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第3話 ただいまの、行方

春奈と敏行は、浜辺から丘へと向かっていた。

潮風が頬をなで、遠くから波の音が静かに届いてくる。


二人の視線の先、

小高い場所にぽつんと立つ、白い電話ボックス。


木々に囲まれたその場所は、

町では「波音の届く丘の白い電話」と呼ばれている。


「……昔は、もっと草ぼうぼうだったんだけどね」


春奈がつぶやく。


「今は誰かが手入れしてるみたいだな」


敏行は足元の枯れ葉を避けながら、

白い電話ボックスを見上げる。


ガラス窓は曇っているが、扉は閉まり、

中は整えられているようだった。


「線は、つながってないんだよな? あの電話」


「うん。線も電源も、何もない。

 ただ、そこにあるだけ」


春奈は、

受話器のぶら下がった、無音の箱をじっと見つめた。


「震災のあと、この電話に来る人、けっこういるんだって。

 お母さんに聞いたんだけど……」


春奈は、少し言葉を選ぶように間を置く。


「亡くなった人に言えなかったこととか、

 伝えたかったことを、ここで話すんだって」


敏行は、何も言わずにうなずいた。


しばらく、

風と波の音だけが、二人の間を満たす。


やがて、春奈がふいに口を開いた。


「……でも、ほんとはね、私、思うの」


敏行が、ちらりと視線を向ける。


「ここに来るのって、

 亡くなった人に話すためだけじゃない気がするの」


「じゃあ……何のために?」


「もしかしたら……

 あっちからも、かけてきてるのかも」


春奈は、白い電話ボックスから目を離さずに続けた。


「それに、

 気づかずにいる誰かが、

 家でずっと待ってるだけなのかもしれないって」


敏行は、ふっと小さく息を吐いた。


「それって……

 亡くなった人が、ここに来てるってこと?」


「うん。

 話したいのは、生きてる人だけじゃないのかも」


春奈は、そっと受話器に視線を落とす。


誰かの手が、

ほんの少し前まで、そこに触れていたような――

そんな、かすかなぬくもりが、まだ残っている気がした。



*** 丘の上 ――


「心音……今、どんなふうに過ごしてるの?」


やさしい声が、受話器の向こうから届いた。

それは、押しつけがましくも、問い詰めるようでもない。

ただ、娘を想う気持ちだけで満たされた声だった。


返事はなかった。

けれど、沈黙の奥に、言葉にできない感情が確かにあった。


「きっと、たくさん頑張ってきたよね。

 うまく笑えなかった日も、

 誰にも頼れなかった夜も……あったでしょう?」


美佐代の声には、責める色は一切なかった。

ただ、包み込むように、ゆっくりと語りかけてくる。


「本当はね、ちゃんと隣で見守っていたかった。

 どんな服が好きか、

 どんな人と仲良くしてるか、

 どんな夢を持ったのか……知りたかった」


美佐代は、遠い記憶をたぐるように語り続けた。


「最後の日、あなたはおじいちゃんに抱かれて、病室に来たわ。

 私はもう立てなくて、

 ベッドに横たわったまま、あなたに微笑みかけることしかできなかった」


短い、息を整えるような間。


「あなたは泣かなかった。

 ただ、口をムッと結んで、

 小さな手で、私の指をぎゅっと握ったの。


 そしてね……

 小さな声で、こう言ったのよ」


受話器の奥で、

波が、静かに返す音がした。


「『どしたの、ママ?……いつもみたいにニコニコして、……ママって』」


美佐代の声が、かすかに震えた。


「その瞬間、私は思ったの。

 死にたくないって。

 本当に……死にたくないって。


 ……ずっと、あなたの傍にいたいって」


心音の胸に、

熱いものが、こみ上げてくる。


「もっと、もっとたくさん、

 あなたと一緒に過ごしたかった。


 一緒にお弁当を作って、遠足に行って。

 好きな服を選んであげたり、

 恋の話を聞いてあげたり……」


波音が、またひとつ、重なった。


「いつか、大人になったあなたに、

 『ママ、これ似合う?』って聞かれたかった。

 悩んだときは、

 『大丈夫よ』って、この手で抱きしめてあげたかった」


しばらく、言葉が途切れる。


「でも……それができなかったから。

 せめて今、こうして、あなたに声を届けたいって。

 そして――あなたの声を、ずっと聞いていたいの」


心音は、とうとう堪えきれなかった。


「……わたしも、話したかったよ……

 もっと……もっと、話したかった……」


「心音。

 いまも、口をすぼめて、

 ぐっと、堪えてるんでしょ?」


「そんなの……無理だよ……」


心音の唇が震え、

大粒の涙が、次々にこぼれ落ちる。


(お母さんのこと、覚えてないはずなのに……

 どうして……こんなに、涙が出るんだろう……)


美佐代は、そっと囁いた。


「……泣いてくれて、ありがとう。

 大丈夫。


 涙はね、

 心がちゃんと“生きている”証なの」


「でも……お母さんは……もう……」


心音の言葉の先を、

丘を吹き抜ける風が、静かにさらっていった。


受話器の向こうで、

美佐代は、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「そうね。

 私は、生きてはいない」


短い、間。


「けれど……

 どうしても、あなたに伝えたい言葉があったの。


 そのために、

 わたしは“残した”の。


 言葉も、

 声も、

 記憶も――

 ぜんぶ、あなたに届くように」


かすかに、

波の音が重なる。


「生きていたころ、

 私は、あるサービスに登録したの。


 十五歳になった、

 あなたに会うために」


その瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。

病室のモニターに映し出された『人格記録プロトコル』の冷たい画面。

『あなたの存在を記録しますか?』という問いに、震える指で“はい”を選んだ。


胸の奥は、張り裂けそうだった。


自分の「私らしさ」が、

すべて数値やデータに変わってしまうようで、

怖くて、たまらなかった。


それでも――


たとえ形を失っても。

たとえ、声だけになっても。

もう一度、あなたに会えるのなら。


それで、よかった。


受話器を通して届くその話は、

あまりにも現実離れしていた。


それなのに、

心音は、不思議と嘘だとは思えなかった。


なぜなら、その声は、

心を撫でるようなあたたかさを持っていたから。


「心音。……あなたは今、どんな風に生きてるの?

 寂しくはなかった? 誰かに愛されてる?」


問いかけは、AIの反応としては、

あまりにも柔らかく、あまりにも揺れていた。

まるで、ほんとうに“魂”がそこに宿っているような。


返事はなかった。


波音が、そっと風に乗る。


長く、静かな間があった。


そして、美佐代は、ようやく言葉を続けた。


「本当はね……

 ずっと、あなたに伝えたかったことがあるの」


その声が、

ほんのわずかに震える。


「心音……

 生まれてきてくれて、ありがとう」


心音の目から、大粒の涙が落ちた。




*** 丘のふもと ――


「……あの電話ってさ」

春奈がぽつりと呟いた。


「きっと、亡くなった人が、

 残された誰かに電話をかける場所でもあるんだよね……」


敏行が、春奈に顔を向ける。


「でも、その“誰か”も、

 もしかしたら……同じ日に……

 一緒に、いなくなってるかもしれないけど――」


短い沈黙。


「でも、それでも……」


春奈が空を見上げて、目を細める。


「それでも、声が届いたなら……

 それだけで、きっと二人は、幸せなんだと思うの」


風が、

ふたりのあいだを、静かに吹き抜けていく。


敏行は、ゆっくりとうなずいた。


そして、

ふたりは同時に、

丘の上に立つ白い電話ボックスへと、視線を向けた。



*** 浜辺 ――


少し前のこと。


誰もいない浜辺に、

ひとつのスマートフォンが、打ち上げられていた。


砂に埋もれ、

画面にはひびが走っている。


バッテリーは、

とっくに切れているはずだった。


それなのに――


突然、

ふっと、画面が明るくなる。


メールの着信音が、

ひとつだけ、静かに鳴った。


「電話してください」 番号:090-xxxx-xxxx


冷たい風が吹き抜け、砂を巻き上げる。


そのとき、

スマートフォンの画面には、既読がついた。


時刻:15:15



*** 丘の上 ――


静かな波の音が、丘の上まで届いてくる。


小高い場所にぽつんと立つ、白い電話ボックス。

その中に、ひとりの少女がいた。


受話器を両手でそっと抱え、胸元にあてている。

涙のあとが頬をつたっていたが、

その表情には、どこか安らぎが宿っていた。


――松本心音。


バドミントン部の活動が急に中止になったあの日。

放課後、友人たちと別れ、祖父と住む家へ向かった。

家は流され、そのまま、少女は行方不明となった。


***


その姿は、誰にも見えない。


けれど、確かにそこにいた。

声を聞き、声を届け、想いを重ねるために――


彼女の足元には影がなく、

ただ風と光だけが、静かに流れている。


「……お母さん、おかえり」


心音は、そっと受話器を戻した。


そして、

波音に溶けるように、

丘の向こうへと、静かに消えていった。


***


春奈と敏行は、電話ボックスを見つめていた。


けれど、

そこに誰かがいたことには、気づかない。


ふたりの頬を撫でる、西風が、ただ心地よく吹いていた。


海は、どこまでも穏やかに波を返している。


――きっとこれからも、ずっと。

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― 新着の感想 ―
ここなちゃんも…(ToT) 春奈と敏行は、ここなちゃんとはまた関係のない2人なんでしょうか? 不思議な電話ボックス、僕も少し利用してみたいです。
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