見た目とは裏腹に流暢な声を響かせる。小太りの男はにやりと笑った。
「ズイサ殿との契約がある以上天音が裏切るようなことは有り得ませんし、その他の者が刃向ったところでズイサ殿に敵う者も居ません。なんの問題もないかと……」
「まぁそうだな。しかし気を付けることに越したことはない、竹中よ」
「はい、心得ております」
恭しく頭を下げるが、その表情は冷めている。言われないでもわかっていると言わんばかりのものだ。
「何かあったらすぐに助けを請うが良い」
「ありがとうございます」
ふっと気配が消え、竹中は緊張から解き放たれ深呼吸をした。
(魔族如きがいい気になりおって)
テーブルに置かれたウィスキーの小瓶をそのまま煽り、ズイサと天音の利用方法に思考を巡らせた。