第1話 波音の届く丘
突然、スマートフォンの電源が入った。
メールの着信音がひとつ。
画面がふっと明るくなった。
波の音と同じリズムで、光がゆらいだ。
「電話してください」
番号:090-xxxx-xxxx
その画面を、ひとりの少女がそっと覗き込んだ。
そばでは、波の音が静かに響いている。
***
そのころ――。
少し離れた浜辺を、二人の高校生が歩いていた。
春奈と敏行。
二人は、生まれも育ちもこの町だった。
「……ここ、やっぱり変わらないね」
春奈が立ち止まり、灰色の海を見つめながら呟いた。
「変わらないのが……ちょっと、辛いよな」
敏行は砂を軽く蹴りながら、ぼそりと応える。
二年前のあの日の夕方、この海は牙をむいた。
家を、学校を、友達を――多くのものを呑み込んだ。
春奈は目を細め、潮の香りを感じ取る。
「ねぇ……敏行、覚えてる?
あの日の帰り、同じバドミントン部の3人と一緒にいたって言ってたじゃん」
「うん。部活が急に中止になって、俺だけカラオケに行くって、校門で別れたんだ。
……それが最後だった」
敏行は、いまだにスマホの連絡先を消せずにいた。
「敏行、仲良かったよね」
「ああ……でも、もういない」
敏行の声は、最後だけかすれていた。
春奈はそっと目を伏せて頷いた。
彼の親しかった友人たちも、あの日から行方不明のままだ。
「きっともう生きていない」と誰もが思いながらも、
誰も「死んだ」とは言わなかった。
「海ってさ……やっぱり、何か持ってるんだよね」
「持っているっていうよりも――“持っていった”って言ったほうが近いかもな」
風が吹き抜ける。
***
小高い丘の上。
白い電話ボックスがひとつ、ぽつんと立っていた。
町の人々が「波音の届く丘の白い電話」と呼ぶそれは、
つながっていない受話器を通して、誰かに想いを届けるための場所だった。
春奈はふと立ち止まり、遠くを見つめた。
「ねぇ、敏行。知ってる?
この電話、昔ある電気技師のおじいさんが置いたんだって」
敏行は首をかしげる。
「震災のずっと前、奥さんを亡くしてからだって。
線も電気も通さずに、『これで大切な人と話せる』って言ってたらしいの」
敏行は静かに受話器を見上げた。
ガラス窓は曇り、扉は閉じられていたが、誰かの手が最近触れたように、そこだけがきれいだった。
「……たまに思うの。
もし、あれが本当に届くなら……あの3人も、大事な人に電話をかけてるかもしれないって」
春奈の言葉に、敏行は何も言わず、ただ電話ボックスを見つめていた。
***
そのころ、少女は、海の近くの電話ボックスから、そっと電話をかけていた。
コール音が、静かに響いていた。
何度目かの呼び出しのあと、その声は届いた。
「……十五歳になったんだね。お誕生日、おめでとう」
やわらかく、どこか懐かしさを含んだ女性の声だった。
「……誰?」
少しの沈黙のあと、声は静かに名乗った。
「心音。……わたしは、美佐代。あなたのお母さんよ」
まるで、それが当然のことのような、落ち着いた口調だった。
シングルマザーだった心音の母、美佐代は、心音が二歳のときに病気で亡くなっていた。
心音はその後、浜の近くに住む祖父のもとに引き取られ、そこで育った。
母の名前を聞いても、記憶はない。けれど、心のどこかが、かすかに震えた。
「……母は……もう……」
「そうね。もう会うことはできない。
でも、こうして――声を届けることができたの」
「え……なんで?」
心音の手元の受話器に、波の音がかすかに混ざった。
「心音……覚えていないのも無理はないわ。
あなたがまだ小さかった頃のことだから。
でも、私は覚えてる。
あなたが生まれた日も、どんな顔で笑っていたかも。
――あなたはあまり泣かない子だったのよ」
波音が、受話器の奥で小さく重なった。
その声には、嘘をつくようなぎこちなさはなかった。
それどころか、まるで本当に“そこに母がいる”かのようだった。
戸惑いながらも、心音は受話器を握りしめたまま、しばらくそのやわらかな声に耳を傾け続けていた。
「心音……ねえ、あなたはきっと覚えていないわね。
でも、あなたがまだ小さかったころ――」
受話器越しの声は、やわらかな波のように続く。
「『くまのポンちゃん』っていう絵本、ママと一緒に、よく読んだわね。覚えてる?
あの、ちょっとくたびれた茶色いクマが、旅に出るお話」
心音はハッと息をのむ。
「……ポンちゃん……」
祖父の家の本棚。色あせた背表紙。
――確かに、そこにあった。
ページの隅が小さく折られ、最後のページには、幼い文字で「ここな」と書かれていた。
「あなたね、あのお話の最後で、ポンちゃんが『ただいま』って帰ってくるところが好きだったの。
いつも『ママ、ポンちゃん帰ってきたよ!』って笑って……」
美佐代の声が、ほんの少し震えた。
波の音が、また一度かすかに重なる。
「そのたびに、私は“よかったね”って言うの。
あなたの笑顔を見ると、ほかに言葉が見つからなかった。嬉しくて、愛おしくて……」
心音の胸に、熱いものが込み上げる。
「その絵本……今も持ってるよ……」
心音の声はかすれていた。
「そうなのね、嬉しいわ。
あなたは、いつもポンちゃんに『おかえり』って言ってたわ。
小さな手でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて……。
心音、『おかえり』はね――大切な人が帰ってきてくれたときの、
一番幸せな言葉なのよ」
温かな陽の光が、そっと電話ボックスの中に差し込んだ。
そのぬくもりが、まるで母の手のように、心音の頬を包んだ。




