第2話 ただいまの、行方
春奈と敏行は、浜辺から丘へと向かっていた。
潮風が頬をなで、遠くから波の音が静かに届いてくる。
二人の視線の先、小高い場所にぽつんと立つ、白い電話ボックス。
木々に囲まれたその場所は、町では「波音の届く丘の白い電話」と呼ばれていた。
「……昔は、もっと草ぼうぼうだったんだけどね。」
春奈がつぶやく。
「今は誰かが手入れしてるみたいだな。」
敏行が足元の枯れ葉を避けながら、白い電話ボックスを見上げる。
ガラス窓は曇っているが、扉は閉まり、中は整えられているようだった。
「線は、つながってないんだよな? あの電話。」
「うん。線も電源も、何もない。ただ、そこにあるだけ。」
春奈は、受話器のついた無音の箱をじっと見つめた。
「震災のあと、この電話に来る人、けっこういるんだって。
亡くなった人に言えなかったこととか、伝えたかったことを、ここで話すんだって。」
敏行は黙ってうなずいた。
しばらくの沈黙のあと、春奈がふいに口を開いた。
「……でも、ほんとはね、私、思うの。
ここに来るのって、亡くなった人に話すためだけじゃない気がするの。」
「じゃあ、何のために?」
「もしかしたら……あっちからも、かけてきてるのかも。
それに、気づかずにいる誰かが、ずっと待ってるだけなのかもしれないって。」
敏行はふっと息を吐いた。
「それって……亡くなった人が、ここに来てるってこと?」
「うん。話したいのは、生きてる人だけじゃないのかもしれない。」
春奈は受話器に視線を落とした。
誰かの手が、いまもそこに触れているような、そんなぬくもりが残っている気がした。
***
「心音……今、どんなふうに過ごしてるの?」
やさしい声が、受話器の向こうから届いた。
それは、押しつけがましくも、問い詰めるようでもない。
ただ、娘を想う気持ちだけで満たされた声だった。
返事はなかった。
けれど、沈黙の奥に、言葉にできない感情が確かにあった。
「きっと、たくさん頑張ってきたよね。
うまく笑えなかった日も、誰にも頼れなかった夜も、あったでしょう?」
美佐代の声には、責める色は一切なかった。
ただ、包み込むように、ゆっくりと語りかけてくる。
「本当は、ちゃんと隣で見守っていたかった。
どんな服が好きか、どんな人と仲良くしてるか、
どんな夢を持ったのか……知りたかった。」
美佐代は、遠い記憶をたぐるように語り続けた。
「最後の日、あなたはおじいちゃんに抱かれて、病室に来たわ。
私はもう立てなくて、ベッドに横たわったまま、あなたに微笑みかけることしかできなかった。
あなたは泣かなかった。ただ、口をムッと結んで、小さな手で私の指をぎゅっと握ったの。
そして、小さな声で言ったのよ。
「どしたの、ママ?……ニコニコして、……ママって。」
美佐代の声はかすかに震えていた。
「その瞬間、私は思ったの。死にたくないって。本当に死にたくないって。……ずっとあなたの傍にいたいって。」
心音の胸に、熱いものがこみ上げる。
「もっと、もっとたくさん、あなたと一緒に過ごしたかった。
一緒にお弁当を作って、遠足に行きたかった。
好きな服を選んであげたり、恋の話を聞いてあげたり……。
いつか、大人になったあなたに、『ママ、これ似合う?』って聞かれたかった。
悩んだときは、『大丈夫よ』って、隣で抱きしめてあげたかった。」
波音が、またひとつ重なった。
「でも、それができなかったから……せめて今、こうしてあなたの声を届けたいって。そして、あなたの声をずっと聞いていたいの。」
心音は、とうとう堪えきれずに、声を詰まらせた。
「……わたしも、話したかったよ。もっと……もっと、話したかった……」
「心音。いまも、口をすぼめて、ぐっと堪えてるんでしょ?」
「そんなの……無理だよ……」
心音の唇が震え、大粒の涙が堪えきれずにこぼれ落ちる。
「お母さんなんて、覚えてないはずなのに……どうして、こんなに涙が出るんだろう……」
美佐代はそっと囁いた。
「……泣いてくれて、ありがとう。
大丈夫。涙はね、心がちゃんと“生きている”証なの。」
「でも、お母さんは……もう」
心音の言いかけたその先を、風がさらっていく。
電話の向こう、美佐代は語る。
「そうね。私は、生きてはいない。けれど、あなたに伝えたい言葉があったの。
そのために、わたしは“残した”の。
言葉も、声も、記憶も、ぜんぶ──あなたに届くように」
かすかに、波の音がかぶさる。
「生きていたころ、私はあるサービスに登録したの。十五歳になった、あなたに会うために」
その瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。
病室のモニターに映し出された『人格記録プロトコル』の冷たい画面。
『あなたの存在を記録しますか?』という問いに、震える指で“はい”を選んだ。
胸の奥は、張り裂けそうだった。私の「私らしさ」が、すべて数値とデータに変わってしまうようで。
でも、それでも――たとえ形を失っても、もう一度あなたに会えるのなら、それでよかった。
受話器を通して届くその説明は、あまりにも現実離れしていた。
けれど、不思議と、嘘だとは思えなかった。
なぜなら、その声は、心を撫でるようなあたたかさを持っていたから。
「心音。……あなたは今、どんな風に生きてるの?
寂しくはなかった? 誰かに愛されてる?」
問いかけは、AIの反応としては、あまりに柔らかく、揺れていた。
まるで、ほんとうに“魂”がそこに宿っているような。
返事はなかった。
波音が、そっと風に乗る。
長く、静かな間があった。
そして、美佐代は、ようやく言葉を続けた。
「本当はね、ずっと、あなたに伝えたかったことがあるの」
その声が、ほんのわずかに震える。
「心音……生まれてきてくれて、ありがとう」
心音の目から、大粒の涙が落ちた。
***
丘のふもと、海辺を歩く春奈と敏行の足が止まる。
「……あの電話ってさ」
春奈がぽつりと呟いた。
「きっと、亡くなった人が、残された誰かに電話をかける場所でもあるんだよね……」
「でも、その誰かも、もしかしたら、同じ日に……一緒にいなくなってるかもしれないけど」
敏行はうつむいたまま、小さくうなずく。
「でも、それでも……」
春奈が空を見上げて、目を細める。
「それでも、声が届いたなら……それだけで、きっと幸せなんだと思う」
風が、ふたりの間を静かに吹き抜けていく。
敏行がゆっくりと、うなずいた。
そしてふたりは、丘の上に立つ白い電話ボックスに振り返った。
――少し前。
誰もいない浜辺に、ひとつのスマートフォンが打ち上げられていた。
砂に埋もれ、ひび割れた画面。
バッテリーはとっくに切れているはずだった。
それなのに、突然、ふっと画面が明るくなる。
メールの着信音が、ひとつだけ、鳴った。
「電話してください」
番号:090-xxxx-xxxx
冷たい風が吹き抜け、砂を巻き上げる。
スマートフォンの画面には、発信履歴が残されていた。
発信:090-xxxx-xxxx
時刻:15:15
***
静かな波の音が、丘の上まで届いてくる。
小高い場所にぽつんと立つ、白い電話ボックス。
その中に、ひとりの少女がいた。
受話器を両手でそっと抱え、胸元にあてている。
涙のあとが頬をつたっていたが、表情にはどこか、安らぎが宿っていた。
――松本心音。
バドミントン部の活動が急に中止になったあの日。
放課後、友人たちと別れ、祖父と住む家へ向かった。
家は流され、そのまま、少女は行方不明となった。
***
その姿は、誰にも見えない。
けれど、確かにそこにいた。
声を聞き、声を届け、想いを重ねるために――
彼女の足元には影がなく、ただ風と光だけが、静かに流れている。
「……お母さん、おかえり」
心音は、受話器をそっと戻す。
そして、微笑んだまま、丘の向こうへと消えて行った。
***
春奈と敏行が、電話ボックスを見つめていた。
けれど、何も気づくことはなかった。
ふたりの頬を撫でる、西風が、ただ心地よく吹いていた。
海は、どこまでも穏やかに波を返している。
――きっとこれからも、ずっと。