プロローグ
――春の終わり。
病室の窓から、やわらかな陽だまりが差し込んでいた。白く消毒液の匂いが漂う一室。けれど、その空間にだけは、優しい時間が流れていた。
「ママ!」
小さな足音が駆け寄ってくる。祖父に手を引かれた二歳の心音が、両手をいっぱいに広げて母・美佐代に抱きついた。
美佐代は、やせ細った腕で娘をそっと抱き上げる。もう力はほとんど残っていなかった。それでも、その小さな体温は、確かに彼女の胸の奥を温めた。
「心音、今日はママにプレゼントを持ってきてくれたの?」
心音は満面の笑みで、祖父から手渡された折り紙を掲げた。ぎこちなく折られた花の形。その真ん中に、覚えたての文字で「ママ だいすき」と書かれている。
「まあ、すごいわね。こんなにきれいなお花、ママ、はじめてもらったわ。」
美佐代はわざと大げさに目を丸くし、驚いてみせた。心音はくすくすと笑い、母の頬に小さな手をそっと当てる。
「ママ、にこにこしてると、かわいい!」
「そう? じゃあ、もっとにこにこしなくちゃね。」
美佐代は、その瞬間だけは、病の痛みも不安も、すべてを忘れていた。
心音は、ベッドの上で母の指をきゅっと握る。小さな指は、まるで「ママ、どこにも行かないで」と訴えているようだった。
ふと、美佐代は心音に尋ねた。
「ねえ、心音。ママと一緒に、どこか行きたいところある?」
心音はきょとんとした顔で少し考え、にっこり笑って答えた。
「うみ、行きたい!」
「そうね……うみ、行こうね。ママと手をつないで、うみを歩こうね。」
その約束は、もう叶わないことを、美佐代は知っていた。
それでも彼女は心の中で誓った。――たとえこの手がもう届かなくなっても、あなたが帰ってこられる場所を、きっと残すから。
それが、彼女に残された最後の祈りだった。