エピローグ 風が運ぶ声
丘の上 ――
あの日から数週間後。
春奈と敏行は、再び浜辺を歩いていた。
春奈はふと足を止め、小さく息を吸い込むと、一気に丘を駆け上がる。
白い電話ボックスは、変わらずそこに立っていた。
春奈はそっと扉を開け、受話器を耳に当てた。
当然ながら、何の音もしない――はずだった。
けれど、そのとき、確かに耳の奥で「ただいま」と、優しく囁かれたような気がした。
思わず涙ぐみながら、春奈はそっと微笑む。
「うん、大丈夫。――こっちは……ちゃんと届いてるよ」
春奈が受話器を戻すと、カチリと音を立てて、まるで自らの意志で戻ったように収まった。
その瞬間、ガラス窓に小さな手形が、淡く、一度だけ浮かび上がる。
それは陽炎のように揺れ、すぐに消えた。
春奈は気づかなかった。
丘を下りると、浜で待っていた敏行が手を振る。
「話せた?」
春奈は少しだけ考え、ふわりと笑った。
「うん。……たぶんね」
敏行は空を仰ぎ、ふとつぶやく。
「春奈……もし、あのとき俺がカラオケに行かずに、一緒に帰ってたら……って」
春奈はその言葉に、ゆっくり首を振った。
「敏行のせいじゃないよ。……それに」
「それに?」
「それに、きっと……あの子たちは“ただいま”って言えてる気がするんだ」
敏行は驚いたように春奈を見る。
「“ただいま”……か」
春奈はにっこりと微笑んだ。
「うん。だって、あの電話ボックスは、“さよなら”を言う場所じゃないもの。
“おかえり”って、言うための場所だもの」
敏行はしばらく黙っていたが、やがてその顔にも、穏やかな笑みが広がった。
「……そうだな」
春奈はふと敏行に尋ねる。
「ねえ、敏行。今年の夏、あの場所に“帰ってこられる場所”を作らない?」
敏行は目を瞬かせた。
「あの場所?」
「うん。ほら、小さい頃によく遊びに行った秘密の入り江。
あそこなら、きっとまた新しい思い出が作れると思うの」
敏行は空を仰ぎ、潮風を胸いっぱいに吸い込むと、大きくうなずいた。
「……いいね。それ、楽しみにしてる」
二人は並んで歩きながら、もう一度、丘の上に目を向けた。
白い電話ボックスは、いつもと変わらずそこにあった。
上空へカメラが静かに引いていくように、広い海と青い空。
そして二人の小さな背中だけが、そこに残されていた――。
やがて、その二人とすれ違うように、手をつないだ母娘が、楽しそうに浜辺を歩いて行く。
「ママ、おかえり」
小さな子が笑顔で母を見上げた。
海から吹く風は、どこまでも穏やかで、ほんの少し切なくて――
それでも、確かに未来へと続いていた。
彼らの足元には、小さな白いハマナスの花が、潮風にそっと揺れていた。
その花は、遠くに旅立った想いが、いつか必ず帰り着く場所にだけ、そっと咲くのだという――。
◇
入り江 ――
春奈と敏行は、夏の終わり、あの秘密の入り江を再び訪れていた。
春奈は、どこか誇らしげな表情で、小さな銀色の鐘を手にしていた。
「ここなら……風が、海まで声を運んでくれるかな」
春奈は、岩陰の古びた木の枝に、そっとその鐘を結びつけた。
敏行が首をかしげる。
「なんで鐘なんだ?」
春奈は微笑み、潮風に髪を揺らしながら答えた。
「ほら、『ただいま』って帰ってきたときに、この音が聞こえたら……
それだけで、『おかえり』って言ってもらえた気がするでしょ?」
風がふっと吹き抜け、小さな鐘がチリン、と優しく鳴る。
敏行は目を細め、遠くの海を見つめる。
「……いい音だな」
「ね、また来ようね。ここで『おかえり』って、言い合うために」
敏行はゆっくりとうなずいた。
――入り江には、小さな銀色の鐘が、そっと風に揺れていた。
潮風が吹くたび、澄んだ音色が波間にほどけていく。
遠い空へと溶けていくその響きは、まるで「ここにいるよ」「大丈夫だよ」と静かに告げる声のようだった。
それは、いつか誰かが――迷いながらでも、必ずここに帰ってこられるように。
そして、「おかえり」が、そっと優しく届くように。
いつまでも、その鐘は鳴り続ける。
誰かのために。
きっと、訪れるその日のために――。
◇
数日後、丘の白い電話ボックスが淡く光っていたという噂が町に広がった。
町の若者たちは「幽霊騒ぎだ」なんて茶化していたが、
祖父の誠一は、ふとあの子のことが胸によぎった。
夕暮れ、ひとりでその丘へ向かう。
その電話ボックスは、丘から海を見渡すように、ポツンと立っていた。
ボックスに入り、手を伸ばして、恐る恐る受話器を耳に当てる。
「……おじいちゃん」
その瞬間、確かに――あの子の声がした。
「心音……なのか?」
耳の奥に微かなノイズが混じり、潮騒が途切れ途切れに重なる。
それでも、はっきりと彼には聞こえた。
返事はなかった。
ただ、春の潮風に混じって聞こえた、その声だけが残っていた。
――ただいま!
誠一の頬を、涙がすっと伝った。
それは悲しみではなく、帰ってきた声を抱きしめるような、温かな涙だった。
◇
季節のめぐり ――
春が過ぎ、夏の足音が聞こえ始め、やがて秋の色が町を染めていく。
入り江には、小さな花が咲き誇っていた。
銀色の鐘は、変わらず静かに揺れている。
遠い空の下、潮風に乗って、どこまでも澄んだ音色が響いていた。
この町では、潮風が「ただいま」を運び、波が「おかえり」を返してくれる。
季節はめぐり、声も祈りも巡り続ける。
未来へと、静かに――そしてそれは確かに。




