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すぐ戻ります

作者: 高遠 冴
掲載日:2013/08/20

コバルト短編小説投稿用に書きました。

玉砕…。

「すぐ戻るよ」

 そう言いおいて考高が出かけてから、もうすぐ三年になる。


 よく晴れた日曜日の昼下がり。考高は注文していた本が入荷したから取りに行ってくる、と出かけていった。

 同棲中の紀乃は「いってらっしゃい」とそれを見送った。

 考高が向かった本屋は隣の市にあって、電車で三十分も乗らなくてはならない。都会ほどアクセスもよくないから帰ってくるまでに早くても二時間。しかし彼のことだから寄り道をしてくるに決まっている。帰りは夕飯くらいになるだろう、と紀乃は思った。

 溜まっていた二人分の洗濯物を片づけて、掃除をして、紀乃は買い物に出た。

 今日の晩ご飯は何にしようかなぁ、と考えスーパーへ向かう。

 季節は春。もうすぐ桜が咲く頃だ。気温も上がったり、下がったり。昨日は暖かかったのに、今日は少し肌寒いと忙しなかった。暖かいパスタにしようかな。でも考高が何時に帰るか分からないから、どうしよう。

 あれこれ考えていると、スーパーの入り口で友人と出くわした。友人はもう買い物を終えたところなのか、手に買い物袋を提げていた。彼女は紀乃の高校時代からの友人で去年の夏、結婚したばかりだ。

「みっちゃん!」

「紀乃! 久しぶり!」

 互いに駆け寄り、挨拶を交わす。披露宴以来ゆっくり会うことができなかったので、久しぶりの再会だった。

 ふと紀乃は違和感を感じ、みっちゃんをよく見た。なんだか背が低い気がする。彼女は独身時代から背の高い彼氏(今の旦那さんだ)に合わせるためヒールの高い靴を履いていて、目線がまっすぐ合うことはなかったのだが。

「もしかして、赤ちゃん?」

 足下を見れば案の定、ぺったんこの靴を履いていた。

「うん。この間はっきりして。みんなにはこれから報告するところ」

「おめでとう。みっちゃんがママかぁ」

 紀乃が感慨深げに言うと「まだ実感はないんだ」と照れたようにみっちゃんは言った。

「これからだよ。すぐには作らないなんて言ってたくせに」

「授かり物だから。なるように任せようって、二人で」

 そんな会話をしていると、彼女の旦那さんが車を回してきた。互いに会釈し「おめでとうございます」と声をかけると旦那さんも「ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。

 送りましょうか? という言葉をこれから買い物するところだから、と断り、紀乃はみっちゃんたちと別れた。

 買い物カゴの中に商品をいれながら、紀乃は友人夫婦について思いをはせた。独身時代の友人は恋よりも仕事のほうが大事と公言する女だったが、今の旦那さんに猛アタックされて結婚した。まさかみっちゃんが二十代のうちに結婚するなんて、と周囲は驚いたものだったが。

 そのみっちゃんが母親になるという。

 友人の幸せが感慨深く、また、私たちもそろそろ結婚かな、と紀乃は思った。


 紀乃と考高はつき合いだして四年になる。大学時代、アルバイト先で知り合った。

 初めはアルバイトの先輩、後輩という関係で彼が紀乃に仕事を指導する立場だった。

 親しくなったきっかけはなんだったか。確か当時CMに頻繁に登場していた飛行機のキャラクターがかわいいとか、気になるとか、そんなことから仕事以外の話もするようになったのだ。

 考高から初めてデートに誘われたのはそれからしばらくして。

 二人で食事でもどう? と誘われて、彼からの好意をなんとなく察していた紀乃もドキドキして、おしゃれをして出かけた。

 ちょっと気取ったイタリアンレストランは、当時テレビや雑誌で頻繁に取り上げられていたお店で、自分のために奮発してくれたんだ、ということがよく分かった。

 その好意が嬉しくもあり、ちょっとプレッシャーでもあり、緊張してあまり会話もないまま食事を終えてしまった。

 店を出た後、暗いから駅まで送るよ、と言った考高とともに歩いた。駅までの道のりでも会話は弾まず、あまりの会話の少なさに彼に嫌われてしまったのではないか、と紀乃が落ち込んだ。

 そのとき不意に考高が立ち止まった。

 ちょうど外灯の下で、そこだけスポットライトに照らされたように明るかった。

 びっくりして紀乃も立ち止まると、真剣な表情の考高と目が合った。

「紀乃」

「何?」

「紀乃、あの、な。あの」

「うん」

「お前がバイトで入ってきたときから、その、ずっと・・・気になってた。好きだ。俺とつき合ってくれ!」

 勢いをつけるように彼はしゃべると、緊張からか不安からか、まくし立てるように続けた。

「嫌いならそう言ってくれ。断られたからってバイトで意地悪しようとか、そんな女々しいことは、俺はしない。そりゃちょっとはぎくしゃくするだろうけど、お前に迷惑はかけないから。本当だ。言ったことは守る」

 緊張で口をキュッ、と結んだ彼の顔は真剣そのもので、その様子が少しおかしくて、紀乃は笑ってしまった。

「うん。いいよ」

「え?」

「私も、好きだよ」

 紀乃がそう告げたときの、考高の顔と言ったら。緊張が解けて、子供のような笑顔になった。


 大学を卒業し、お互い仕事に慣れてから同棲を開始した。一緒に暮らし始めて一年あまり。お互いの生活習慣の違いから衝突もあったが、それなりに上手く暮らしていると思う。

 まだお互い口には出さなかったが、そろそろ結婚を考えてもいいころだ。

 スーパーでの買い物を終え、家路についた。

 駅からちょっと離れた築十三年のマンションが紀乃と考高が暮らす部屋だ。2DKで家賃七万円。しまりやの考高はもっと安いところにしたかったらしいが、あまり駅から離れても不便なので、話し合ってここに決めた。

 生活に関しては節約指向なのに、考高は趣味となるとお金をかける傾向にある。先月もちょっと高い買い物をして喧嘩になりかけたことを思い出し、趣味となると目の色が変わる性格は結婚となるとちょっとマイナスかも、と辛目のことを考えた。

 エレベーターで三階へ。両手に持っていた買い物バックを片手に持ち直してドアを開けた。

「ただいま」

 返事はなかった。玄関を見れば彼の靴はない。

 携帯電話を確認すると、彼が本屋に向かってから二時間以上経つ。予想はしていたが、少々呆れた。大方、同好の友である本屋の店長と話し込んで時間が経つのも忘れているのだろう。

 食品をキッチンに置いて、紀乃は携帯電話でメールを打った。

”まだ本屋? 早く帰って来て!”


 外が暗くなって、夕飯の準備が終わる頃になっても、考高は帰ってこなかった。

 メールも電話もなく、一体、何時ごろ帰ってくるつもりだ、と紀乃は腹がたった。

 紀乃は夕飯やお風呂など家事の時間がズレることが嫌いだった。考高もそれは承知していて、どんなに遅くなっても夕飯前には帰ってくる。

 もし何か事情があって遅れる場合には必ず連絡をいれる約束になっているのに。本屋に出かけると遅くなるのはいつものことだが、メールの一つも寄越さないとはどういうつもりだろう。

 食卓にはすでにおかずが並べられている。彼が何時頃戻るか分からないのでパスタはやめたが正解だった。

 キッチンでイライラしながら考高の帰りを待っていた紀乃は、エプロンのポケットから携帯電話を取り出した。

 すぐ戻るよ、なんて言ってすぐ帰ってきたことなんてないじゃない、と怒りながら紀乃は彼の携帯電話に電話をかけた。


”お客様のおかけになった電話番号は、電源が入っていないため、かかりません”


 呼び出し音が鳴る間もなく、無機質な携帯電話会社のアナウンスが流れた。

 あれ? と紀乃は携帯電話を見つめた。考高は携帯電話中毒の気があってすぐに取り出せるところにいつも入れているし、滅多なことでは携帯電話の電源を落とさない。

 今まで考高の携帯電話に繋がらなかったことなんて、一度もなかったはずだ。

 なんだか胸騒ぎがして、紀乃は彼の携帯電話に”何時頃、帰ってくる? 連絡ちょうだい”とメールを送った。

 それから少し考えて、考高が向かった本屋に直接電話をかけることにした。

 その本屋は考高の高校の同級生が経営している古本屋だった。店長と考高は趣味が同じで、よく彼のために珍しい本を仕入れてくれる。

「こちら長野書房です」

「もしもし長野さん? 紀乃です。ご無沙汰してます」

「あぁ、紀乃ちゃん。久しぶり」

「お忙しいところごめんなさい。考高はまだそちらにお邪魔してますか?」

 店長はえ? と驚いた声をだした。

「考高? 今日は来てないぜ」

「え・・・? 午後、本を取りに行くってそちらに向かったはずなんだけど」

「マジ? ちょっと待って」

 いったん保留になったが、すぐ店長に切り替わった。

「俺さっきまで外に出てたんだけど、取り置きしといた本は残ってるから今日は来てないと思う。一応、バイトに確認しようか?」

「お願いします」

 紀乃は電話を切り、それからすぐメールを確認した。


 新着メールはありません。


 どうしたんだろう。何かあったんだろうか。

 本当に珍しいのだ。彼が電話もメールも返事を寄越さないなんて。胸騒ぎがどんどん大きくなっていく。


 あの後、紀乃は一晩中、考高の帰りを待ったが彼は戻らなかった。本屋の店長からもあの後すぐ連絡があり、アルバイトも考高は来ていないと言っていた、とのことだった。

 どこにいってしまったんだろう。

 翌日も、その次の日も、一週間経っても考高は帰ってこなかった。

 彼の友人、家族、同僚などにも尋ねたが彼の行方を知っている人はいなかった。

 家出や失踪する心当たりもなく、事件か事故かとポスターを作ったりビラを配ったりしたが、何の手がかりもないまま時間だけが過ぎていった。


 ※ ※ ※


 考高が戻らなくなって一ヶ月後、彼の両親と話し合って失踪届をだした。

「いい年した大人が家出なんて」と彼の母親は呆れたように装って気丈に振る舞っていたが、紀乃はこの一ヶ月間オロオロするばかりだった。

 みっちゃんたち紀乃の友人が紀乃を励ますため、たびたびマンションを尋ねてくれた。友人たちに励まされ紀乃は何とか普通の生活をおくれるようになったが、そうでなければずっと狼狽えるばかりだったかもしれない。

 二ヶ月経っても、半年過ぎても、考高の行方については分からなかった。何度かビラやポスターを見て情報をくれる人もあったが、他人のそら似かいたずらで何の進展もない。

 紀乃にできることは、彼が帰ってくると信じて待つことだけになっていた。

 しかし、何の情報もないまま待ち続けるというのは、思っていた以上に大変なことだった。


 仕事用のバックを肩にかけ直し、紀乃はドアノブに手をかけた。目を閉じ、息を吐いて、意を決してドアを開けた。玄関に彼の靴はなく、室内にも人の気配はない。

 仕事や買い物で外出するたび、もしかしたら紀乃が外出している最中に彼が家に帰っているかもしれない、と初めは期待していた。

 しかしそんな事はなかった。ドアを開けるたびに襲ってくるのは失望感だった。

 誰もいない室内の電気をつけ、冷え切ったリビングのイスに座り、何度泣いたことか。

 明日こそ考高が帰ってくるに違いない、とそのたびに自身を鼓舞した。

 けれどだんだん、明日を待つことが辛くなった。どんどん疲れていった。

 昼間、仕事をしている最中はなんでもないが、家に帰る頃になると途端に胸が重くなる。帰っているのか、いないのか、玄関のドアを開けるまで心臓がドキドキして、息苦しささえ感じ、彼が帰っていないと分かると脱力する。

 帰ってきてほしい。早く、早く。こんな毎日には耐えられない。

 彼を待つことが、苦痛になりかけていた。

 せめて彼が帰ってこない理由が分かれば、諦めることができたのかもしれない。

 しかし紀乃には何の心当たりもなかった。倦怠期とかそういうことではなかったと思っているし、職場で調べてもらったが、仕事でトラブルを抱えているということもなかった。

 もちろん自分が彼のことを全て分かっていた、なんていうつもりはない。上手くやっていると思っていたのは紀乃だけで、考高のほうには何か不満があったかもしれないし、上司や同僚が把握していない業務上の問題があったかもしれない。

 紀乃が知らないところで借金でも抱えていたのではないか、浮気でもしてかけおちしたのではないか、考えても答えはでず、不安ばかりが募った。

 妄想のような失踪の理由を考えることに嫌気がさし、紀乃は考高のことをなるべく考えないようにした。

 鬱々とした気分をなるべく見ないふりをして、紀乃は過ごした。


 考高のことを待ち続けるかどうか、正確には彼をこの部屋で待ち続けるかどうか決断せざる得なくなったのは、彼が失踪して一年後のことだった。

 マンションの契約更新の時期がきたのだ。

 二人で同棲するために選んだマンションだったため、一人で生活するにはちょっと広すぎた。家賃だって一人暮らし用のほうが安いに決まってるし。

 しかしこの部屋を解約してしまったら、もう二度と彼と会えないような漠然とした不安もあった。彼の実家は両親も健在で考高の帰る場所がなくなるわけではないが、それでもこの部屋を引き払ってしまうことには抵抗を感じる。

 どうしようかな、と紀乃はぼんやりカレンダーを眺めた。


 休日、駅ビルの中を歩いていた紀乃は物件紹介のフリーペーパーを見つけた。何気なく手にとってぱらぱらとめくる。

 新生活、新学期の季節だからだろうか、単身者向けマンションの特集ページが組まれていた。

 家賃の安いもの、ペット可の物件、女性専用、学生専用、など様々な部屋が紹介されている。

 その中で、駅と今のマンションの途中に新築マンションがあった。学生用のワンルームではなく、ちょっと広めの1Kの物件。家賃も今の部屋よりは安い。

 外観の写真も載っていたが、クリーム色の外壁がきれいだ。見ればペットも可だという。

 犬なんて飼ってもいいかも、と紀乃は思った。猫でもいいけど。今のマンションはペット不可で無理だが、どうせ一人なんだからペットでもいたほうが寂しくないかもしれない、と思ったこともあった。

 載っていたのは間取りと外観の写真だけで、内装は載っていなかった。どんな部屋なんだろう、と紀乃は思う。

 もしも新しい部屋に引っ越したら、ピンク色のカーテンがほしい。今のカーテンは地味めの緑色だから。思い切って食器類も買い換えて、ペットを飼うならお揃いのものを揃えてもいいな。

 そんなことを取り留めもなく考えながら、紀乃は部屋へ向かった。久しぶりに家路につく足取りが軽い。

「ただいま」

 とドアを開ける。

 部屋に電気はついておらず、誰の気配もない。

 無人の部屋に帰ることにすっかり慣れてしまっていた。

 荷物を自分の部屋に置き、リビングで買ってきた総菜を並べる。ポテトサラダを摘みながら、紀乃は持って帰ったフリーペーパーをめくった。

 頭の中で電卓をたたき、家賃や引っ越し費用の計算をする。貯金は多少減ってきているが、敷金礼金は払えるだろう。引っ越し代金はきついが、業者ではなく友人たちの力を借りれば安くできるはず。

 元々紀乃の持ち物は服や小物が多く、重い物は少ない。家具付のマンションがあれば、それらの移動は考えなくてもいいわけだし。

 そう言えばこの部屋に引っ越すのは大変だった、と紀乃は思い返した。

 考高の本やコレクションを運び込むのに大騒ぎだったのだ。実家に置いておけばいいじゃない、と紀乃は不満だったが、考高は「お袋に捨てられたら困る」とかさばるプラモデルや重い本をみんなここに運び込んだのだった。

 そう、もしこの部屋から引っ越すとなれば彼の荷物も片づけなければ。

 紀乃は振り返り、彼の部屋のドアを見た。

 この一年間、紀乃はほとんど彼の部屋に入っていない。初めのうちは彼がどこに行ったのか手がかりがあれば、と部屋を探したり掃除をしたりしたが、最近ではドアすら視界に入れないようにしていた。

 紀乃は彼の部屋のドアの前に立った。

 そっと、ドアを開ける。

 久しぶりに入った彼の部屋は多少、埃っぽかった。

 カーテンレールにはいつものスーツが下げられ、壁際の本棚には厚めの洋書が並び、パソコンラックの上には飛行機のプラモデルが並んでいる。

 彼がいた当時のまま。部屋に一歩はいると、彼の残り香が感じられるような気がして、紀乃は鼻の奥がツンと痛んだ。

 パソコンラックに近づき、プラモデルを手に取った。二枚の翼が機体の上下についている古い時代の飛行機。胴体と翼に黒い十字架が描かれている。

 一度、彼に「これはなんて言う飛行機?」と軽い気持ちで尋ねたところ、目を輝かせて「これは第一次大戦で活躍したドイツのフォッカーD.VⅦっていう複葉機で」と説明を始め、長々とこの飛行機についての逸話を語るので、紀乃は呆れてしまい、肝心の内容は右から左へ聞き流してしまった。

 考高は飛行機マニアだった。実際の飛行機に乗りたがるというよりは、古い時代の資料や模型をコレクションすることに情熱を傾けるタイプ。

 パソコンの周りには、そんなプラモデルや外国語による資料集が並べられている。同好の友であった本屋の店長曰く「結構なコレクション」らしい。

 ただ、その大切にされていたコレクションたちも今はうっすら埃をかぶっている。

 何度か掃除をしようとここに入ったこともあったのだが、手をつけることができなかった。

 手にしていたプラモデルにそっと息を吹きかけた。ふぁっと埃が舞い、紀乃はむせた。

 他のプラモデルにも、パソコンにも埃が積もっている。溜まった埃の量に一年という時間を思う。

 ディスプレイに立てかけるように、一冊の本が置いてあった。

 考高が戻らなかったあの日、本屋に取りに行くと言っていた本だ。

 彼が失踪した、と騒いでしばらく経った頃、本屋から注文の本をどうするか? と問い合わせがあった。しばらく置いておいてもいいけど、と言われたが紀乃が引き取りに行った。この本を取りに出かけたのだから、これがあれば帰ってくるのではないか、と験を担ぐような気持ちで受け取った。

 プラモデルを元の場所に戻し、本の表紙をなでる。日焼けした緋色の表紙。店長は百年ほど前のドイツの本だと言っていた。中は見ていない。どうせ紀乃には理解できない内容だから。

 紀乃は飛行機に興味など人並みにしかない。考高の趣味はちっとも理解できなかった。

「もう、早く帰ってきてよ」

 不意にそんな言葉がついて出た。

「私が勝手に掃除したら怒るくせに。この本だって結構、高かったんだから。私じゃ管理できないよ。本やプラモデルがダメになっちゃっても知らないからね」

 喋りながら、ポロポロと涙がこぼれた。

「ばか、ばか。ばか」

 こらえようと思っても、涙は止まらない。

「早く帰って来なさいよ、ばか」

 紀乃は本を前に泣きながら、マンションの契約を延長しようと決めた。


 ※ ※ ※


 それからはなるべく考高の持ち物やコレクションを掃除することにした。下手にいじって壊してしまうのは怖かったので、埃を払うくらいだったけど。

 一個、一個、一冊、一冊、汚れを拭ってやれば様々なことを思い出した。

 この本はネットオークションでやっと競り落としたと自慢していたな、とか。このプラモデルは値段があまりに高かったので、考高と喧嘩になった代物だったものだ、とか。

 それからなるべく外へ出るようにした。思い返せばこの一年、休みの日も家に閉じこもりがちになっていた。それでは気分が沈むばっかりだ。思い詰めても解決しないならば、もう少しゆっくりすごそう。


 新緑が芽吹く頃、紀乃は公園へ出た。

 去年の今頃は彼を探そうと右往左往して、のんびり散歩なんてできなかった。葉と蕾をつけた藤棚の下にあったベンチに座り空を見上げた。青空と雲に、この一年間、空を見上げることすら忘れていたことに気づいた。

 自分で自分を追いつめていたのかもしれない、と息を吐く。

 彼女の前を、高校生くらいだろうか若いカップルが通り過ぎていった。彼氏は何かに夢中になっているのか早歩きで、女の子が「待ってよ」とちょっと怒りながら追いかけている。

 私たちもあんなことがあったな、と紀乃は思い出した。


 あれはつき合いだしてすぐのことだ。

 チケットをもらったから、と東京の博物館へ行くことになった。あの頃はまだ彼の趣味を知らず”乗り物の百年史”なんて渋い展覧会、何が面白いのかなぁと思いながらついていった。

 会場についた考高は、紀乃のことを振り返りもせず、ほとんどの展示品を素通りし、会場内の通路から博物館の中庭に出る。そこには実物大の複葉機のレプリカが展示されていたのだ。早歩きの彼に必死についていった紀乃は、うおぉおお! と興奮する考高に取り残される格好になってしまった。

 全く何なの! と紀乃が怒ったのも当然だ。今なら仕方ないなと呆れるだけだが、あの当時は本当に彼の趣味を知らなかったのだから。

 名前を呼んでも、袖を引っ張っても紀乃の方を見ない考高に業を煮やし、紀乃は人差し指で思いっきり彼の頬を押した。グィッと力一杯。

 やっとこちらを向いた考高は、そこで初めて紀乃の機嫌が悪いことに気づいたらしい。しかしなぜ紀乃の機嫌が悪いかまでは分からなかった。

「何かあったか?」

 と一言。

「知らない」

 考高の腕を叩いて、紀乃はその場を去った。展示スペースを足早に抜け、建物の外まで走った。

 慌てて後を追ってきた考高と初めて喧嘩をした。デートのつもりだったのに放っておかれたことに腹を立てている紀乃と、趣味の時間を邪魔されたと怒っている考高と。

 話がかみ合わず、なんでデートで飛行機を見なくちゃいけないの! と叫んだ紀乃に、やっと考高は自身の趣味を告げた。

「言ってなかったっけ?」

 と困ったように言う考高に、

「聞いてない」

 と紀乃はむくれた。

「ごめん。言った気になってた。俺、飛行機が好きでさ。今回、レプリカでも実物が見れるかと思ったら嬉しくて、つい」

「謝らなくてもいい。私より飛行機の方が好きなんでしょ」

「そんなことない。次は気をつけるから」

「じゃぁ、もう飛行機を追いかけない?」

「いや、それは・・・」

 意地悪なことを聞いている自覚はあったが、ここは嘘でもスパッと答えてほしかった。

 今日はもう一緒にいるのは無理だと思い、紀乃は帰ろうと思った。わざわざ東京まで来たのに。最悪。

 踵を返そうとした紀乃を、考高がとどめた。腕を捕まれ、振り向かされる。

「何?」

「お前と二人でいるときに飛行機に気を取られたりしないようにする。だから機嫌なおしてくれよ」

「うそ」

「嘘じゃない。だから」

 ぐい、と腕を引かれキスされた。一瞬のことで、紀乃はポカンとする。考高も照れているのかそっぽを向いている。

「機嫌直してくれよ」

「ご、ごまかさないでよ!」

 思わず、紀乃は彼の頬を平手で叩いていた。

 

 そのあともずっと、二人で言い争ってしまい、その日は仲直りできなかった。今思えば小さなことでよく長々と喧嘩したものだと思う。

 結局、彼の二人でいるときは飛行機に気を取られたりしない、と言う約束は守られることがなかった。

 飛行機のこととなると目の色が変わってしまうのは仕方がないことなんだ、と紀乃が譲った。 


 掃除をしながら、散歩をしながら、紀乃は孝高との思い出を一つ一つ思い返していた。

 微笑ましい思い出もあれば、腹の立つ思い出もあった。

 ただ、そうやって一つ一つ思い出を整理することで紀乃は少し楽になっていく気がした。

 諦めたのではない。なんだか、静かな心持ちだった。

 きっと考高は、また子供のように目を輝かせて大好きな飛行機を追いかけていって、帰る時間を忘れているだけなのだ、とすら思うようになった。

 すぐ戻る、と言って出かけたのだ。帰ってくるつもりがあるのだろうから。

 これまでは彼が帰ってきているかも、と思うと外出先でも落ち着かなかった。しかし今は開き直ることができる。

 考高が帰ってきていても、私の帰りを待てばいいのだ。

 そのかわり、行き先と帰宅時間を書いたメモを郵便受けに残すことにした。

 すぐ戻ります、と。

 必ずここに戻りますから、と今ここにいない人に約束して。


 ※ ※ ※


 すぐ戻る、と言いおいて考高が出かけてからもうすぐ三年になろうと言うとき、自宅の電話が鳴った。

 もしもし、と紀乃がでると、相手は遠くの県の私立病院の事務を名乗った。

 電話を切って、紀乃は薄目のコートと財布と携帯電話を掴んで部屋を飛び出した。

 まだ肌寒い春の土曜日。行き先のメモは残さなかった。


 電車とバスを乗り継いで山の中の病院へ向かった。

 田舎の古びた病院の待合室に人影はまばらだった。

 ここまで乗せてきてくれたタクシーの運転手によると、ここは長期入院患者の収容とホスピスケアが目的の病院ということだった。家族のお見舞いかい? 若いのにえらいねぇ、と関心されたが、紀乃はあえて誤解を解こうとは思わなかった。

 受付で名乗り、部屋番号を教えてもらった。

 敷地内には何棟も建物があり、かなり広い病院だった。建物と建物の間は芝生がしかれベンチなどもあったが、人影はほとんどなく、たまに見かけるのは患者らしいお年寄りと付き添いの看護師くらいだった。

 院内の地図を便りに、紀乃は目的の建物へ急いだ。

 大した距離ではないが、その道のりは妙に長く感じた。

 ドキドキする。

 目的の部屋に着き、念のため名札を確認すると、そこには”名無しのごんべえさん”とマジックで記されていた。

 恐る恐る中へ入った。

 そこは小さな個室で、ベッドが一台あるきりだった。白いベッドには男が一人横になっている。

 すっかり痩せて衰えていたけれど、考高だった。

「考高・・・」

 よろよろと紀乃がベッドに近づくと、考高は首だけを動かしこちらを見た。

「紀乃」

 掠れた小さな声で、名前を呼ばれた。

 考高と目が合った瞬間、わぁ、と泣いてしまった。ベッドの縁に膝をついて考高の肩口に顔をうずめて泣いた。

 彼は満足に動けないらしく、ただ「紀乃、紀乃、泣くなよ」とゆっくりと繰り返すばかりだった。


 紀乃が落ち着いた頃、主治医に呼ばれた。

 現在の考高の状態などと共に、彼がここに入院するようになった経緯の説明があった。

 患者さんも意識を失う前のことをはっきりとは覚えていないようなので、確かなことは分かりませんが、と前置きされて語られたのは以下のようなことだった。

 この病院には半年ほど前、転院してきた。この患者さんはひき逃げか何かにあって、救急搬送されたらしい。命は取り留めたが、ずっと意識が戻らず昏睡状態が続いていた。財布や携帯電話、免許証など身元を示すものもなく、ずっと身元不明のままあちこちの病院を転々としていたらしい。転々と転院を繰り返すうち、なぜ昏睡状態になったのか、なぜ身分証などが何もないのか、具体的なことは分からなくなったのだそうだ。

 その話を聞いた紀乃は、なんだか一気に力が抜けてしまった。なんて運が悪いんだろう、と思わず口を挟むと、主治医は「意識が戻ったのは奇跡ですよ」と真面目に言った。

 考高の意識が戻ったのは、つい先日。病院中でびっくりしたとのことだ。意識を失う直前の記憶は失われていたが、それ以外の記憶ははっきりしていたので、すぐ二人の自宅へ連絡がきたのだった。


 また病室に戻り、考高と少し話をした。

 木漏れ日がさやさやとベッドの上で揺れている。穏やかな空気の中で紀乃はそっと彼の額を撫でた。

 すまん、と彼は言った。リハビリをすれば動けるようになるらしいから、とぎこちなく指を動かしてみせた。

 私が見捨てたとは考えなかったの? と聞けば、思わなかったよ、と彼は言った。

 すぐ戻るって言ったくせに。みんな心配したんだよ、とデコピンしてやった。

 いってぇな、と笑った考高は

「すぐ戻るよ」

 と言った。


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