007 『好き』とか『愛してる』って言いたかった
「は……ぁ、ふぅ……ぐ、ぎ……ッ」
喉から絞り出すような思音の声が聞こえた。
あたしはゆっくり目を開く。
「が、あぁ……あき、ちゃん……絶対に……っ、助け、る……ッ!」
傷だらけで、血まみれの思音が、それでも前に進もうとしていた。
お父さんとおばあちゃんの声は聞こえない。
逃げ切れた?
思音が、助けてくれた?
「が、はっ……助ける……天姫ちゃん、たすけ、る……ぐうぅぅぅっ……!」
とっても、苦しそうだ。
誰のせい?
あたしのせい。
それはわかってる。
全部あたしのせいだ。
でもそうじゃなくって、この傷は、誰が付けたもの?
「し、おん……?」
「天姫、ちゃん」
あたしが名前を読んだだけで、思音は嬉しそうな顔をした。
こんなに血だらけで痛そうなのに。
たくさんあたしが傷つけたのに、たったそれだけで。
「はは……目、覚めた、んだ。ああ、よかった。呼び、かけた、かい、あった。もどったんだ……」
思音は苦しそうに笑った。
彼女の体は穴だらけだ。
紫色の、腕ぐらいの太さがある触手が絡みついて、その先端がふくらはぎや太もも、腹部、腕、首などを貫いている。
右腕なんて、内側に入りこまれて原型を留めていない。
もはや千切れているというべきだろう。
なおも触手は脈動していて、“生きた何か”であることが見て取れた。
それでも思音の体は温かい。
たくさん血を流しても、生きているんだ。
心臓だって動いている。
体内を血液が循環している。
あたしはそれを、全身で感じていた。
……ところで。
右腕が無いのに、どうやって思音はあたしを抱えているの?
その疑問の答えを探すべく、自分の体を確かめる。
「なにこれ」
素直な感想が口からこぼれ落ちた。
あたしの体は、肩から下が完全にほどけていた。
うねうねと、宇宙人みたいに動く触手になって、それが思音の肉体を貫通しているのだ。
その影響か、思音の肉体は半分ほどが人間ではない色や形をしていた。
そして顔は左頬が思音の左肩に癒着していて、まるで根を張っているような状態である。
「ねえ思音っ、これ、何っ!? どうなってるのぉおっ!」
「あは、げんきだねえ、あきちゃ」
笑ってる場合じゃない。
誰が傷を付けたかって、あたしだ。
これはもうお父さんのせいとかお祖母ちゃんのせいにできない。
あたしが悪い。何もかもあたしが!
「あたしあのとき、名前を呼ばれて。確か――プレナ」
一文字目を告げた瞬間、あたしの人格は剥がれ落ちた。
必死に虚腕を伸ばして拾い集め、顔に貼り付ける。
強引なやり方だから突き刺されて、あたしの中身から血が噴き出した。
それは頭痛となりあたしの肉体に影響を及ぼす。
「あ、ぐうぅぅっ! 頭が、割れる……っ!」
「呼んじゃ駄目だよ、天姫ちゃん。真い名は、神の国に……至るために、用意されたもの、らしいから」
「じゃあ、やっぱりあたしが。あたしが思音のこと……っ」
「この状態を見て、私の心配だけするの……? ふふっ、天姫ちゃんも、結構、ボロボロだけど」
「あたしは痛くないもんっ!」
ちょっと消えそうになっただけで。
それすら、思音が引き戻してくれた。
痛いのは思音だけだ。
「ごめん。ぜんぶ、あたしのせいだ。ごめん。瑠璃垣、ごめん……」
「んー……暴力振るわれるのは、嬉しいけど……謝られると、ひたすら、悲しいかな……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「それにねぇ、天姫、ちゃんが……そうなった、おかげで、神様パワー、みたいなの? 使って、ちょっと戦えた、し」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「あと、わたし、さ……天姫ちゃんのために、命賭けると……生きてる、って感じするんだよね」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「きっと、わたしの、唯一の、存在を証明する、方法なんだって……」
「だって、それもあたしのせいじゃない!」
「天姫ちゃんのおかげだねぇ」
背負わないで、思音。
あたしにも、苦しませてよ。
「もっと……責めてよぉ。思音のそれ、罵られるより、ずっと辛いんだから」
「天姫ちゃんが謝るのといっしょだよ」
ああ、それ言われると、何も言えないや。
「私たち……おそろいだねえ……」
にへらと笑う思音。
かわいい。
そういう気の抜けた顔も、好きだったんだよね。
何やってたんだろあたし、この6年間。
こんなに一途で素直な子を傷つけてきたなんて。
「あーあ。もう足が、動かないか」
ふらふらとよろめくように、壁に体を預ける思音。
そのまま地面に座り込むと、浅い呼吸を繰り返す。
出血量が多すぎる。
もう、長くはもたないと思う。
「命も、遠ざかってる」
「わかるの?」
「だって、一つになってるんだもん。嫌でも見えるわ……色んなもの」
「でも、私、すっごくハッピーだから、いいかなぁ」
この期に及んでハッピーなんてありえる?
強がり以外で?
でも思音の表情は、迷いなんて一つもない。
「気づいてる? さっきから、思音って呼んでくれてるの」
……あれ、ほんとだ。
瑠璃垣って呼んでたはずなのに。
でも、あたしが思音ことを思音って呼ぶのは、当たり前のことだよね。
赤ちゃんの頃からお隣さん同士で、ずーっと一緒だったんだから。
「思い出して、くれたんだよね」
覚えてる。
あたし、思音のこと。
いざ思い出してみると、忘れてたことが馬鹿馬鹿しくなるぐらい、その存在は心にすっぽりと収まった。
むしろそれがなかった今までが、空虚すぎたぐらいだ。
そして同時に、この6年間の出来事が、吐き気を催す汚物へと変貌する。
「あたしと思音、一つになってるから……流れ込んできたのかもしれないわ」
「夢みたい。また天姫ちゃんが、私のことを思音って呼んでくれる、なんて」
たったそれだけのことを夢だと言えてしまうことが、悲しい。
「あたし、思音のことが大好きだった」
けどそうしてしまったのはあたしだ。
「誰よりも、大好きだった、のに……」
思い出せば、その反動として強烈な自己嫌悪感がこみ上げてくる。
ただでさえあたしはあたしを殺したかったのに。
今は、その比じゃない。
「最悪だ。最悪だ。あたしは、何もかも、最悪だ。あたしのせいで。あたしがいたから。あたしなんかが、思音の近くに生まれてきてしまったから……ッ!」
「天姫ちゃんがいたから、わたしは……幸せだったんだよ」
「幸せなわけないじゃないッ! こんなわけわかんないことに巻き込まれて、わけわかんない場所で死んでッ!」
思音はそんな人生を送るべき人間じゃない。
あたしよりもっと出来た人間と出会うはずだったし、あたしと出会ってしまったのなら、あたしが努力して、彼女の人生を彩らなければならなかった。
「本当の幸せっていうのはっ! 好きな人と、何事もなく、いっしょに過ごすことなのっ! 役に立つとか、立たないとか、命を賭けるとか、そんなの必要ないのよぉっ!」
当たり前の日常。
当たり前の毎日。
ありふれた朝を、あなたと迎えられたなら。
それが、一番の幸せだから。
「あき、ちゃんは、いっしょに、いたい?」
「いたいに決まってるじゃないッ!」
「ん、ありがとぉ」
「思音は、あたしみたいなクズには勿体ない人間なの。そんな人があたしのことを愛してくれた。命まで捧げてくれたっ! だったら、あたしだって人生を捧げたいって思うのは当然でしょう!?」
どうして今になって、そんな当然の事実に気づいたんだろう。
あたしにとってそれは、生まれたその瞬間から理解していなければおかしいほど、魂に刻まれるぐらい常識的な、何より優先すべき使命なのに!
「一緒に帰ろうよぉ、思音。やっと思い出せた。取り戻せた。やり直せるんだよ、これで! お願い、償わせて。思音のこと幸せにさせてぇ!」
思音はずっとニコニコしてあたしの叫びを聞いていた。
たったそれだけで幸せなんて言わないで。
あたしはまだ何もしてない。何もできてない。何も与えられていない。
思音から奪って、奪って、奪って、ただそれだけの寄生虫みたいな存在だった。
そう、この世界にあんな蟲みたいな化物が溢れているのは、きっとあたしがそういう存在だってことを示してるんだよ。
だってここはあたしを中心に生まれた世界。
醜さも、汚さも、全部あたしから溢れ出したもの!
「あきちゃん。つぐなわなくていい。じぶんを、せめないで」
「いいや、天姫には責任がある」
思音の優しすぎる言葉を上書きして汚したのは、男の声だった。
「このっ、ゴミクズが……ッ!」
肉親への情などない、純粋に憎しみだけを込めてそう呼ぶ。
「さあ、それから離れて、お父さんのところにきなさい」
「血が繋がってる方が癒着しやすいからねえ。そんな女より馴染むだろうさ」
「クソババアもいる……揃いも揃って、クズばっかだ。はは、あはは、柱家の血は呪われてるのぉ? 人間をクズにする成分でも入ってるのぉ!? お母さんはあんなにいい人だったのにっ、柱家なんかに嫁ぐから! あたしなんかを産むからぁっ!」
二人とも何も感じてないって顔してる。
ああそっか、あたしなんて娘じゃないもんねぇ。
二人が望んだのは真い名の方だもんねぇ。
クソ、クソ、クソ、なんでこんな家で生まれたの、あたしはッ!
「あんたたちと同じ場所に逝くぐらいならここで死ぬわ! 死んで、思音と、お母さんと同じ場所に逝きたいッ!」
「そんな下劣な欲求も、じきなくなるんよ。だから怖がらんで――」
クソババアの戯言を、
「バカだなぁ」
思音の一言が遮った。
彼女は虚ろな瞳を二人に向けて、挑発するように言い放つ。
不思議だった。
思音にそんな余裕がないことを、あたしは全身で感じていたから。
「きづかなかった?」
「はったりは無駄だ」
「陽動」
ひくりと、わずかにお祖母ちゃんの頬が引きつった。
「おとり。罠。餌」
お父さんの表情も険しくなる。
そんな二人を見て気分がよくなったのか、思音は調子に乗った顔をしていた。
「いまごろ、祭壇はがら空きだね。狙い目だ」
正直言って、あたしにもそれは強がりにしか思えなかった。
けど――見上げた空に、異変が起きる。
パリンという音がして、わずかだがヒビが入ったのだ。
「ああ……あれは、いかん。いかんよお!」
「何なの、母さん」
それに答えたのはお祖母ちゃんではなく、思音だった。
「光乃宮の神殺し」
あたしはよくわからなかったけど、お父さんは知っていたらしい。
さっと顔が青ざめる。
顔が大きいからわかりやすい。
「戻るよ尋祈ぃ!」
お祖母ちゃんが慌てて家の方へと向かう。
お父さんもそれを追って、走り出した。
「もう遅いよ……ふふっ……」
「あれ、何?」
「真恋さん。たぶん」
「思音の師匠って人? 空とか割って入ってこれるものなの?」
「まりんさんすごいから。神様と戦ったことあるんだよ? 異界の位置さえ分かれば、壁をこわして、はいれると思う」
「タイミングも合わせたんだ」
「ひめなさん、に案内されてるとき……れんらく、きてて。本当は、たよらない、つもりだったんだけど」
空に生じたヒビから、豆粒みたいな大きさの人間が降ってきた。
その真下にはあたしの家がある。
着弾――って言うのは正しくないかもしれないけど、その人が地面まで到達すると、ずしんと大きめの地響きがした。
一撃で家ごと祭壇を壊してしまったのか、途端に空が剥がれて、落ちてくる。
剥がれた欠片は空中で霧散して光の粒へと代わり、あたしたちの元に降り注いだ。
「空が壊れてる」
「うん」
「真恋さんって人、やったんだ」
「そうみたい」
異界が消えれば、怪物と化した部位も消える。
あたしたちも例外ではない。
あたしは肩から上だけ残って地面に放り出された。
不思議と痛くはない。
ただ、断面から大量の血がどろりと溢れ出している感覚はある。
心臓は残ってるんだろうか。
残っているとしたら、いまごろ血管に繋がった状態で地面に転がっているに違いない。
何十秒、命を繋げられるだろう。
思音も似たような状態だった。
肉体の大半を失い、残った部分も穴だらけ。
子供が雑に引きちぎった布みたいな体になってて、まともに残ってるのは、顔と片腕ぐらい。
ごろんと転がって、意識が遠ざかっていく中、あたしたちは見つめあう。
「ごめんね、あきちゃん」
「ごめん、しおん」
残された時間は短いのに、どうして謝ってるんだろう。
「もっと……うまく、たすけられたら……」
「あたしみたいなくずに、ちかづかなければ……」
あたしたちはバカだ。
(ああ、もっと、言いたいことあったはずなのに)
でもひょっとすると、思音も同じことを考えてるのかもしれない。
(もっと、伝えたい言葉があったはずなのに)
こんなはずじゃなかった。
あたしたちは、本当は、ずっと仲良しで。
ずっと二人でいられたはずなのに。
誰が間違ったわけでもないのに、最悪よりも最悪な未来をたどってここに来てしまったから。
「ごめん、ね」
「ごめん、しおん」
今際の際に、それしか言えないんだ。
読んでいただきありがとうございます。
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