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プロローグ

 もうすぐ夏を迎えるというのに、連日雨が降り続いている。

 私はHRの後、日直の仕事が終わるとそのまま生徒玄関へと向かった。テスト期間のせいか校内に残っている生徒は疎らだった。

 静かな廊下を歩いていると明るい話し声が耳に届く。声のする窓の外に目を向けると、女子生徒二人が仲良さ気に下校する姿が見えた。楽しそうな様子にチクリ、チクリと胸が痛む。羨ましさだけではない。寂しさや惨めさ、色んな感情が渦巻き這い上がってくるのだ。

 私だって本当は――。

 私は直ぐに思考に蓋をして、窓から離れるように歩き出した。

 しかし、自然と足取りは重くなって行き、心のモヤモヤの広がりとともに最後は立ち止まってしまう。

 ――帰りたくない。

 これが私の本心。

 だが、現実は甘くない。私はあの家に帰らなければいけない。家族のいない、あの家に。考えるだけで嫌な汗が浮かんでくるというのに。それでもあの家しかもう帰る場所が残っていないのだ。どんなに嫌でも、一人で生きていく力も勇気もない、誰一人頼りがいない私に与えられる選択肢など無い。 今は耐えるしか方法がない。 ただ、ひたすら耐えるだけ。

 どんなに自分に言い聞かせようとしても意思に反して滲んでしまう視界を強めに擦りながら、私は再び歩き出した。

 階段隣りのトイレ前を通り過ぎた――と思った時、誰かに服を掴まれ強引に横へ倒された。恐怖に叫びを声を上げる間も与えられぬ内に私を掴む手が一斉に増え、トイレの中に引き摺り込まれる。相手を確認しようと顔を上げると、そこにいたのは継姉だった。そしてその仲間の女子生徒数人。彼女たちは同様に卑下た笑みを浮かべて私を見下ろしている。

 意外だとは思わなかった。またか、と思った。

 彼女と姉妹になって一年。継姉は何が気に食わないのか、継母と一緒になって私を虐めてくる。最初は私が何か気に障る事をしたのかと悩みもしたが、しだいに彼女たちのは私の存在そのものが邪魔なのだと理解した。昔は優しかった実父も人が変わったように私の存在自体を無い者として扱う。 そしてそれは学校でも同じだった。転校生の私より、長年学年のリーダーとしての立場を持つ継姉の態度一つで、私の学校生活は決まってしまった。

 右を見ても左を見ても、どこにも私の居場所はない。そう感じるようになって大分経つ。

「ちょっと! アンタ、私の話聞いてんの!?」

 継姉が叫んだのと同時に、バシャンと冷たい水を掛けられた。予めバケツにでも入れて置いたのだろうか、水の塊が何度も頭上から降って来る。

 継姉はこちらへとやって来ると私の足を踏みつけ、髪を引っ張り顔を無理やり上げさせた。 パチンと音がして、頬に痛みが走った。

「あ~あ、何でママとパパはアンタなんか引き取ったんだろ。アンタのババアが死んだ時、そのまま孤児院にでも捨てれば良かったのにねえ~」

「……黙れ……」

 私は床にまだ残っている水を継姉の顔に向けて掛けた。だが実際には上手く的に当たらず、継姉の太ももに少し掛かっただけだった。それでも継姉を怒らせるには充分だったようで、彼女はまた叫ぶと私の顔を床に押し付けた。汚い水が口に入って来て気持ちが悪い。

 顔を拭おうにも、側にいた女子生徒たちにも押さえ付けられて、思うように動けない。

「ああもう! コイツほんと腹立つんだけど!」

 言って、継姉は私のわき腹を蹴った。それが合図となって、全員が一斉に蹴り出す。彼女たちが狙うのはすべて制服で隠れる場所ばかり。卑怯な奴らだ、本当に。

 どのくらい経ったのか。暴力を受ける側の私には遥か長い時間に感じられたが、それもやがて終わりを迎えた。彼女たちが私から離れて行く。

 だが、その顔には相変わらず嫌な笑いを浮かべていた。

 それは、次が来るという合図だ。

 蛇口を捻る音。少しの間を置いて、激しい水の流れる音。見ると、継姉が蛇口につないだホースを私に向けている。他の女子生徒たちはそれぞれ個室の中に非難していた。

 逃げるなら今しか無い。

 私は体中に広がる痛みを無視して起き上がると、転がっている鞄を手に取り入り口近くにいる継姉へ突進する。継姉は驚き反射的に私を避け、私は勢いのまま走りトイレから逃げ出した。家に帰れば続きとばかりに虐められるに違いないが、構わず無我夢中で走り続けた。

 背後から足音と継姉の怒鳴り声が聞こえて追って来るかもと恐怖で体が震えた。しかし遠くから聞こえる教師の声に、その可能性が途絶えた事を悟り、私は安著した。


 気付けば、屋上につながる階段前まで来ていた。

 この先には私が行事の度に避難場所として使っている踊り場がある。

 いくら雨の日だろうと全身びしょ濡れのままでは帰れず、私は唯一安心できる避難場所へ向かって階段を上がった。先ほど全力で走ったのが影響したのか、一段登るだけで相当疲れる。とにかく、足が、体が重くて仕方ない。顔を上げながら登り続ける事もできない。

 やっとの思いで踊り場まで辿り着くと、ふと屋上へのドアが無性に気になった。開いている訳がないと思いながらも、ドアノブを回してみた。

 カチャリと音を立てて、私の体重に押されるように、ドアがゆっくりと開いた。

 外はいつの間にか雨が止んでいたようだ。

 私は屋上に出ると壁に寄りかかり、腰を下ろした。空を覆う灰色の雲を見ていると、何故かこれまでの記憶が走馬灯のように駆け巡る。私は死ぬ訳じゃない。ただ疲れた。すごく疲れただけ。それだけなのに、涙が溢れて止まらない。

 私だって始めから不幸だった訳じゃない。

 小さい頃は、お母さんがいた頃は、すべてが満ち足りていて幸せだったのに。

「……どうしてっ……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 前を見続ける事さえ辛くなり、静かに目を閉じる。


 ――その時。

 雲間から幾つもの光の筋が降り、私を優しく包み込む。

 今に途切れてしまいそうな意識の中で、どこからかお母さんの声が聞こえた。


『アオちゃんはお空から流れる光の線を見た事ある? とっても綺麗なのよ。名前はね、たしか……エンジェル・ラダー(天使の梯子)って言うんだって』

ありがとうございました。

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