第四十三話
少しだけ気持ちにも余裕が出てきたお昼前、リヒャルト殿下――リヒャルトが、フリーデンと連れだって帰ってきた。
かららん。
「ただいま戻りました、ジネットさん」
ふぃー。
「おかえり、リヒャルト、フリーデン。
お茶でも入れようか……じゃなくて! あー、もう、ちょっとそこで待ってなさい!」
せっかくの旅装だろうに、フリーデンとお揃いの泥んこだ。
泥だらけ……になったのを誤魔化そうとして、井戸の水でも被ってきたんだろう。これはフランツにも、どこまで行ったのか聞かなきゃね。
食堂の戸棚に手ぬぐいを取りに行き、戻ってため息を一つ、それから指輪を掲げる。
「【水よ集え、球と為せ】。
……頭にまだ泥がついてるわ。洗ってあげるから、そこから一歩も動かないで」
「はい。ごめんなさい」
「フリーデンも動いちゃだめよ。リヒャルトを洗い終わったら、あんたも洗ってあげるからね」
ふぃ……。
ちなみにフリーデンは、あんまり水が好きじゃない。
「わ!?」
「口と鼻と目と耳は水に入ってないでしょ。大丈夫よ」
「あ、本当だ……」
実家で弟たちを洗っていたように、リヒャルトの頭の上半分を水の球に突っ込み、わしゃわしゃと泥を落としていく。井戸まで水を汲みに行った方が楽なんだけど、なんとなく目を離したくない時なんかは魔法が便利だ。
「こら。頭動かさない」
「はいっ!」
ほんと、大国の王子様って言っても、これじゃあ下町の子と何も変わらない。
……ううん、ウーヴェ様も貴重な経験って口にされていたけれど、もしかしたら、それが大事なのかもしれないね。
「で、フランツと何処に行ってたのかな?」
「えっと、最初に領主館を一周して、それから『孤月』殿のお宅の裏を回って背の高いオーク樹を見に行ったんです」
「村の外に出たんだ……」
よし、フランツは呼び出し決定だ。
「でもリヒャルト、オーク樹のところなら泥だらけにはならないと思うんだけど、それはどうしたのかしら?」
「村に戻って、今度はダンジョンの入り口を見てから、領主館の下、道を挟んだ向こうにある秘密の湧き水の場所を……あ」
「……ふうん、秘密の湧き水かあ」
わたしも知らなかったよ。
森に入る時は、大抵パウリーネ様と一緒に南側の灌木が多い方に行ってたし。
ぎりぎり村の建物が見える位置だけど、これは怒っといた方がいいよね……。
「ジネットさん、みんなには黙っていて貰えますか? 絶対に内緒にするって、フランツと約束したんです」
「まあ、いいけど……。よーし、出来上がり。拭いてあげるから、まだ動き回っちゃ駄目よ」
「はい。……ごめんなさい、お店を汚してしまって」
水の球を窓の外に出し、そのまま側溝に捨てる。
「いいよー。子供は走り回って泥だらけになって、泣いて笑って喧嘩して、それで怒られるのが仕事だもん。……って、周りの人から言われたりしない?」
王子様の髪の毛を手ぬぐいでごしごしとやりながら、からかい半分に尋ねてみる。
「言われたような、気もします」
「うん、そっか……」
わたしも、変に遠慮しない方がいいのかな?
……王子様の頭を弟たちにするのと同じ調子でわしゃわしゃと拭いてる時点で、今更過ぎるかもしれないけれど。
「じゃあさ、――」
かららん。
「お姉ちゃんただいまー」
「ただいま戻りました、ジネット姉様」
……あんた達もか、アレット、マリー。
扉を開けて入ってきた二人は、ものの見事に粉まみれの真っ白けだった。
流石に店先で女の子のマリーを洗うのは躊躇われたので、アレットと二人、たらいで行水しておいでと食堂に追いやる。
「あんたもよ、フリーデン」
ふぃー!?
ついでにフリーデンも洗って貰うことにしよう。……お仕事増えちゃったし。
「さて……。リヒャルト、しばらく店番をお願いね」
「ジネットさん?」
「二階に行くだけだよ。すぐに戻るから」
幾ら春でも、そのままじゃ寒いよね。二人分、ちゃっちゃと仕上げよう。
二階に裁縫箱と毛布を取りに行き、奥の商品棚から小さめの着替えを幾つか取り出す。
「アレット、毛布置いとくよー」
「ありがとー」
「ジネット姉様、それは?」
「二人の着替え。宿に取りに戻ってもいいんだけど、こっちの方が雰囲気出るでしょ?」
「わ、ありがとうございます!」
ふぃあー……。
楽しそうなアレットとマリー、すぐにでも逃げ出したいという表情で身体を洗われているフリーデンにごゆっくりと声を掛け、お店に戻る。
「ただいまー。すぐに仕上げるから、そのままね」
手早くリヒャルトの足にズボンをあて、裾を折り返す。
「後は仕上がるまで、毛布被ってそこの椅子に座ってていいよー」
「はい」
さて、リヒャルトが風邪を引く前に、手早く仕上げてしまわないとね。
「ジネットさんって……」
「んー?」
ちまちまと針を動かしながら、ちらりとリヒャルトを見れば……不思議そうな表情でわたしを見つめていた。王宮暮らしなら、針仕事も珍しいのかな?
「筆頭家臣でありながら、お店も経営されていて、裁縫だってお上手です。本当に何でも出来るんですね……」
「何でもは無理だよー」
そりゃあもう。
何でも出来るんだったら、たぶんわたしは、シャルパンティエに来ることもなかったんじゃないかなあ。わかんないけど、そんな気がする。
「ダンジョンなんて入ったらその日の内に魔物に食べられちゃうだろうし、もちろん馬にも乗れやしない。そこの棚に並んでるランプや皮の水袋だって、わたしが作ってるんじゃなくて、職人さんが作ってくれたものだよ」
「ええ、そう、ですね……」
……おやおや?
「でも、僕は、何も出来ないなあって」
「そうかなあ?」
「剣も魔法も学業も、国で数人しか居ないような一流の教師をつけて貰っているのに、兄たちには全く及びません。
政務だって軍務だってまだまだ見習いの手前で、何もさせて貰えないんです!」
少し声を荒げたリヒャルトは、あっと思い出したように、声音を小さく落として奥の方を見た。食堂までは聞こえてないとは思うけどね。
「僕と同じ年の頃、兄達はもう初陣を経験していたと聞きました。なんだか差が開いていくような気がして、とても辛い、です」
あー。
それは何となく分かるかな……。
今なら……人にはそれぞれ得手不得手があって、そのおかげで世の中が回ってることもわかるけど、リヒャルトと同い年の頃のわたしも、同じように悩んだことがあったっけ。
いくら頑張っても裁縫の腕がジョルジェット姉さんに追いつかなくて、凄く悔しかったよ。
でも姉さんも同じように、商いの手際ならわたしには一生敵わないって悩んでいた……なんて話を聞いたのは、姉さんが嫁いでしばらく、お腹が大きくなって実家に帰ってきた時だった。
『子供の頃って家業の手伝いぐらいは誰でもするけどさ、仕事に就いて専業でやってるわけじゃないから、家事でも遊びでも何でもやらなくちゃいけなくて、余計に大きな差を感じてしまうんだよね。
大人はわざわざ不得意なことを仕事の種にしようなんて考えないし、逆に一つの拠り所があれば、そこから枝葉を伸ばして食べていけるからねえ』
なんて話を前振りにして、リヒャルトに喩え話をしてみる。
「んー、田舎で店を一軒構えてるだけの小さな商人の言うことだから、当てにならないかもしれないけれど、聞いてみる?」
「はい、聞かせて下さい」
当たり前だけど、わたしは賢者でも学者でもない。でも、聞いたことのある話を伝えるだけなら、出来るわけで……。
おまけにほんの少しだけなら、頑張ろうとしてる少年の背中を押すことだって出来ちゃうわけだ。……王子様の背中は無理だけど、『お忍びで平民の振りをしている貴族の少年』ならうちの弟たちと変わらない。
「じゃあ、失礼して……。領地を王国に喩えれば、領主は王様で、家臣は国の大臣と一緒だよね。お店なら主人が王様で、小僧さんが騎士かな。これは分かる?」
「はい、そのような寓話や警句は、故事と一緒によく教えられています」
「うん、わたしよりリヒャルトの方が詳しいかも。じゃあ、お店の主人に一番大事なことは、何だと思う? リヒャルトが店主……ううん、分かりくかったら王様でもいいけれど、自分がその立場だったら一番大事なことって何なのか、考えてみて」
これは父さんに教えて貰った説話なんだけど、わたしも引っかかったんだよね。
今ならちょっとは意味もわかってきたかなあ。
「……誠意、ですか?」
「うん、誠意はとても大事だよ。嘘つきの店主なんて、みんな信用しなくなるから商売が出来なくなっちゃうもん。でも、ちょっと違うかな」
「では……やはり、お金? 国にお金がないと、どんなに高潔な志を掲げていようが民を守れないと教わったことがあります。また、商取引の根幹だと思いますし……」
「お金を大事にしない商人は、お金に見放されるね。疎かに扱うと祟るぞ、なんて言うわ。でも、誠意の方が、答えに近いかも」
降参ですと、それでも興味深そうな目を向けてきたリヒャルトに、うんと一つ頷く。
「人を見ること、なんだって」
「人、ですか……」
「力持ちの小僧さんには、倉庫で頑張って貰おうか。話し上手ならお客さんの相手を、計算が速いなら取引の書類をってね。……相手が信用できるかどうかも含めて、人を見ることが一番大事で、それこそ店主に商才がないなら、商才のある人を雇えばいいの。ほら、二代目三代目の息子が商売苦手だったとしても、番頭さんがしっかりしていればお店は潰れないでしょ」
「確かに」
商売上手で知られた人の跡取りが、必ず商売上手って決まってるわけじゃない。……上手いことの方が多いらしいけれど、わたしは本当かなあと疑っていたりする。
「それでね、これが大事なんだけど、人を見ている人は、必ず自分も見られているんだってのを忘れちゃいけないの。これを忘れると、人がどんどん離れて行っちゃうんだって」
「それは……少し分かりにくいですね」
「いいんじゃないのかな。わたしがリヒャルトにお話ししたことだって、間違ってる……とまでは思わないけど、必ず正しい場面ばかりじゃないと思うし。『絶対ということは、絶対にない』なんて諺もあるからねー」
縫い止めた糸を歯で切って、一丁上がり。
「はい、お待たせ。カウンター貸してあげるから、そこで着替えて。下着はその上の白いので、上は後から袖まくりすればいいわ。……分かりにくかったら手伝おうか?」
「だ、大丈夫です! 常在戦場の心得にも、着替えのことが書いてありますから!」
「……ふうん?」
常在戦場の心得って、たぶん、兵法の本だよねえ。それに着替えのお話が書いてあるって、なんだかおかしい気もするけど……。着替えてるときに敵が攻めてきた時に慌てない方法でも書いてあるのかな?
「でも、ジネットさんの言いたいこと、少し分かった気がします。ふふ、ありがとうございます!」
「はい、お粗末様でした」
役に立ったのかどうか、今ひとつわたしにも自信がないけれど、リヒャルトの表情はさっきよりも明るくなってるから、これでいいんだろう。
「マリーとお揃い……ってこともないけれど、さっきより冒険者らしい格好になるかな」
「ありがとうございます!」
今着いてる旅装も、生地は上物だし見目もいいんだけどね。外で遊ばせたりするには、ちょっと上等すぎる。
わたしはスカートを取り寄せて、リヒャルトと場所を交代した。さっきちらっと見えた限り、マリーは丁度ブリューエットと同じぐらいのほっそりとした体つきで、これなら迷わず針が進む。
縫い目と生地を見ながら折り返す場所を決め、まち針を打ってため息一つ。
「……あ」
かぽかぽと小さく、メテオール号の足音が聞こえてきた。
「馬、ですよね?」
「うん。領主様のお帰りだよ。このお店、広場の入り口だからよく聞こえるの。……ふふ、領主様はものすごく大きな身体をしてるから、驚くかもね」
ほどなく店の前で足音が止まって、かららんと扉が開く。
「お帰りなさいませ、『我が領主様』」
「うむ、ただいま戻った。……む?」
リヒャルトは着替え終わっていたけれど、わたしが店表に座っていてリヒャルトがカウンターに立っていたものだから、ユリウスはものすごく不思議そうに首を傾げた。……王子様とお姫様のシャルパンティエご訪問は知らせたけれど、詳細を手紙に書いてる暇なかったもんね。
「えっとね、彼はリヒャルト。昨日シャルパンティエに来た旅の少年だよ。『本当は』男爵家の跡継ぎなんだけど、お忍び旅だから騒いだりしちゃだめなんだって。……ってことにしておいてね」
「……う、うむ」
跪こうかどうしようか迷っていそうなユリウスに、一言釘をさしておく。流石に領主様が跪く姿を誰かに見られたら、せっかくの『嘘』が台無しになるもんね。
「リヒャルト、こちらはシャルパンティエ領主ユリウス・フォン・レーヴェンガルト様、元は魔銀持ちの冒険者で、『洞窟狼』なんて二つ名まである凄い人なんだよ」
「リヒャルトです。お噂はかねがね!」
「あ、ああ。……ユリウスだ」
ぎこちなく手を差し出したユリウスに、リヒャルトの手が重なる。
……ん?
リヒャルト、すっごく嬉しそう。
「奥にもう一人、マリーっていう女の子もいるけれど、着替えもまだだから紹介は後でね。……って、そうだ!」
「どうした?」
「すぐギルドに顔を出しておいて。ディートリンデさんに聞けば今どうなってるか、教えて貰えると思うから。
ついでに護衛の方々との顔合わせも済ませておいた方がいいかな。爵位持ちの方もいらっしゃってるからね」
「助かる」
「もう一つついでに、お代官様の呼び出しって何だったの? こちらで急いで準備しなきゃいけない事とか、ある?」
「いや、そちらは何とかなった。ジネットのお陰でな。……では御免」
「えっ!? ちょっと、ユリウス?」
わたしのお陰、っていうのが気になるけど……何とかなってるなら後回しでいいや。
やり取りがちぐはぐになっちゃったけれど、これは仕方ないよね。
挨拶もそこそこにギルドに向かうユリウスを見送り、わたしも少し、肩の力を抜く。
やっぱりユリウスは、そこにいるだけで安心するんだなって。ふふ、口には出さないけどね。
「どうだった、うちの領主様は?」
「凄いです! 噂には聞いていましたが、竜騎士団長の『鉄壁』卿と同じぐらい迫力がありましたよ!
あんな人、世の中に二人もいるんだなあって思いました!」
その内容はともかく、今のリヒャルトの眼差しは、ユリウスを見るときのフランツと同じ輝きで。
英雄に憧れる少年はどこでも変わらないやって、わたしはくすりと笑ってしまった。




