第三話
さて、無事に営業許可証はわたしの物になったけど、このままでは何も話が進まない。
旅の準備に商売の準備、やることは山積みだ。
あの夜以来お兄ちゃんやアレットが口をきいてくれない……なんてこともなくて、あれこれと足りないところを教えあったり、一緒に過ごして別れを惜しんで貰っている。
わたしも本音をぶっちゃけた。
嫁き遅れ一歩手前の娘が居座っているのも申し訳ないし、多少は外聞も気にする。
二人も、後がないからと慌てて碌でもない嫁ぎ先に押し込めるよりはいいだろうって、身も蓋もない一言を付け加えて頷いてくれた。
……まあね、追い出す方と追い出される方が納得していれば喧嘩にはならないとは思ってたし、正直、適度な時期に片付いておかなかったわたしが悪かったという気分もある。ごめんね父さん、お母さん。
「すまない。これぐらいしか用意できなかった」
お兄ちゃんは、新品の計算尺をわたしにくれた。
三段になっていて、横木をずらすと数字に対応した足し算だけじゃなくて、掛け算の答えまで出てくる上等のやつ。これは旅立ちに関係なく前から欲しかった物なので、かなり嬉しい。
「お姉ちゃん、これ」
アレットは、旅の途中で怪我をしても大丈夫なようにと、店売りの体力回復薬よりもずっと強力なポーションを1ダースもくれた。怪我しなかったら売っちゃってと気軽に言う彼女を、ぎゅっと抱きしめる。
続けて、あたしもそろそろ一人立ちしようかなと恐いことを言い出したので、稼ぎ頭のあなたがいなくなったらお兄ちゃんが泣くからもうしばらくはここにいてとお願いしておいた。
「みんなでがんばったんだよ!」
「おねえちゃん、ほんとに行っちゃうの?」
「おねーちゃーん!」
下の妹とその下の弟たちは、わたしが旅回り用に買ってきたお古の編み上げ靴をぴかぴかに磨いてくれた。ほんと、いい子たちだ。
「へえ、ついに一人立ちか」
「まあ頑張んな」
「ジネット、いっそ冒険者になりなよ!」
常連さんの中には、お古で悪いけどと魔除けの護符をくれたり、祝福代わりの邪気払いに剣舞を舞ってくれた人もいた。真面目にやっててよかったなあって、ちょっとほろりときたのは内緒だ。
「……こんなもんかな」
わたしはわたしで必要な小物やほんの少しの着替えを荷造りして、木枠のついた背負い袋に詰め込んでいった。
何せ広大な隣国ヴィルトール、端まで歩いて何ヶ月掛かるかわかったものじゃない。最低限と言いながらも増えていく荷物に、それを担いで歩く自分を想像する。……うん、着替えの大半は持っていくのを諦めよう。
それに旅費も問題だけど、開業資金も問題だ。
今の手持ちは……かなり心許なくなったけど、アルールで暮らすなら小さい部屋を借りても半年は大丈夫。田舎ならもう少し引き延ばせるはず。
でもこの内のどれだけをお店に回せるかは、星の巡り次第だった。
▽▽▽
もちろん、旅の準備はそれだけじゃない。商工組合へのご挨拶や、ご近所への根回しも含まれている。
「しかし、本当に行くのかね?」
「はい。
ちょっと旅費は多めに掛かるかも知れないですけど、駄目で元々です。
それに、あちこち見て回る機会なんてそうそうありませんから」
「ふむ、この営業許可証も本物には違いないからな。
周辺の様子を見て、駄目なら現地で売ってしまうといいかもしれない。
アルール近辺で売るよりはましだろう」
「その手もありますね。
ありがとうございます」
暖簾分けではないけれど営業許可証はもう手元にあったし、お父さんと親しかった貿易商のおじさんに間に入って貰い、商工組合も認めはするが特に反対も援助も新たな取引もないと言う、一番軋轢の少ない結果を引っ張ってきて貰った。
新しいお店を出すにしても遠方では利害の重なりようもないし、その店さえも本当に出せるかどうかあやふやで、手持ちの資金が少ないことは知らせていた。駄目ならどこかに勤めると、最初から宣言もしている。そのお陰か、兄も『地竜の加護』商会も、邪魔されるほどのやっかみも同情されるほどの憐れみも受けなかった。
「無理だと思ったら、意地張らずに帰って来るんだよ。
何処へ行ったって、故郷が一番なんだから」
「ありがとう、おばさん」
ご近所やお得意さんへの挨拶は流石に自分で回ったけど、場所が分からないでは今以上のよしみを結びようもなく、『頑張って』『ありがとう』のやり取りを繰り返すしかない。
「はい、これでいいわ、ジネット。
……でも、札を作るっていうことは、本気なんだね」
「もちろんよ」
身分を証明する札を作って貰うために、久しぶりにギルドにも顔を出した。
受付で事務をしている幼なじみのイヴェット───もうとっくに結婚している───の手を煩わせ、鉄で出来た札を作って貰う。
奥の部屋で魔法使いのお爺ちゃんに教えて貰いながら、指先を針で小さく突いて血を一滴、刻印済みの札に垂らす。この痛みは、旅立ちの痛みかな……。
この王都で店番をしているだけなら必要ないけれど、この鉄札には冒険者が持つギルドのタグ───首からかける金属製の札───と同じ仕組みの魔法が使われている。旅先では、これだけが『アルールのジネット』だとわたしのことを示してくれる相棒になるのだ。
あれだそれだこれがないと駆けずり回って、ほぼ全部の準備が整った頃。
占いの出来る近所のお婆ちゃんに星を見て貰って出発日も決まり、休暇半分にお店を手伝っていた時だった。
「きっかけがわしだと聞いてな。
持ってけ」
滅多に王都まで足を伸ばすことのないベルトホルトのお爺ちゃんが、わざわざわたしを訪ねてくれた。餞別なのか、鞘の付いたナイフが見台の上にごとりと置かれる。
「お爺ちゃん、これ……ナイフ?」
「守り刀じゃ。
気を付けてな、ジネット」
「ありがとう。
……って、お爺ちゃん!?
ちょっと待ってまだ帰んないで!」
職人気質というか何というか、お爺ちゃんは相変わらず無口で愛想がなさすぎだ。
そのまま帰ろうとしたお爺ちゃんを引き留め、大事なことを聞いてみる。
「シャルパンティエって、お爺ちゃんもどこにあるか知らないんだよね?」
「うむ」
「じゃあ、許可証を下さった騎士様のことは?」
「あ奴は大事な友の忘れ形見だ」
だけどお爺ちゃんもそれ以上のことは知らなくて、結局は自分で調べるしかないらしい。でも、お爺ちゃんの知り合いの息子さんなら、少しは信用してもいいかなと、わたしは微笑んで見せた。
最後に両親のお墓参りを家族ですませて、旅立ちの準備は全部終わった。
背負い袋に入れた荷物以外、思い出も何もかも残していくことになるけれど、そのうちお土産いっぱい持って凱旋するから許してね。
▽▽▽
今年の終わりまではふた月ほどを余した秋の日、わたしは静かに王都を後にした。
門出は昨夜、しっかり祝って貰っている。
少し奮発して、大ぶりのアルール海老を小さい弟の分まで買い込んで食卓に並べた。嫁いでいったジョルジェット姉さんにもわざわざ来て貰ったし、しんみりした空気はいやだったから、皆が寝静まっている朝早くに家を出ると前々から宣言していた。
『まあね、一人立ちはいいんだけどさ……。
あんたは昔っからしっかりしてるようで抜けてるから、気を付けるんだよ』
『ありがと、お姉ちゃん』
『……やっぱり、あたしもついて行こうか?』
『アレットはお兄ちゃんを支えてあげてってば』
『そうね、兄さんはジネットより抜けてるから当分はアレットが頼りよ。
リリアーヌさんにもしっかり手綱握って貰わないと……』
皆を起こさないように荷物をまとめ、小さい妹弟たちの頬にキスをしてからわたしは家を出た。お兄ちゃん達にも、気が付いても出てこないでとお願いしてあった。
ふと振り返って、生まれ育った実家───『地竜の加護』商会王都本店を、薄暗い中じっと見つめる。三階建ての、どこにでもあるような店舗兼住宅だ。
でも、商店の立ち並ぶ繁華街の一角という激戦地で、ご先祖様がこの地で商売を始めて以来子々孫々守り抜いてきた歴戦の砦でもある。
あまり寂しい気分じゃないのは、たぶん、家族のためになるから。
そして、わたしにとっても新たな一歩になるから。
わたしもいつか、お店が持てますように。
そしてそのお店が、子や孫に受け継がれますように。
「……行ってきます」
わたしは店の前で頭を下げて、見慣れた通りを後にした。
……このまま隣国行きの馬車か船に乗り込めば格好も付くんだけど、弟たちの泣き顔は見たくないって理由で早出しただけなので、実は随分と暇がある。
わたしはぶらぶらとしながら、王城をぐるりと回って港の方に出た。
取り敢えずの目的地は、隣国ヴィルトールのフォントノワ。このラマディエよりもずっとずっと大きな港町だ。もちろん、行ったことはない。
船と違って岩山だらけの突き出た半島を迂回しなくていいから乗り合い馬車の方が早いけれど、船の方が断然安い。
代わりに週一便しかないので、お婆ちゃんの星見通り、出発日を合わせてあった。
「おっきいなあ……」
桟橋には、高々とした帆柱を立てた船が三隻浮かんでいる。
そのうち王国の旗を掲げているのはアルール唯一の軍船、『アミラル・ラ・ラメー』号だ。海賊退治もするけど貿易にも出向くし、王様の御座船にもなるという忙しい船だ。
残りの二隻はやはりヴィルトールの旗で、どちらかがわたしの乗る船だろうね。
それを横目に港の事務所に入ると、パイプをくわえた船員さんたちがじろりとこちらに目を向けてくる。
「おはようございます。
フォントノワに行く船はどれですか?」
「『ベルヴィール』号だね、昼前には出るよ」
定期船は週に一便だけど、他の貿易船が船荷のついでに乗せてくれることもあった。
値段も早さも大して変わらないけれど、待ち時間が短いならそれに越したことはない。今日のところは定期船に大人しく乗るけどね。
「フォントノワ行きは5グロッシェン、先払いだぜ」
「はい?」
「ああ、彼は『ベルヴィール』号の主計長殿だ」
「あー、はい。
ちょっと待って下さいね」
横から声を掛けてきたのは主計長、つまりは貿易事務から船賃の徴収、水夫の給料まで、船のお財布を握っている会計係さんだ。
5グロッシェンは手持ちのお金なら幾らになるんだっけと、わたしは指折り数えて計算を始めた。
国が違えばお金も完全に入れ替わる……と言うわけでもなくて、大陸会議───王様とか大領主とかとにかく偉い人たちの集まり───に参加している国の発行する標準金貨は、品位と大きさ、重さが規定されていて、同時に交換の比率は一番小さい銅貨1000枚分と取り決めが為されている。
これは大昔、大陸会議の音頭取りで魔族退治に集った各国傭兵の給与で揉めたことが原因とも、あまりの煩雑振りに結託した各国の商人たちがあの手この手で認めさせたとも言われているけど、おかげで『交易』についてはそれ以前に比べて円滑になったそうだ。
アルールや西方諸国で使われるドール金貨───リシャールドールとかルイドールとか、肖像画の王様で名前が変わる───は、ヴィルトールやその南にあるプローシャでも金貨として通用するし、ヴィルトールやプローシャのターレル金貨も、うちの店では受け取っていた。……そんな大商いは滅多になかったけれど。
ところがこの合間……『商売』に一番必要で重要な部分が、無茶苦茶なままだった。
大昔の偉い人達は何を考えてこんな複雑な状況をほっといたんだか……。
そう、ついでに合わせておいてくれればいいものを、大陸会議は基準となる金貨については揃えたのに、銀貨はそれ以前から各国で使われていた銀貨をほぼそのまま使うことに決めてしまった。
金貨だけでは細かい買い物に不便だし、銅貨だけだとちょっとした買い物のたびに何十枚何百枚と店先で数える羽目になる……というのはわたしにもわかる。
だから合間には銀貨というありがたい貨幣がある。しかしながら、今も国によって大きさも価値もまちまちなのだ。代わりに互いを補いあってる部分もあるけれど、面倒の方が先に立つ。
いわゆる『商人泣かせの銀貨幣、指折り数えて朝が来た』というやつだ。
覚えてしまえば後は楽……なんてことはまったくない。これっぽっちもない。
このアルールだとドール金貨1枚はテストン銀貨25枚になるところが、ヴィルトールだとターレル金貨1枚がグルデン銀貨10枚とか、グロッシェン銀貨40枚になった。……更には小グルデン銀貨だの半グロッシェン銀貨だのが話をややこしくしてくれる。
他にも主なところでは12枚『半』で金貨1枚になるソル銀貨や、重くて嵩張るバッツェン銀貨があるし、同じ小銅貨が地域によってディナール、デナリウス、ドゥニエ、ペニヒと名を変えて、わたしたち商人を困らせていた。
同時に両替商などという合間を補い複雑な計算を代行してくれる商売もあって、時にありがたく思うことも、損と分かっていて利用することもあった。
「えーっと……これでいいですか?」
「ほう?」
……と言うわけで、わたしの手のひらにはテストン銀貨が3枚と、不足分の銅貨が5枚。
グロッシェン銀貨は銅貨25枚と同じ。5グロッシェンなら125枚。……手持ちじゃ数が足りない。
ソル銀貨なら銅貨80枚。……数はあるけど中途半端だし、銅貨が足りない。
テストン銀貨1枚だと銅貨40枚。これなら3枚で120。うん、残りを足せば問題なし。
このぐらいは計算尺なしにぱぱっと答えを出せなければ、店先にお客さんが溜まってしょうがないのだ。アレットなんかもっと早いし。
もちろん、両国を行き来する船ならどちらの貨幣も扱ってくれるだろうというわたしの読みも、正しかった。……向こうに着いたら両替しないとね。
「姉ちゃん、素人じゃねえな?」
「8つから店番やってましたから」
「なるほど。
……ついて来な」
船賃を手渡すと、にやっ笑った主計長さんが顎で外を示したので、わたしは大人しくついていった。
ふっふっふ。
さあ、いよいよ本当に旅立ちだ!