風の刻印
お題『ファンタジー』。
多忙の為新作が書けませず、随分以前に書いた作品を少し修正しただけのものです。
今も目に焼き付いている、あの姿。
夜明けの庭園、朝霞のもやの中でふるえていた、あの娘。
血と涙に濡れて、掠れた声で言った。
「アルネシア様、わたし……エルリックを殺してしまいました」
決して得られない許しをそれでも乞うように、両手を差し出した。その左手の手首から先はなく、ただ赤い血が溢れ出すばかり。
気丈な侯爵令嬢も流石に声を失い、それでもすぐにバルコニーから走り出て、崩れ落ちるその身体を抱きとめた。
アルネシアの白い夜着を瞬く間に紅く染めながら、ネイネットはその哀しみに壊れそうな意識を手放していった。
長い歴史を誇るジョーベの召喚師ギルドにあって、常に強大な力を保ち続けたロンニ一族。その血族意識は強く、排他的で独自の掟をもち、家の為ならばいのちを投げ出すことも厭わぬよう、幼い頃から教育される。
ネイネット・ロンニはそんな家に生まれ育った。当主ザフィルスの弟ディアスの長女として、生まれながらに精霊の息吹を感じ、優れた師について学び、その天賦の才を伸ばした。才能に乏しい者には辛いばかりの厳しい教育も、彼女には苦にならなかった。両親に慈しまれ、明るく屈託のない性質を皆に愛され、何の不足もない幸福な少女時代を過ごした。
そして、18歳にして将来を嘱望される一人前の召喚師となり、仕事絡みで出会ったネヴィア侯爵の子息エルリックに愛され、愛した。妾腹で爵位もないエルリックの貴族以外との婚姻を父侯爵は簡単に許したし、召喚師以外との婚姻を喜ばない一族の者たちもネヴィア家と縁戚になるのならとこれを寿いだ。エルリックの異母姉、ジョーベの次期巫女王候補、ネヴィア家の跡取娘のアルネシアにも、実の妹のように可愛がられた。
ネイネットは幸運な娘、他人も自分もそう信じて疑わなかった。
伯父ザフィルスが、突然の死を遂げるまでは。
ネイネットが伯父の死を感知したのは、左の手の甲に不思議な感覚を覚えた時だ。幼い頃から傍にいる風の精霊シリアが激しく騒ぐのを感じたネイネットは、その理由を探ろうとした。そして、見た。自らの左手に風の刻印が宿っているのを。
風の刻印は、一族の長のあかし。風の王シルフィードがみとめる唯一の存在。
彼女はおののいた。それは、従妹ウィリアが継ぐべきものだからだ。風の刻印は代々、当主の嫡子に、その死の瞬間に継承されてきた。
なぜ。
召喚師としての資質は、もしかしたらネイネットが優るかも知れない。だが、そんな事は関係ないのだ。一族の間で争いが起こらぬよう、必ず当主の長子が受け継ぐ、それが遠い昔に交わされた誓約なのだから。それを受け継ぐことによって、また、継承者の力量も当主にふさわしいものになっていくのである。
(なぜ? もうすぐ結婚して家を出る私に、どうして風の王が……)
彼女はまず、これによって自分の結婚に障害が出ることを恐れた。風の王を継ぐ者が、家を出て召喚師でない男と結婚する事を一族が許すだろうか? とてもそうは思えなかった。
「ネイ、一緒に逃げよう。」
事情を聞いたエルリックは即座に言った。
「何を言うの、エルリック。そんな事……できないわ」
「じゃあ君は、僕と別れる事になってもいいと言うのか? 君の一族の力は強い。父だって、僕の為にあえてこの結婚をおし進めるようなことはしないだろう」
「でも……アルネシア様がいるわ。アルネシア様なら……」
「だめだよ、あの人に迷惑はかけられない。あの人は味方になってくれるだろうけど、それはあの人の立場を悪くするだけだ」
「そう……そうね。でも、でも、じゃあどうすれば……」
「だから、一緒に逃げよう。アストレアに行こう。昔の友人がいるんだ」
「だめよ、そんな。風の刻印を持ち逃げするなんてできないわ!」
ネイネットは気弱に首を振り、許婚の胸に顔をうずめて泣いた。エルリックは困惑し、苛々と天井を仰いだ。こうしている間にも、ウィリアが刻印を継承していないことを知った一族の者が押しかけてくるかも知れないのだ。
「ネイ、とにかく家を出よう……」
そう言った時、部屋の扉が開いた。
「お父様」
父のディアスが立っていた。見たこともない奇妙な表情を浮かべている。
「ネイ。おまえに風の王が宿ったな」
「お父様、それは……」
「隠しても無駄だ、近い血族の者は皆感じている」
静かにディアスはネイネットに一歩近づいた。娘に甘い父を、怖いと感じたこともなかったネイネットが、思わず後ずさった。
「ディアス殿、ネイネットは……」
エルリックが言いかけたが、普段は温和で物腰も丁寧なディアスが今は振り向きもせず、威圧的な声で、
「部外者は黙っていて頂こう。出来れば外に出ていてもらいたい」
と告げたのみだった。
「僕は彼女の許婚です。部外者じゃありません。僕はここにいます」
「勝手にするがいい。後悔すると思うが」
そんな口調でエルリックにものを言う父を初めて見たネイネットは、益々怯えたように目を伏せた。その時、父の手に持っているものに気がついた。
「お父様。それは……」
ネイネットは悲鳴に近い声をあげた。ディアスは、血に濡れた剣を下げていた。
「どうして自分に風の王が宿ったのか、考えてみたか、ネイネット」
「ええ……でも、わからないわ」
ディアスは、愛娘に向かって剣を振り上げた。
「それは、おまえが兄の子だからだ! わたしの妻が不貞を働いたのだ!」
ネイネットは、館に母の存在が感じられないことにようやく気づいた。
「おまえが死ねば、刻印はウィリアに移る。それが一族の為なのだ。一族の為に死んで、あの世で母親を責めるがいい!」
「お父様……!!」
ネイネットの瞳に涙があふれる。なぜ。なぜ、こんな事になったのだろう。これは、悪い夢。夢はすぐに覚める筈。あの刃が私を貫けば、この夢は覚めるわ。優しい朝がくるわ。いつも通りのお父様、お母様、エルリック……。
「ネイ……!!」
涙でぼやけた視界が、赤く染まった。
「……エルリック殿」
父の声が、どこか遠いところから聞こえてくる。なにか、重いものがからだの上に乗っている。力を失った、温かい……。
「エルリック!」
エルリックが身体でネイネットを庇っていた。その背に深々と刃が突き立っていた。
「エルリック!! いやよ、どうして!」
「ネイ……逃げるんだ……愛しているよ……」
それが愛する人の最期の言葉。エルリックはネイネットの頬に手を伸ばそうとしたが、震える手はすぐに力なく垂れてそのままこときれた。
「エルリック! エルリック! うそ……うそよ、目を開けて、お願い!」
……エルリックが死んだ。ネイネットは呆然と座り込む。涙でぼやけた視界の中に、返り血を浴びて戸惑った表情の父が映っている。私のせいで。私が死なせた。なぜ。なぜ、こんな事になったのだろう。風の王が……そうだ、すべては風の王のせいだ。
「シルフィード!」
ネイネットは継承者にしか解らぬ言語で風の王の名を呼んだ。忽ち、部屋の中に風の力が満ちる。ディアスはよろめき、剣の柄から手を離した。
『新しき当主よ。おまえの力をみとめ、私の名を呼ぶことを許そう』
風の王の言葉を、ネイネットもディアスもはっきりと聞いた。ネイネットが当主となったのだ。ディアスはがっくりと床に手をついた。
「いいえ、私はおまえを拒否します。おまえの力などいらない!」
ネイネットはきっぱりと言い放った。風の王が微かに笑った気がした。
『面白い娘だ。だが、そなたに刻印がある限り、そなたは我から逃れることは出来ぬ』
「ならば、私は刻印を捨てる!」
次の瞬間、ネイネットは、母と恋人の血を吸った剣をとり、自らの左手首を切り落とした。激痛に意識を失いそうになりながらも、ネイネットは叫んでいた。
「こんな誓約はいらない! 私はいつか自分の力でおまえと、そして数多の精霊と誓約を結ぶ!」
部屋中に息もつけないくらいの風が吹き荒れた。風の王が大笑いしているのだ。
『人間の考えることは解らぬ。だが、それではその日を待つとしようか。この家との誓約から、おまえが私を解き放つという、その日を』
それからどうやってアルネシアのもとにたどりついたのか、ネイネットには思い出せない。
アルネシアに、ウィリアが新当主の座についたことを聞いた。
そして、とても言いにくそうに、だが言わない訳にはいかないからと、アルネシアはゆっくり話した。ネイネットがエルリックを殺害し、逃亡したとして、一族から、ギルドから除名され、追われていることを。
ネイネットは静かに聞いていた。白い包帯を巻かれた、棒のようになった左手をじっと見つめながら。
「アルネシア様、わたし……」
「何も言わなくていいのよ、ネイ。わたくしは貴女を信じているわ。わたくしが守ってあげる。ずっとここにいていいのよ」
「いいえ、アルネシア様。私、アストレアに行きます。エルリックが行こうと言った国。それから、世界を、色々なものを見てきます。考えたいんです。エルリックが守ってくれた私が、彼の代わりに何ができるのかを。私、父も母も恨んではいません。私を慈しみ、育ててくれた時間は、確かに存在したんですもの。ただ、すこし何かが狂ってしまっただけ。私は、いつかまた戻れるよう……みとめてもらえるよう……がんばるつもりです」
「ネイ……あなた……強いのね。そんなに……そんなに張りつめなくて、いいのよ……」
アルネシアは全ての事情が解った訳ではなかったが、ネイネットの言葉の重みはしっかりと感じ取った。彼女はネイネットの肩を抱き、声を立てて泣いた。ネイネットも静かに涙を流した。
それから数日後、ネイネットは姿を消した。
FIN