出発します
翌朝、クロエは最悪な気持ちで目を覚ました。今日は朝から雨が降っているだけではなく、あの心底どうでもいいアメリッサの仕事を始めなくてはならないからだ。憂鬱さから、起きようかどうしようか悩んでいるとドアをノックする音が聞こえた。
「クロエ様ー!おはようございます!美味しいグリーンティーが入りましたよー!」
元気よくクロエを呼ぶ声がする。リンだ。一気に気持ちが前向きになる。
「おはよう!今行くわ!」
自然と微笑みながら簡単な身支度をして部屋から出る。グリーンティーの香りが漂う。クロエはこの香りでいつも母のことを思い浮かべる。十年前に亡くなった母はこのお茶が好きだった。特にリンの淹れるお茶を好んで飲んでいた。
グリーンティーの香りが一層強まるダイニングに着くと、父と兄がもう席に付いていた。
「おはようクロエ。よく眠れたかな。」
優しく微笑む父はもう朝食を食べ終え、グリーンティーを楽しんでいた。
「よく眠れたわ。でも今日は朝から雨なのね。王宮から頼まれたお使いがあるからちょっと憂鬱だわ。」
アメリッサの依頼といえど王宮からの依頼には違いないので、家族にも気づかれてはいけない。唯一クロエの仕事を知る侍女のリンだけが気の毒そうな顔で見つめてくる。
「でもな、クロエ。雨は恵みの雨だぞ。この時期にたくさん雨が降らないと薬草の育ちも悪い。それに雨が降っているほうが埃も立ちにくくて子どもたちの調子も良いんだ。」
焼きたての、質素だが質の良いパンを頬張りながらノワルが言う。兄は内科医だが、薬草も全て自前の畑で賄っており、日々忙しく過ごしている。細身だがしっかりとした体つきで、農作業による日焼けもしているため、なかなか精悍な見た目をしている。
「おっとそろそろ子どもたちの親が来るな。みんなそりゃ気になるよな。」
うんうんと頷きながら、かろうじて医師とわかる白衣を羽織る。忙しなく出て行く兄をクロエは見送る。
「兄様なんだか楽しそうね。」
リンが出してくれる焼きたてのパンと新鮮な野菜を口に運びながらクロエは微笑む。そしてふと思い至る。
「そういえば、全く今まで気にしてなかったけど、私がリンと王宮に行っている間、お父様たちってどういう生活をしていたの…?」
そう、この家に侍女はリン一人しかおらず、そのリンもクロエ付きのため、王宮に泊まり込んでいる間は侍従なしの家となるのだ。
「えっ!まあ…なんとかやってるよ。朝はノワルがつくる野菜と果物のジュースで栄養はばっちりだし、昼とか夜は病院の食事で残ったものを少しもらってるよ。」
キョトンとした顔で父が答える。経営が苦しい病院とはいえ、人件費を削るわけにはいかないので、病院は病院で人を雇っている。
「この間食べたのはお星様の人参が入ったシチューだったよ。」
あれは楽しいね、と嬉しそうに話す父を見てクロエは吹き出した。父であるカーサは外科医として病院で働いている。手術中の父は真剣で怖いくらいだが、それ以外のことになると非常に穏やかで、かわいい物好きのおじさんなのだ。
「そっか。少し安心した。確かに病院の食事もおいしいもんね。」
リンが食後良いタイミングでグリーンティーを出してくれる。香りもそうだが、渋みと甘みのあるこの味わいがほっとするのだ。
「おいしい!やっぱりこの味ね…ほっとするような、静かに元気が出てくるような…」
温かいお茶が喉を通り、お腹を温めてくれる。憂鬱な気分が少しだけ晴れる。お腹も満たされたところで伸びをして椅子から立ち上がる。
「よし!ではお父様!いってきます!」
元気よく挨拶をするクロエを見てカーサは一層微笑む。
「お前が元気でいればそれで良いよ。」
カーサの傍らでお茶のおかわりを注ぐリンも、眩しそうにクロエの後ろ姿を見送る。
「マイ様に似てらっしゃいますね。」
リンの言葉にカーサも懐かしそうに天を仰ぐ。
「ああ…そうだなぁ…。マイもいつも元気いっぱいだったな…。」
亡き妻と、亡き主、二人はそれぞれの思い出に浸る。
「さあ、私もそろそろ仕事に行くよ。留守は頼んだよ。」
少しだけ赤くなった目元を上に向け、カーサは白衣を羽織る。
雨はかわらずしとしとと降り続いている。




