第一話
このアルール王国には、初代国王陛下の有名なお言葉が残っている。
ある時、お忍びでふらりと酒場に足をお運びになられた王様は、跪くことも出来ぬ程ぐでんぐでんになった酔っぱらい達を前に、笑顔で仰られたという。
「これ正に正道なり。
皆が余の顔を知るように、皆の顔は働きぶりや人柄も含め、余もよくよく見知っておるからな。
無論、遊ぶ金欲しさに悪事を働いたなら余も顔を顰めようが、遊ぶ金欲しさに汗して働く正直者たちを誰が止められよう?
それにだ、ここまで酔っていながらなお跪こうとする忠礼満ちたる心、なかなかにあっぱれである。
褒美に一杯奢らせて貰おう」
この話には少し続きがあって、常に大量の酒を出せる酒場を維持出来るぐらい交易が安全且つ安定的に行われている証左であり、それまでは寒々とした漁村でしかなかった王都が、小さくともそれなりの街になったことを示すのだと、翌日宰相に語られたらしい。
まあ、言うなれば……。
狭い領土に酒場は一軒きり、王様を含めた国民全員がほぼ顔なじみで、王様が王妃様に隠れて飲もうとすればその店に顔を出さざるを得ないほど、この国が小さな小さな国だった頃のお話である。
▽▽▽
もちろん今は、そこまで小さな国じゃない。
お店に来るお得意さんの顔や、お世話になっている人達は別だけど、わたしも街の人の顔を全員覚えているわけなかった。
建国より500年、この王都ラマディエも人口数千人ほどの『都会』になって、酒場も一軒きりじゃなくてたくさんあるし、人の出入りも多い。酒場以外のお店も、商店街が出来るほど軒先を並べている。
そんなお店の一軒が、父さんの経営する……いや、していた『地竜の加護』商会王都本店こと、名前だけは立派でも何処にでもあるような冒険者向けの雑貨屋だ。
「いらっしゃいませ。
こんにちは、アルベールさん」
「おう。
今日はジネットが店番かい?」
「兄はベジャールまで買い付けに。
わたしは……もうすぐ一人立ちしますから、最後のおつとめですよ」
今入ってきたのは、東隣の農村に店を構えるパン屋のアルベールさん。亡くなった父さんの幼なじみだ。
店主───兄ガスパールは、週に一度、薬草市が開かれる南の山手にある村まで仕入れに出掛けている。真ん中の妹アレットは、二階で個包装や帳簿付けをしていて忙しい。
姉はきっかり15歳で西街区に店を構えるワイン商の三男に嫁いだし、一番下の妹はその下の弟たちの面倒を見ていた。
……となれば必然的に店番は次女のわたし、ジネットになる。
「ああ、もうそんな日取りだったか……。
お前さんも大変だな」
もちろん王都にも、パン屋さんはある。……と言うかうちの3軒隣にあるのだけれど、そこはアルベールさんの実家だった。父さんと仲が良かったこともあって、暖簾分けされた時に先代からうちに特定の商品を卸す権利を認められたそうだ。じゃないと、そんな横紙破りをして喧嘩にならないわけがないもんね。
「ほいじゃ、いつものな。堅焼きパンが50に蜂蜜棒が50」
「おつかれさまです」
堅焼きパンは日持ちはするけどあまりにも堅くて美味しくない保存食、蜂蜜棒は堅焼きパンとほぼ同じ製法でも短い棒状で、蜂蜜を練り込んであるから少し甘いし食べやすい。日持ちのするお菓子と保存食の中間かな。
仕入れ値なら堅焼きパンが1包み5ディナール半───銅貨5枚と半分、蜂蜜棒が1袋で2ディナール。
ここに税とか売れ残りを考慮して、堅焼きパンが1包み12ディナール、蜂蜜棒が1袋4ディナールで店先に並べられる。売って回る手間を考えればアルベールさんは儲けが少なくなっても王都に店を持つよりうちに卸す方が楽だし、うちはその手間賃で生活しているけど全部売れるわけでもないので思ったほど儲からない。
世の中上手くできているんだと、お父さんはよく溜息をついてたっけ……。
ちなみに冒険者や兵隊さんや船乗りでもないのに、うちの夕食はこの堅焼きパンになることもしばしばだった。
「間違いありません。
『これ正に』」
「『正道なり』。
ジネットも一端の店番になってきたな……」
「まだまだですよ」
「息子の嫁に来るか?」
「……息子さん、まだ12歳ですよね?
それにもう、決めましたから」
こちらが出した注文を書いた納品台帳にサインをして貰い、わたしも差し出された納品書にサインを入れる。これがないと、近衛騎士団よりもずっと恐ろしい王国政府司法院直属の査察官が来たときに言い訳が出来なくなってしまうので注意しなさいといつも父に言われていたし、手続き不備だとアルベールさんにも迷惑が掛かってしまう。
仕入先とのお金のやり取りは月の頭に行うので、この場では荷の間違いがないか確かめてサインを交換するだけだ。
「そうだ、来週は竈の修理があってな、3日程休むから納品がずれるって、ガスパールに言伝しとくれ」
「はい、ありがとうございます」
アルベールさんを送り出すと、しばらくしてやってきたのは西の漁村の漁師パトリスさん。燻製や干物などをいつものように置いて帰る。お兄ちゃんが出掛けていったように、週の頭はどこも仕入れや卸売りに忙しいのだ。
朝から昼にかけてはこの調子で、もちろんわたしも店先と店裏の倉庫との往復に忙しい。
週の真ん中はだいぶ暇になるから、店番の片手間に商法問答集や地産品目録なんかを読んでるけど、これもいつ役に立つんだか……。
でも夕方になると、仕入れが減って客足が伸びてくる。
王都近郊のダンジョンや森、草原から帰ってくる冒険者達が、足りなくなった備品や使ってしまった消耗品を買いに来てくれるのだ。
「ランプを壊されちまったんでな、1つ貰おうか」
「ありがとうございます」
「ねえちゃん、タラの干物と堅焼きパンを2袋」
「まいどー」
「ジネットちゃん1つ」
「100万ドールの掛け売り無し出世払い不可ですが、お手持ちはよろしいですか?」
「高っ!?」
朝の出掛けに買い物をする、という冒険者は珍しい。朝はギルドで依頼の奪い合いがあるし、それはそのまま出先の狩り場の奪い合いに繋がっていて実入りに影響するから、皆早寝早起きが基本だった。普段の態度や風体はともかく、実に健康的だよねえ……。
もちろん、夜警がお仕事の夜組さんは別だ。代わりに昼間、詰所の下働きをしている見習いの男の子がメモ書きを手にして買いに来る。
冒険者はもちろん、仕入先やら一見さん、近所のお婆ちゃんからお役人様まで。
彼ら『地竜の加護』商会ご来店の皆々様に過不足無く応対するのが、『これまでの』わたしのお仕事だった。
▽▽▽
最近は……と言うか、店番の仕事ももう長いので、客のからかいにも慣れきっていた。
8歳で真似事を始めてそろそろ十云年、売り時が過ぎそうで心配すると両親に言われ出してからでも、結構な年月が経っていた……ような気がする。
兄の結婚が決まったことも、少々圧力になっていた。
いやいや、うん。
お話はそれなりにあったんだけどね。器量は母譲りで悪くないはずだし、身元だって豪商じゃないけど先祖代々王都の商人で、働き者だと自分では思ってる。
でもねえ。
なんか合わない人ばかりで、断ってたらそのうち話が来なくなった。
……もちろん、『何でだろう?』なんて言わない。
いくら大店のボンボンでも頭にバカの付くような息子の所には嫁ぎたくないし、うちの両親と相手さんの家が懇意でも余所様の恋人押しのけるのは気が引ける上に後腐れが恐いし、別に後妻で嫁ぐのはいいけど息子さんが私より年上で子供までいるのは流石に勘弁だった。
妥協点だったはずの幼なじみたちは、こっちが店番に追われているうちに嫁を貰っていたり、冒険者として名が売れ始めたと思ったら行方知れずになってしまったりと、男運のなさを指折り数えるようで切ない。
下もつっかえてるし、そろそろ家を出る必要がある、というのもわかっていた。
特にまずかったのが半年前、両親が揃って他界したことだ。
西の国境を越えた隣国まで仕入れに出掛けていた両親は、峠の宿屋に泊まったその日、他の客達や宿の主人らと一緒に帰らぬ人となっていた。いい歳してるのに仲のいい夫婦と普段は呆れてたけど、いざ居なくなると……とても寂しい。
ついでに荷馬車と店の財布も奪われて、我が家の家計はどん底になった。特に痛かったのが馬と馬車で、これがないと仕入れに大きな支障が出る。
残されたわたしたちは、近所の馴染みや商工会のお偉いさんたちの手を煩わせてとにもかくにも葬儀を済ませると、兄ガスパールを中心に結束した。
『ほんとにいいの、お姉ちゃん?』
『……すまない、ジネット』
『まあ、しょうがないって……』
当座については、無理矢理乗り切ることに成功していた。ちょっとはお客さんも離れてしまったけど、あれから半年経った今はもう、お兄ちゃんも一端の店主と認められつつある。
ぶっちゃけると、嫁ぎ先の決まっていなかったわたしの持参金を馬車に換え、日々の稼ぎで文字通り食い繋いだ。流石に艶宿の扉を自分で叩く勇気はなかったし、妹たちにそんなことはさせられない。……艶宿のおねーさん方にはうちの常連さんもいて、面倒見のいいおおらかな人が多いんだけど、それとこれとは話が別だ。
とにかく、ほんの少しでも時間稼ぎは出来た。
じゃあ次は……となると、わたしの身の振り方だ。
お兄ちゃんの結婚は喪に服している今年いっぱいは宙に浮いたけど、お嫁さんのことを考えれば、やっぱり家は出た方がいいと結論はしていた。嫁いできて女主人となるはずが、年増の小姑が大きな顔をしていては向こうも気まずいだろうし、こっちだって色々面倒くさい。
もういっそ勤め先を探さず行商から身を立てようか、それとも多少はコネもあるし冒険者にでもなろうかと、心の中のもう一人のわたしが囁いてくるほどだ。
『自分の店』を自分の力で持つことにも、憧れはあった。
そして大事なことに、わたしが出ていけば家族の負担は……残念なことに確実に減る。わたしの分の持参金を、もう一度貯めなくて良くなるからだ。嫁いでくるリリアーヌさんの持参金も当面の生活費に消えるだろうけど、妹たち二人分なら何とかなると信じたい。
縁を切るというか、この王都に残っていては家族の精神的負担になることもわかっていたから、西のエヴルーか東のフォントノワに出る算段を立てている。
けれどその一人立ちも、厳しいと言えば厳しいのが困りものだった。
無駄遣いはするものでなしとあてもなく貯め込んではいたけれど、両親から渡されていた小遣いという名の給金はあったりなかったり、なかなか貯まってくれなかった上に、ここしばらくで出ていったお金も多い。
……これでアレットだけ余計に貰っていたりお兄ちゃんが贅沢をしていたのであれば、怒鳴りようもあった。でも、店番として売り上げの内実を知っているわたしは……何も言えなかった。
他よりましなはずの王都に店を構える商人も、蓋を開ければこんなもの。
だからと自暴自棄になるほど人生を投げたり悲観したりもしていなかったので、わたしも心の準備だけはしつつ、機会を待っていたのだ。
▽▽▽
「おかえりー」
「ただいま、ジネット」
「やれやれって顔だね……?」
そのお客さんが途切れた頃、ようやくお兄ちゃんが帰ってきた。南の山村は荷馬車で半日、往復なら丸々一日かかるのでしかたない。
嵩張る大荷物は、お兄ちゃんがえっちらおっちら。わたしは預かった店の財布を金庫にしまい、荷をほどいて棚を埋めていく。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
荷運びの手伝いをしていると、真ん中の妹───アレットが降りてきた。
手に持った小物……小分けしたポーションや丸薬が、彼女の手で棚に収納されていく。元魔術師の母に教え込まれ薬学にそこそこ知識のあるアレットは、兄が仕入れてきた薬草で魔法薬を作る。うちの稼ぎ頭だ。
「そうだ、ジネット。アレットも。
食後、ちょっと話がある」
「何かしら……?」
「お兄ちゃん?」
「まあ、いや、大事……うーん」
うむむと唸りだした兄に、わたしと妹の視線が重なった。