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不老不死探偵 安倍孔明。とりあえず完結



 いやー、本当にすごかったね、さつきちゃん。で、わたし長光殿に女性剣士のこと言われてさ、例によって全く覚えてなかったんだけれども調べてもらって思い出しましたよ。そう。中沢琴!浪士組、新徴組のね。っつーか殺されかけたんじゃない、殺されたんじゃない、わたし。でもね、すごいよ。ほとんど痛くなかったの。たいした腕前だよね。この人有名なの?でもこうして歴史に名前が残ってるくらいだもんね。以外とわたし、他にも結構な有名人に殺されてる可能性もあるよね。ってか長光殿ひどくない?神様と会ったことは忘れてるのに女性剣士のことは覚えてるって。どんだけだよ!って。



「申し訳ありません。逃げられました」

 次の日、詩織は電話でそう言った。

 松下グループの息が掛かった病院に連れて行き、見張りもつけていたそうだが、あるものは殴られ、あるものは恫喝され、まんまと三人ともに逃げられたらしい。傘下の警備会社から人を呼んで見張っていたそうだが、警備と言っても普段はデパートや公共施設などで見回りをするのが主な会社である。物騒な事柄に慣れているとは言いがたく、仕方のないところではある。

 そのかわり美徳が大事な事を話してくれたと言う。

 彼らはおよそ三カ所の建物、テナントをアジトとして頻繁に引っ越しを繰り返しながらガサ入れ対策を行っていた。ハッキリとした住所や場所は分からないが美徳から聞いた特徴から、大体五カ所くらいまで絞れたらしい。

「十分だよ。すごいじゃない」

 それでも詩織は事務的な口調ではあるが再び謝罪の言葉を口にし、人手が必要ならまたいつでも言ってくれと言う。それから詩織がゆっくり読み上げる五つの住所をメモ用紙に書き取りながら孔明は言った。

「いいのいいの。しょうがないよね。悪かったね、無茶なことさせて。怪我までさせちゃって」

 一気に上の人間まで捕まえたいと欲張った自分のせいでもある。美徳も見つかった事だし、依頼内容を考えれば沙悟浄たちを警察に突き出して終わりでもよかったのだ。

「いいわけないじゃん」

 事の次第を知ったさつきが両手を腰に当てて憤慨している。

「あんな小魚蹴っ飛ばしたくらいであたしの気が収まるわけないじゃん。絹江ちゃんのお金取り戻してさ、詐欺グループを壊滅するまでが孔明ちゃんの仕事じゃん」

「そうだっけ!?」

 そんな約束をした覚えはないのだが、ここまできたらアヤカシ本体とまでは言わずとも、詐欺グループくらいはぶっ潰したいという思いもある。ちょうど危機感も薄れてきて、やったろうかしら、と言う気持ちもなくはない。

「でもさ、私は心配だよ、さつきちゃん」

「何が?」

 給湯室から持ってきたペットボトルのお茶を三分の一ほど喉に流し込み、さつきは真っ黒な瞳を孔明に向けた。こんな光景にもすっかり慣れてしまい、今では全く違和感も感じない。

「君が強いのは分かったんだけどさ、まだどれくらい敵がいて、どんなひどいヤツがいるかも分からないじゃない。テッポウ持ってる人間だっているかもしれないしね?さつきちゃん、無茶しそうだしさ」

「だーいじょーぶだって。所詮あんなもんなんだから、素人の喧嘩屋なんて」

 君も素人でしょ?と言いかけたがあまりの自信にひょっとして東京ドームの地下で行われている非公式の格闘技大会にでも出ているんじゃないかと疑ったが、頭を振ってすぐにその妄想を吹き消した。

「やっぱり危なっかしいなあ。じゃ、ちょっと待ってて?」

 そう言って孔明は奥の部屋へと入っていく。

 何となく手持ち無沙汰になったさつきは部屋の中をぐるりと見渡した。テレビをつけてみるが軽くザッピングしただけですぐに消す。祖父母の自宅がある京都ならば吉本新喜劇をやっている時間だが、関東の土曜昼では面白いテレビが何もない。菓子受けを開けてみたがおかきやあらればかりで何も取らずに閉めた。仕方なく立ち上がり、部屋の中をうろついた。いつもより少し広く感じるのは幸太郎がいないせいか、と気付くが、だからといってどうということもなく、探偵のくせに陰陽道や神道関連の本、そして漫画がやたら多い本棚を眺めているうち、ふと机の上のメモ用紙に目がとまった。

 孔明は自分が来る前に、詩織と電話で話していたと言っていた。さつきはこれが詐欺グループに関係する住所だと当たりをつけ、写真を撮って携帯の中にその住所を収めた。

 収めたところでドアの開く音がして、何事もなかったように本棚の前に移動する。

「はいはいはい。お待たせお待たせ」

 その手には白い紙でかたどられた人形がある。

「なんだ。またそういう感じのヤツ?」

「なーに?大事な事でしょう?美徳くんがあんな危ない目に遭ったのに結局無事だったのはこういう感じのヤツのおかげでしょう?」

「いや、あれはどう考えてもウチと幸太郎のおかげでしょう?」

「いいからいいから。減るもんじゃあるまいし。簡単に済ますから」

 さつきは口をへの字に曲げて「気をつけ」の姿勢をとる。

 さつきの厄、災いを移すため、孔明は手に持った人形をさつきの頭へと近づけた。が、そこでさつきは一歩下がる。

「なに?」

「いや、なに?じゃなくて」

 孔明は一歩進んで再び手を伸ばすが、二たびさつきは後退する。

「だから何?」

「何?じゃなくてさ。祓いの儀式。テレビとかで見たことなーい?この人形で全身を撫でてね、災いとかをこっちに移すの」

「全身を撫でる!?」

 さつきの眉間にシワが寄る。

「あ、いや、言い方が悪かったね。撫でると言っても触れるのは人形だけだから。ね?だからほら……」

 そう言ってさらに近づこうとしたとき、足下に激痛が走った。

「あだっ!!」

 さつきのローキックがふくらはぎにヒットしたのだ。

「変態!痴漢!」

「何だよもう。神聖な儀式なのに。分かったよ。じゃあ自分でやって?」

 足をさすりながら人形をさつきに手渡す。

「ざっとでいいからなるべく全身にね。しかし意外だね。そういう意識の全くない人かと思っていたけど」

「はい、やったよ」

 不機嫌そうな顔で差し出された人形を受け取り、片手で印を結んでブツブツと呪を唱えた。

「はい。おまじないだけ掛けといたからね。じゃあもう流すのも自分でやってくれる?本人がやるのが一番だから。君んちのすぐ近くに川があったでしょう?あそこでいいや。あそこにこの人形を流して、帰りは振り向かないように」

「こんなの川に流しちゃっていいの?」

「いいのいいの。ちゃんと水で溶けるやつだから。忘れて持って帰っちゃ駄目だよ?」

 ふーん、と、あまり興味なさそうに、さつきは人形をひらひらさせ、パーカーのポケットに押し込んだ。

「じゃ、あたし行くわ」

「え?」

 意外だったので思わず声を上げる。

 ぬりかべをやっつけたとき以外、いてもらって助かったと思ったことは一度もないし、今日はこれ以上暴力を振るわれても困るので引き留めるつもりも全くないのだが、普段何の用事がなくても二、三時間はだらだらと居座ることを考えれば逆に気味が悪い。

「怒ったのかい?」

 恐る恐る尋ねてみた。ふくらはぎの痛みが蘇る。

「何で?怒ってないよ?あたしにだってさ、忙しい日があるわけよ」

 そう言って事務所を出た。

 ほとんど入れ違いで幸太郎が帰ってきた。長光も一緒だ。昨日は松下家に泊まっていた。前回松下家に泊まったときは詩織が出張で不在だったらしいが、詩織も今は実家暮らしであるし、久々に自分の正体を知る女性と尾を二つに分け気兼ねなく話せたので、見るからに機嫌が良さそうだ。

「さっきビルから出てったのさつきさんですよね?来てたんですか?ってかもう帰ったんですか?」

「そうなんだよ。祓いの儀式でさ、ちょっと触れようとしたら怒っちゃってさ。それでか分かんないけどさっさと帰っちゃったの」

「それですよ、間違いなく。駄目ですよ、年頃の女の子なんだから」

「いや、だって本当に触るわけじゃないんだよ?災いを祓うために必要なことなんだしさ」

「ヘンタイ」

 長光がすれ違いざま、きつい一言を言い放った。孔明がさつきを帰らせたことで、せっかく良かった機嫌を損ねたようだ。まったく。一応神の一族のくせして助平なんだから。

 長光が立ち止まり、ものすごい形相で振り向いて牙をむき、爪を立てる。孔明は慌てて目を逸らした。

「そういえば先生、姉から話は聞きましたか?」

「うん。聞いたよ?しょうがないよね」

「幸子は美徳に会えたのか?」

 そう聞いたのは長光だ。幸太郎が皿に用意した温かい牛乳をペロペロと舐めている。こうして見ると尾が二つに分かれてる以外、普通の可愛い猫なのだが。

「ええ。二人ともすごく喜んでました」

 幸太郎はさつきが空にしたペットボトルや本などを片付けながら、ふと机の上のメモ用紙を見つける。

「ああ、これですか。アヤカシのアジト候補ってのは」

「さつきの匂いがする」

 長光が言った。

 厳密に言えばさつきはメモ用紙に触れてはおらず、長光が言っているのはさつきがこのメモ用紙に関心を寄せた空気感の事であって、魂の残像のようなもののことを言っている。が、勘の悪い二人はまだそのことと、さつきが早く帰ったことを結びつけることができない。

「………………」

 だが何か引っかかるものはあるらしく、無言でメモ用紙を睨みつけ、なんとかその「何か」を引き寄せようとするが、何かスーパーで買い忘れたものでもあったっけ?などと見当違いのことを思いつく始末。

 その時、事務所の扉が突然勢いよく開いた。いつもカランコロンカランと穏やかに鳴るドアベルが、バラララン!ガラガラン!と乱暴な音を立てた。

「先生!いる!?」

「花村くん!?どうしたの?すごい勢いで!」

 花村は日焼けした顔を赤く高揚させ、肩で息をしている。

「よかった……、無事だったか……」

 孔明の顔を見ると大きく息を吐き、崩れ落ちるように座り込んだ。

「何?無事って。どういうこと?」

「先生、今回のこと以前にもアヤカシと揉めたことある?」

 息を切らせながら聞いてくる。

 最近知ったことだが孔明が忍び込んで借用書を燃やしただいだら金融はアヤカシの傘下だった。そういう意味では揉めたとも言える。

「まあ……、揉めたっちゃあ揉めたかな?」

「噂なんだけどさ、アヤカシが最近探偵始めたばっかの探偵もどきに殺し屋差し向けたって。話聞いてると先生っぽかったからさ」

「もどきってひどくない!?それに……」

 それにあの件については,自分はとっくに殺されており、いくら何でも二度も殺されるいわれはない。

「俺も又聞きだからよく分かんないんだけどさ、殺り損ねたとかなんとか言ってたらしいよ?どういうこと?」

 どこかでばったり会ったのか。そりゃそうこともあるわな。

 と、そこで自分の身に降りかかった危険信号が、他の方向へ向く。机のメモ用紙とさつきの早帰りとがようやく結びついたのだ。

「あれ、あれれ?まずいぞ?」

「どうしたの、先生」

「どうしたんです?先生」

「さつきちゃん、このメモ見たかも。そんでこの場所に行こうとしてんのかも。そんで早く帰ったのかも」

「ええ!?」

 幸太郎と長光が声を上げて孔明を見る。事情の分からない花村だけが、さつきちゃん?だれ?何?と、目を黒々とさせている。

「えっとね、いつきさつきちゃんという高校生の女の子でね。依頼人ちゅうか助手っちゅうか友達っちゅうかお邪魔虫っちゅうか……」

「よく分かんねえ。何それ、両方名字で両方名前みたいな」

「そっちは今はいいの。とにかくその子がね、アヤカシのアジトとされる場所に一人で行ったかもしんないの」

「何それ、超やばいじゃん」

「超やばいの」

「孔明、電話だ!携帯に電話!」

 長光の声でハッと我に返り、孔明は幸太郎に言った。「幸太郎くん、さつきちゃんに電話!」

 はいっ!幸太郎は慌てて電話を操作するが、すぐに「駄目だ、電源切られてるみたいです」と、眉を下げて言った。

「とにかく探さなきゃ。俺も手伝うよ。その子の特徴は?」

「ショートカットで背は高くない。今日は紺色のパーカーを着てたな」

「分かった」

 花村はそう答えてメモを写真に撮り、部屋の出口へ体を向けた。

「じゃあ行こう」

 よし、と孔明も一度は出口に体を向けるが何かを思い出したように動きを止めた。

「どうした、先生」

「少し必要な準備を思い出した。花村くん、悪いけど私もすぐに行くから先に行っててくれるかい?」

「ああ、仲間にも手伝ってもらうからさ」

 連絡用に幸太郎の番号を教えてもらい、花村は事務所を飛び出した。

「ちょ、先生、のんびりしてる場合じゃないですよ。早く探さないとさつきさんのことだからアジトを見つけたらすぐにでも殴り込んじゃいますよ」

「まあまあ、幸太郎くん。こういうときは落ち着いてだね、神様の力を借りるんだ」

「神様?」

 焦れる幸太郎を尻目に、孔明は奥の部屋へ入っていく。が、すぐに戻ってきた。

「だめだ。ちょうどいいのがないや。あっ」

 そう言いながら孔明は傍らにあった競馬新聞を手に取った。自分はもう陰陽師ではない、占いは嫌いだ、などと言いつつも一応現状の力を保持する努力は続けており、競馬の結果を占うのもその一貫である。が、占いのおかげで当たったことは一度もない。やはり陰陽道は身近なことを占うには向いていないんだなあと思うが、どうせなら身近なことを占えるようになりたいとも思っている孔明が千年の間、唯一続けている努力である。。

「さて」

 孔明は目の前に競馬新聞を置き,一つ息を整えた。何をするのか察した長光は少し身を固くする。

「幸太郎くん、実は私ね、先日式神さんの姿を現すことに成功したの」

「まじっすか」

「まじなの。でね、今なら私、できそうな気がするから朱雀さんに降りていただいて手伝ってもらおうと思う」

「朱雀って四神のですか?鳥じゃないんですか?あれ」

「あれとか言わないの。鳥だけどね、方位的には午を司っているからいけると思う。時間もないしね」

 はあ、と、幸太郎は不安しかない表情を浮かべたが,孔明は構わず印を結び,呪を唱え始める。

 目を閉じ,集中していた孔明の耳にやがて幸太郎の、「あ、あ、」という、驚きと興奮の混じった声が聞こえた。

「まったく、競馬新聞で僕を呼び出すなんてどうかしてるよ」

 孔明の眼前に現れたのは、両手を広げれば鳥の翼にも見えそうな赤いコートを羽織り,大きなサングラスを掛けたロックスターのような見目麗しい青年だった。

「これまた派手な……。幸太郎くん、君にはどう見えてる?」

「え?どうって……、昔の楓さんのような派手なドレスを着た女性に見えますが……。違うんですか?」

「うん。私の力不足でね、人によって見え方が違うらしいんだ。長光どのにはまた元に近い姿で見えてるんだろう?」

 朱雀は知恵と美を司るが、どうやら美と派手好きの部分ばかりが突出してしまったようだ。選出を間違えたかと,すでに後悔が過ぎる。

「ああ。それはそうなんだが孔明、お前何やってんだ?」

 長光は孔明の足下に近寄り,小声で顔をしかめた。

「え?何って……」

「あっちを見てみろ」

 長光に言われて奥の部屋の出入り口に視線を向ける。

「わあっ!」「わあっ!」

 孔明と幸太郎が同時に声を上げた。少し開き掛かっているドアの隙間から髭面の男、勾陳が顔を出していたのだ。

「こ、勾陳さん!?呼んでないですよ?あなたは!」

「知らねえよ、お前が下手くそなんだろうがよ。俺だって呼ばれもしないのに勝手に出てくるわけないんだからよ」

 勾陳は不満をぶちまけつつ事務所に入ってくる。

「っつーか十二天将の二柱同時に呼び寄せるなんて逆にすげえよ」

「やれやれ、ずいぶん下品で騒がしいやつを呼んだんだね。帰ってもらいなよ。事情は大体分かってる。人探しでしょう?僕一人で十分だよ」

「うるせえ!相変わらずすかしたやつだ。こうなったら意地でも帰らねえぞ。お前より絶対先に見つけてやる!」

「わ、分かった、分かりました。お二人ともにお願いします」

 孔明は両手を広げて二人の間に割り入った。実際人手、いや神手は一人でも多い方がいいし、言い争いをしている時間もない。

「このメモにある住所なんですが……、住所って分かります?」

「住所ってのはよく分からないけれど、要はこれに強く残ってる少女の気配を追っていけばいいんだろ?」

 朱雀が言う。

「そんなの残ってるんですか?」

「ああ、残ってるな。楽勝だよ」

 勾陳が答える。俄然頼もしく思えてきた。

「よし、じゃあ早速行きましょう!」

 出かける際、もしも街中に僧侶や神父など神に近い立場の人間がいたら大きな蛇と大きな鳥が走り回っているように見え、大騒ぎになるんじゃないかと思ったが、考えないことにした。




 さつきはまずバスに乗り,小さな町工場だった場所へ向かうことにした。特に理由があったわけではなく、たまたまポケットに入っていた鉛筆でルーレットを作って転がし決めたのだ。

 いざとなればこの鉛筆も武器になるな。

 さつきの内部はすでに戦闘モードに入っていた。

 バスを降りて数分歩くと周りはだんだん寂れてきて、ビルは古く黒ずみ、スナックの看板ばかりが増えてきて、逆に人通りは少なくなった。真っ昼間に堂々とカラスが舞い降り,生ゴミを突いている。いきなり当たりを引いた予感に、さつきは身震いがした。

 目的の工場はすぐに分かった。古いビルや居酒屋風の建物の並びから、閉まった状態の大きなシャッターが二枚、突然現れるからだ。

 さつきはいったん通り過ぎ、さりげなく立ち止まって携帯を見るふりをしながら、横目で工場の様子を窺う。

 シャッターの横には出入り口と思われる、上半分にガラスのはめ込まれた戸があった。掠れてほとんど見えないが、鏑木工業と印字してある。ガラス部分には内側からマジックミラー調のフィルムが貼ってあり、ますます本命の匂いを漂わせた。

 携帯を見るふりを続けながらまずは隣の建物にギリギリまで近づき、そこから徐々に扉へと近づく。携帯から目を離さないまましばらく様子を窺ったが人の気配は感じない。隣の建物側からゆっくり手を伸ばしドアノブに手を掛けた。音が出ないようにゆっくりゆっくりとノブを回し、慎重に引いてみるが当然鍵は閉まっているようで、扉が動く様子はない。

 隣の建物との僅かな隙間に入っていってみることにした。さつきの細い体でも横向きでなければ入れない、狭い通りだ。音を立てないよう慎重にじりじり進んで行くと、さつきの頭二つくらい上に一つ目の窓があった。が、小さいうえに格子がはめられているのでどうにもならない。さらに進む。そもそもこんな日も差さないところに窓をつけて意味があるんだろうか、と思うが、この工場が建てられた頃はまだ隣の建物も無かったのかもしれない。その少し先に今度は胸の高さくらいの窓があった。一般家庭にあるような普通の大きさの窓で、侵入しようと思えば十分可能な広さだ。狭いなかをなんとか体を少し曲げ、中から見えないよう頭を下げて窓の下に潜り込み、人の気配が無いか息を潜めた。

 三十秒ほどして視線だけを上に向けると、窓のつなぎ目にカタツムリ型の鍵が見えた。その陰影から鍵は開いているように見える。

 焦れったい。いたらいたでやっつけてやる。そう決意して窓に手を伸ばした。一ミリ、二ミリと少しずつ横にずらし、五ミリ空いたところで頭を上げ、目玉を隙間にねじ込んで中を覗いた。

 ロッカールームのようだ。二、三十のロッカーが三列に並んでおり、いくつかは扉が開いて犬が腹を見せるように、空状態の中身を無防備に見せていた。

 もう少し、顔が入るくらいまで開けてみる。

 さつきが覗いている窓際には長椅子が置いてあった。正面の奥にドアを見つけたのでそちらに神経を集中させるが、やはり人の気配は感じない。ハズレだったのだろうか。窓を全開にして中に入ってみた。

 閉まっているロッカーをいくつか調べたがやはり中には何もなく、そもそも埃や鉄の匂いばかりで生物の存在を感じさせるものが何もない。そしてロッカールームの扉を開けて、さつきは確信した。

 工場は壁際にいくつかの工作機械を残し、中心部には広いスペースが作ってあった。そこに二枚ずつひっつける形で計六枚、会議用の机が並べられており、それぞれにパイプ椅子が四つから六つ、机の上には誰のものともしれぬ携帯電話が五、六個まとめて乱雑に置かれていた。パソコンもある。コピーされた資料のようなものもある。

 さつきは机に近づき、資料を手に取った。正確には資料ではなかった。台本だ。市や区の役員を名乗るパターン。警官を名乗るパターン。銀行員を名乗るパターン。

 役所の人間を名乗る場合でもいくつかの種類に分類されており、給付金を振り込むからATMに行って自分の言う通り操作してほしい、とか、同様にキャッシュカードを取りに行きます、だとか、その並びに市営、区営団地の補修工事に関する詐欺のシナリオもあった。内容は概ね絹江ちゃんから聞いたものと一致する。

 と、そのとき、突然背後からぎしっという革製品が擦れるような音がした。ゆっくり振り返ると、今まで全く気付かなかったが三人掛けのソファーがくの字に配置してあり、そこに一人ずつ男が寝そべっていた。さつきの正面に位置するソファーの男が半身を起こしている。目が合った。

「何だ?お前」

 男は明らかに寝起きで、開ききっていない目でなんとか相手を確認しようと顔を前に突き出し、寝癖の付いた頭をボリボリと掻いた。

 ここで一つ、さつきは大きな決断ミスをする。男はまだ頭もハッキリ覚めておらず、体も動く状態じゃなかった。ましてやもう一人の男など完全にまだ眠っていて、ここで動いておけば何ら苦労せず二人ともやっつけることができたかもしれないのだ。しかしさつきは一瞬悩んだあげく、相手の懐に入り込み油断させる作戦を選んだ。それで口をついた応えがこれだ。

「えー、面接?」

「は?面接?」

「はい。ここで働きたくて」

 男は首をひねり、隣のソファーで眠っている男の肩を叩く。

「おい、ヤマワロ、おい、起きろって」

 何度か体を揺すられ、ヤマワロと呼ばれた男は先に起きた男と同じように半身を起こし、顔をしかめて寝癖の頭を掻いた。

「だれ?」

 二人ともぬりかべや牛鬼ほど体は大きくないが、服の上から見てもいい筋肉の付き方をしているのが分かる。

「面接だってよ。お前何か聞いてるか?」

「面接?ここ、そんなのあんの?」

「俺も聞いたことねえよ。お前、ここで働きたいって、どこでここのことを知った?」

「えー、ハローワーク?」

 そんなはずがない。

 男たちの顔色がみるみる変わっていった。

「お前、怪しいな。何者だ?」

 二人はソファーから立ち上がり、二歩、三歩さつきに歩み寄る。その姿を見てさつきは拳を握りしめ、次いで背筋に冷たいものが走った。その所作、或いは体重移動、或いは足運び、更には体中から滲み出るオーラから本格的に何らかの格闘術をやっていた雰囲気を感じたからだ。

 いきなりヤマワロが距離を詰め、ハイキックを振り上げてきた。あまりに一瞬の出来事で反応が遅れたが、なんとか上体を反らし、鼻先をヤマワロの青いスニーカーが横切った。が、ホッとしたのもつかの間すぐにヤマワロの右フックがさつきの顎めがけて飛んできた。それを左腕でガードする。強い衝撃が走ったが、パワー自体はそれほどでもないようだ。しかしスピードが速すぎて反撃を加える余裕もない。横腹をめがけて再び拳が飛んできた。それもなんとかガードするが、堪らずサイドに大きく飛び、いったん距離を取った。

「エンラ、油断するなよ?こいつ、なかなかやるぞ」

「みたいだな」

 空気がさらに引き締まった。

 ぬりかべや牛鬼は体が大きいだけで動きは明らかに素人だった。興奮や怒りにまかせてがむしゃらに飛びかかってきてくれるならばまだいいが、格闘経験のある人間がこう冷静になられるとやっかいだ。

 今度はさつきから動き出した。この不利な流れを変えるには先に動くしかないと思ったのだ。

 机の上の携帯電話をヤマワロに向かって思い切り投げつけた。

「がっ!」

 携帯はヤマワロの額に命中し、頭を抑えてうめいたがダメージを与えるのが目的ではない。そのままエンラとの距離を詰め、ローキック、と見せかけ、足下に注意が行ったエンラの顎をめがけてハイキックを放った。が、読まれていた。エンラの固い筋肉質な腕にガツンと足の甲がめり込む。エンラが顔面に拳を放ってきた。当たらない。そう思ったが殴るためでなく、さつきの襟首を捕まえるための拳だと気づき、両手でエンラの腕を押して外側に流した。昔習っていた合気道が生きた。その動きを止めないまま体を回転させ、勢いを利用してエンラの横面に肘打ちを放つ。ガツン!と確かな手応えがあった。が、同時に横腹を自転車でぶつかられたような衝撃が走り、さつきは吹き飛んだ。ヤマワロの蹴りが入ったのだ。

 ここは一度退避して対応を考えるべき。さつきはそう思った。それは間違いではなかったと思う。しかしここでもまたさつきは判断ミスをする。後になって思えばやはり初めてのピンチで多少なりとも動揺していたのだと思う。逃げるなら自分が侵入してきたロッカールーム、或いはシャッター横の扉から外に出ればよかったのだ。ところがさつきはロッカールームとシャッターまでの間にもう一つ小さな部屋があり、そこのドアが開いていたものだから思わずその部屋へ飛び込んでしまった。入った瞬間、しまったと思ったが引き返すこともできず、戸を閉め鍵を掛けた。

 戸の正面で、そのままさつきはパーカーのポケットをまさぐり携帯電話を取り出す。そとき携帯と一緒に紙が出てきてゆっくりと床に落ちた。孔明から手渡された人形だ。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。せめて幸太郎が来てどちらか一人を倒してくれれば……。が、取りだした携帯は先ほどの衝撃で液晶画面がバキバキに割れていた。

 ドアノブがガチャガチャと乱暴に揺れる。

「おい!鍵持ってこい!」

 そりゃそうなるよね。さつきは辺りを見回した。

 元は事務室だったらしく、今は空だがおそらく資料や書類がたくさん入っていたであろうスチール製の本棚や、事務机がそのまま残っている。さつきは部屋の隅に立てかけてあったモップを手に取り、本棚と机の間にしゃがんで身を隠した。隠れたって絶対に見つかるのは分かっている。二人が自分を探そうと近づいてきたらモップで不意打ちを食らわせ、そこから勝機を見出すつもりだった。

 ガチャガチャと品のない音がしてドアノブが回る。きっと食事の際も口にものを入れたまま大口を開けて喋ったり大きな音を立てたり、行儀が悪いんだろうなと思わせる粗暴さであった。

 そんなことを考えながらもさつきは重心を前足へ移し、モップを握る手に力を込めた。手のひらに汗が滲んでいる。手を滑らせては命取りだから音が出ないようジーンズで汗を拭ってからもう一度モップを握り直した。

 二人が入ってくる。さつきが先ほど携帯を取りだした辺りで立ち止まったのが気配で分かった。鼓動が早くなり、モップを持つ手にさらに力が入る。

「おい!いたぞ!」

 こちらからは見えないのにもう見つかったのか。これでは不意打ちもくそもない。再び真っ向勝負をするしかないのか。そう思って立ち上がろうとしたとき思いもしないことが起こった。

「こい!このやろう!!」

 そう言って部屋を出ようとするのである。

 不思議に思い少しだけ机から顔を出して覗いてみると、先ほどポケットから落とした人形をエンラが持っており、そのまま二人して部屋を出て行ってしまった。

 何が起こったか分からず呆然としていると、死闘を繰り広げていた元工場の部屋から怒声と椅子や机が激しくぶつかり合う音がした。ドアまでそっと近づき工場を覗くと、エンラとヤマワロが狂ったようにパイプ椅子を床に打ち付けたり、踏みつけるように何度も床を蹴ったりしていた。そのたび叩かれ、踏みつけられた人形がひらひらとその場を舞っている。彼らがおかしくなったのか或いは自分の方がどうかしてしまったのか判然としないまま、ぽかんとその異様な光景を見ているしかなかった。

 そこへまた、今まで以上に乱暴で大きな音がした。建物全体に響く、金属の甲高い嫌な音で、さつきは思わず耳を塞いだ。エンラとヤマワロの二人も驚いて動きを止め、振り向く。

 シャッターをバールでこじ開ける音ではないかと推測はできたが、もはや正常な判断ができる思考状態ではなく、それが自分を助けに来た音だとは夢にも思わなかった。



 思い出した。晴明言ってたわ。兄ちゃん、動物ってね、喋るんだよ?草や花や虫たちもね、みんな喋るんだよ?って。わたしも子供だったけど、もっと小さな子の言うことだからさ、うんうん、そうだねー、なんて聞き流してたけど、そういうことだったんだ。わたしはね、菜食主義者ってのが嫌いなの。健康のためとかにやってる人はまあいいんだけどさ、動物が可哀想だからって植物もりもり食う人ってどうよ。植物だってきっともがれたら痛いだろうし死にたくないでしょう?我々は他の生き物の命を犠牲にせず生きることなんて絶対できないんだから。いのち、大事。ね。だから命を粗末にするような無茶をしちゃ駄目。いのち、大事。とはいえさすがにわたしはもう死なせてほしいけど。



 孔明、幸太郎、長光、勾陳、朱雀は連れだって歩いていた。他の人間にどう見えているか確かめるわけにもいかないが少なくとも朱雀は派手な格好をした人間に見えているはずで、すれ違うほとんどの人が驚いて振り返ったり、露骨にじろじろ見たりした。

 途中、バスに乗りたいと言い出したのでバスに乗った。やはりじろじろ見られた。二柱ともずいぶん興味深そうに運転席や座席、降りますブザーなどを見ているから、ただ単に乗ってみたかっただけではないかと疑った。

 バスを降りてしばらく歩くと何故か勾陳が立ち止まった。

「どうしました?」

 朱雀が振り返って聞く。

「いや、俺はこっちじゃねえと思う。俺はもっと子の方角に強い気配を感じる」

 孔明たちが向かっているのは酉の方角、つまり西で、勾陳はもっと北の方にさつきがいるといっているのだ。

「僕の案内で見つかりそうだからってでたらめ言うんじゃないですよ。間違いなくこっちです」

「いいや。絶対あっちだ!」

「わ、分かった。分かりました」

 孔明は慌てて二人の間に入る。こんなところでぶつかり合ってる場合ではない。

「じゃ、幸太郎くん、君、勾陳さんと一緒に行ってくれるかい?」

「分かりました。じゃ、先生、これを持っててください」

 そう言って幸太郎は自分のスマートフォーンを孔明に手渡す。

「自分は会社用のを持ってますから。使い方は分かってますよね?以前にも教えましたから。いや、先生、そこまで丁寧に持たなくても大丈夫ですよ」

 卵を持つようにそっと両手でスマートフォーンを包み込む孔明に幸太郎は言った。

「あ、ああ……、もちろん分かってるよ?」

 怪しかったので幸太郎はもう一度一から手ほどきをする。

「いいですか?先生、一度掛けてみますからね?……、ほら、音が鳴ってここに幸太郎、会社と表示されるでしょう?そしたらその緑の受話器マークを指で押してそのまま右にスイッと……、そうそう。じょうずじょうず。ほら、もしもーしって。で、自分から掛けるときはトイレの案内みたいなこのマークを押して、で、今度は上にスーッと……、そうそう。で、幸太郎ってとこ押して、また緑の受話器を……、そう。ほら、掛かった!」

 まるで老人にATMの操作を教える銀行員か低学年の小学生に算数を教える教師のようであるが、孔明は満足そうに目をキラキラさせている。以前にも同じ事をしたにも関わらず。

 別れて歩き出し、しばらくすると孔明はだんだん不安になってきた。神が全知全能でないことは孔明もよく分かっていて、神が自信満々であればあるほど不安が膨らむ。

「ね、長光殿。君からすればどう思う?こっちであってる?」

 孔明は隣を歩く長光に小声で聞いた。聞き取れないような小声でも孔明と長光は言語だけで話しているわけではないので問題はない。

「うーん……、確かに匂いはするがなあ……。いや、孔明、ちょっと待て。まさか……」

 長光が立ち止まり、前方に視線を固定させるので、孔明も同じように前を見た。

 そこには学校があった。土曜日なので昼間でも部活帰りの生徒が出入りしており、女生徒は見慣れた制服を身につけていた。間違いなくさつきの通う学校である。もちろん事務所から学校に行ったという可能性もあるにはあるが、毎日通う場所に気配が強く残っているのは当然のことで、どちらかと言えば……。

「あの……、朱雀さん?」

 振り向いた朱雀は困った顔、苦笑い、無表情を三角に配置しときちょうど中心に位置するような表情を浮かべていた。おそらくここがどういう場所で、自分がどういう間違いをおかしたか分かっているのだろう。そのとき、軽快な電子音でスマートフォーンが着信を知らせた。孔明は教わった通り緑の受話器を右にスライドさせる。

「もしもし?」

 相手はもちろん幸太郎で、あのあとタクシーに乗ることを要求され、タクシーで移動したらしい。

「で、言われたとおり行ってみたら、なんとさつきさんの団地だったんですよお。もちろんさつきさんは帰ってません。どうしましょう?」

 とりあえずこちらに戻ってくるよう言って電話を切った。やはりメモした住所に行くしかないが、自分一人が行ったところで助けになるとは思えず、合流してから行くほかない。と思っていたらまた電話が鳴った。今度は『はなむら』と表示されている。

「もしもし」

「もしもし?あれ?先生?」

「うん。どう?どんな様子?」

「見つけたぜ!?あの住所にあった廃工場だ」

 花村は早口でそう言った。力の入った口調にただならぬ雰囲気を感じ、胸が騒ぐ。

「空き缶拾ってるおっさんがさ、高校生くらいの女の子がその工場の様子を伺って横の狭い路地に入っていったそうなんだ。いま中から誰かが暴れてるような音もしてる。後輩たちがバールでシャッターこじ開けようとしてくれてるから開いたら俺も突撃する。先生も急いでな!」

 そう言って返事も聞かず、花村は通信を切った。

 朱雀の方を振り返ると変わらず、三角形の中心にある表情をしている。

 孔明はすぐ幸太郎に電話を掛けた。

「あ、幸太郎くん?見つかったらしいよ?メモにあった廃工場。そう。いま花村くんがそこにいる。タクシー拾えたら合流してそのままタクシーで廃工場に向かおう。それから……」

 孔明は言葉を切って再び朱雀の方を振り向く。

「お二人とも有り難うございました。今回結果は伴いませんでしたけれども情熱はビシバシに伝わりましたんでまた何かあったらよろしくっす」

 そう言って空いた右手で印を結ぶ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待て!手伝ったことに変わりはないんだからな!?プリンだぞ!?プリンを必ずお供えしろよ!?」

 携帯のスピーカーから国会のヤジのごとく飛んでくる声を無視して、孔明は結んだ印に念を込めた。すると朱雀の体が徐々に薄れていき、やがて競馬新聞がその場にふわっと舞い落ちた。

「あ、でもタクシーだと長光殿が乗れないか。住所も分かんないよね?」

「俺のことはいい。お前の気配を追いかけて後から行くから」

 長光は本気を出せば大型犬くらいのスピードで走ることができるのだ。




 ヤマワロとエンラはシャッターを凝視したまま身動きとれずにいた。警察にしてはサイレンの音がしなかったし開け方が乱暴すぎる。だからといってアヤカシを敵に回すようなチームがこの辺りにいるとも思えず、故に襲撃される心当たりもない。逃げるべきか迎え撃つべきか判断に迷っているのだろう。

 ガキン!と大きな音がして、その後でガラガラガラ、と、一気にシャッターが開く音がした。さらに顔を出して覗くと、全開きになったシャッターの両脇にバールを持った十代らしき少年が二人、その間を色が黒くて髪の短い金髪の男が歩いてきた。背筋が伸びてゆったりした足取りは、負けを知らない世界チャンピオンの入場を思わせる。

「何だ、てめえ!」

 先に動いたのはヤマワロだった。警察でない以上、迎え撃つべし、と判断したのだろう。

 二人の距離が縮まる。危ない。さつきはそう思った。まだ侵入者が味方だと決まったわけではないが、先ほどまでヤマワロたちとバチバチにやり合っていたので、心情的には侵入者の見方をしてしまう。

 あと三歩、どちらかが近づけば拳の届く距離になった。危ない。ヤマワロの射程距離はあなたが思っているよりずっと遠い。まだ届かないと思っているその距離からでもヤマワロは一瞬で踏み込み、拳をたたき込むことができる。

 果たしてその通りで、ヤマワロはまだ構えも取っていない金髪の懐に飛び込み、思い切り右拳を振るった。それに反応して金髪は構えこそ取ったがよけようともせず、自らも拳を振るった。

 ヤマワロの拳が金髪の左頬にヒットする。しかし吹き飛んだのはヤマワロの方だった。金髪の拳もヤマワロの顔面にぶち込まれていたのだ。カウンターとは言えない。相打ちでもない。明らかにヤマワロの拳が着弾した後に出した拳だった。格闘技術の「か」の字も感じないド素人の動き、ただの喧嘩屋の拳。ヤマワロは二メートル近く吹き飛び、そのまま気を失って動かなかった。

「五木さつきちゃん?」

 いつの間にか体ごとドアから出てしまっていたらしい。金髪の男は戦闘中とは思えないほど穏やかな笑みを浮かべてさつきに声を掛けた。久しぶりにフルネームを呼ばれ一瞬誰のことか分からなかったが、慌てて「はい」と返事をした。

「孔明先生に頼まれて探してたんだ。もうすぐ先生も来る。もう大丈夫だから表で待ってて?」

 孔明の名前を聞いてようやく日常に戻った安心感が全身に駆け巡るのを、さつきはハッキリ感じ取った。

「そっすか。じゃあ……」

 さつきが真横を通り抜けようとしても、エンラはもはや気にもしない。軽視されたようで気に入らないしリベンジを果たしたい気持ちもあったが、金髪が次にどういう戦い方をするのか興味があった。

 表に出ると、先ほどまでなかった軽のワンボックスが二十メートルほど先にテールを向けて止まっていた。「花村工業」というステッカーが貼ってある。おそらく彼らのものだろう。

 さつきは視線をシャッターの方に戻した。金髪の落ち着いた背中と、エンラの鬼のような形相が見える。エンラはじりじりと距離を詰め、金髪はゆっくり歩くように近づいてゆく。ヤマワロと対峙したときくらいの距離まで近づいたが、まだエンラの距離ではない。だがそこで金髪はおもむろに傍にあったパイプ椅子を手に取ると、ほとんど全力投球する勢いでエンラに椅子を叩きつけた。

「がっ!」

 二回。三回。パイプ椅子なので深刻なダメージにはならないだろうが、エンラは亀のように丸まってガードするほかない。それを見た金髪は椅子を投げ捨てるのと同時にエンラの髪を掴み、膝を鼻面に打ち付けた。二回、三回。それでほぼ勝負は決したと言ってもよい。金髪は出血した鼻を押さえ唸っているエンラの足を払い、倒れたエンラを上に乗って押さえつけた。

「おーい。ロープ持ってきてくれぃ。こいつら縛って他にも仲間が残ってないか建物中チェックするぞぉ」

 シャッターのところで立ち尽くしている少年たちに声を掛けると二人は弾かれたようにビクン!と体を反応させ、駆け足で表の軽バンにロープを取りに行った。

 金髪たちがロープでエンラとヤマワロを縛り始めた頃、タクシーがさつきの目の前で止まった。

「さつきちゃん!!」

「さつきさん!!」

 孔明と幸太郎がさつきに駆け寄る。

 二人の顔を見てさつきはホッとした。ホッとして、そんな自分に驚いた。やはり自分はあの危機的状況に少なからず焦り、恐怖していたのだと認めざるを得ない。

「良かった。無事で」

 中の金髪と目が合い、二人は手を上げて挨拶を交わす。

「あの金髪の人が助けてくれた。今やっつけた人間を縛ってる。そのあとで他に隠れてる連中がいないか調べるみたい」

「じゃ、わたし、ちょっと手伝ってきます」

 そう言って幸太郎は中に入っていった。

「しかしほんと無事で良かったよ。無茶するんだから」

 孔明とさつきは向かい合って立っていた。横目で時折工場内の様子を見る。さつきの視線の先はバス停留所から歩いてきた道があり、孔明の視線の五十メートルほど先はT字路になっていて、現在地より少しだけ広い通りに面している。そこにT字路の入り口を塞ぐ形で車が止まっていた。真っ黒なスモークのせいで中は見えないが、なんとなく見られているような気がして目を離せなくなった。すると、車の窓がゆっくりと下がり始めた。

「まあまあ。結果オーライってことで」

 さつきは自分より少し上にある孔明の目を見上げながら言った。孔明は返事をせず、驚いた表情でさつきの頭越しにT字路の方を見ていた。

 音は聞こえなかった。消音器のようなものを付けていたのかもしれない。さつきの頭の上を鋭い風が吹き抜けたと思ったら、次の瞬間には孔明の額に穴が開いていた。

 ゆっくりと後ろに倒れていく孔明。何が起きたか分からず、さつきはただ反射的に後ろを振り向こうと体を捻った。が、そこで頭の中に「振り向くな!」という声が響いた。

 タマが倒れた孔明に駆け寄っていた。

 そこでさつきは我に返り、自分も孔明に駆け寄る。

「孔明ちゃん!」

 救急車を呼ぼうと携帯を取り出すが、画面が割れて仕えないことを思い出した。

「孔明ちゃん!孔明ちゃん!」

「どうしたんですか?」

 異変に気付いた幸太郎が工場から出てきた。

「幸太郎!救急車!孔明ちゃんが!」

「ああ。あらら」

 やけに冷静な反応の幸太郎に腹が立ったが、そんなことを言っている場合ではない。

どうしていいか分からなかった。何か応急処置をと思い、止血しようとしたが血はそれほど出ていない。そもそももう何をしても無駄なのは明らかだった。額に穴が開いているのだ。

 幸太郎は電話口で軽口を叩きながら笑っている。

 現実感の湧かないさつきはただ黙って突っ立っているしかなかった。




「ぬらりさん?いたよ。うん。生きてた。だから素人は駄目なんだよな。うん。今コンビニ入ってった。やる?もう少し探ってみる?分かった。じゃ」

 自分が所属している組織はそのチーム名のためか、皆が妖怪にちなんだコードネームで呼ばれている。電話の相手はチームのトップで「ぬらり」。チームの中でも数人しか話すことを許されない人間で、自分は「がしゃ」、がしゃ髑髏という妖怪から付けられたそうだ。

 数日前、末端組織の金融屋に侵入者があり、現場に居合わせたメンバーがとち狂ってその相手を海に沈めてしまったらしい。ところが沈めて殺したはずの相手を街で見かけたというので、殺しの部門のがしゃがこうやって確認しに来たというわけだ。

 もっとも部門と言っても正式メンバーはがしゃ一人。たまに手伝ってくれるのが目の前でうんこ座りしている「ぶるぶる」。目の前にはもう一人いるが、これはその金融屋で現場に居合わせた下っ端。確認のために連れているだけで名前も知らないし、俺たちが何部門かも知らないだろう。

 コンビニから男がコーヒーを持って出てきた。「安倍孔明」という探偵であることは殺す直前に聞いたらしい。実際は殺せてなかったわけであるが。

 だから素人にやらせると駄目なのだ。アヤカシでは基本、殺しの必要があるときは殺し部門に依頼することになっている。もちろん絶対の決まりというわけではないが、素人は今回のように直接手を下すのが嫌で、海に沈めるなどという不確実な方法をとったり、刺殺するにしてもちゃんと急所を刺すことができないからだ。そもそも「ぬらり」はがしゃにさえ正式な外部から受けた注文以外の殺しを、あまりさせない。せいぜい一年に一度か二度。これは別にぬらりが優しいとか気弱とかそういうことではなくて、殺しが見つかれば警察は本腰を入れてアヤカシを壊滅させるだろうし、たくさん殺せば殺すほどどれほど巧妙に死体、その他を隠しても、否が応でも見つかる確率は高くなる。がしゃとしても年俸制であるから仕事が少ない分には楽で良い。

 安倍孔明は女と話していた。遠目からでもハッキリ美人と分かる女だった。一瞬、安倍孔明が自分の視線に気付いたそぶりを見せる。その日はそれ以上深入りするのはやめておいた。

 やはりどうもウチの組織を探っているようだ。

 ある日、安倍孔明は工事現場に入っていった。がしゃも中に侵入し、プレハブ小屋からヘルメットと安全ベルトを盗んだ。たまたまゆったりしたズボンを穿いていたので裾を靴下の中に突っ込むと、ニッカポッカに見えなくもない。作業しているふりをしながら安倍孔明の様子を伺った。

 一緒にいる金髪の男は見たことがある。確かこの辺では有名な元不良だったのではないか。なるほど、強そうだ。

 二人は喫煙スペースに入った。どうしようか。自分もタバコを吸うふりをして喫煙スースに入っていくのはさすがに危険か。

 喫煙スペースの小屋から三メートルほど離れた並びに自動販売機があった。がしゃは担いでいたパイプを適当なところに降ろし、自動販売機で飲み物を買うふりをして二人の会話を盗み聞いた。

 離れている上、工事の音が騒がしいので全ては聞き取れないが、「この少年」「探してる」「詐欺」というキーワードは聞こえた。どうやら人探しらしいが、「詐欺」というワードが引っかかった。この辺で詐欺というとアヤカシが関わっているとしか思えない。

 後日、もう少し詳しく探ってみると、やはりアヤカシの末端組織が運営する詐欺グループで、受け子をやっている少年を探しているという。すでに前回、失敗したものの金融屋が手を下してしまっていることだし、これ以上組織のことを探られても何だし、じゃ、殺しちゃおうか、という結論に至った。

 しかしいざ殺すとなるとなかなかチャンスに恵まれない。事務所にいるとき狙撃でもしようかと思っても周りにいい建物がなく、夜中に忍び込もうと思ってもビルなので玄関から入るほかなく、ピッキングして入ったとしても動物を飼っている家というのは動物が先に気付いて飼い主に知らせたりするので、成功率が下がる。

 そうこう考えているうちに、安倍孔明の探している少年が組織から逃げ出したらしいという情報が入った。ならば二人が接触、しかもなるべく人目に付かないところで接触する可能性が高い。

「で、いまどこ?」

 電話の向こうでぶるぶるが学校の中に逃げ込んだらしい、と伝える。

「は?学校?学校……かぁ」

 学校にはあまりいい思い出がなく、敷地内に入るのも気が重い。しかもすっかり暗くなった学校なんて二重に最悪ではないか。とはいえ情報が入ったのに何もしなかったのでは「ぬらり」に怒られるかもしれないので、とりあえず敷地内には入ってみる。

 時折懐中電灯で辺りを確認しながらがしゃは歩いた。上下ジャージを着ており、若いので私服の不良学生と言われればそう見える。

 殺し屋のくせにと言うべきか殺し屋だからこそと言うべきか、がしゃは心霊、霊魂の類いを信じており、何よりお化けが怖い。学校関係者、お化け、両方に気をつけながらがしゃはそろりそろりと歩いた。

 そんなときに地鳴りのような、落雷のような、大入道の足音のような、どすん!というものすごい音が聞こえたので、がしゃはその場で体感一メートルほど飛び上がった。

「キャッ!」

 イルカの鳴き声と同じ周波数の叫び声を上げて、思わず懐中電灯を落としそうになった。

 体を音のした方に向けるが、なかなか歩が進まない。

「仕事だからな。行かなくちゃ」

 自分を奮い立たせるため、実際声に出して三度唱えた。

 音のした方に進むと、体育館とグラウンドが見えてきた。その手前には校舎と中庭があり、中庭では何かの工事をしているらしく三角コーンで区切られた場所があり、看板も立っている。

 その辺りが怪しいと思ったので、懐中電灯をゆっくり左右に動かして異常がないか調べる。懐中電灯と言ってもペンライトに毛が生えた程度のものなので、それほど広範囲を照らすわけではない。少しずつ高さや範囲を変えながら隈無く照らした。

「……!!」

 その光の中を、何者かの影が横切った気がした。人間の大きさ、速さでなかったのは明らかで、思わずこぶし大の空気を喉に詰まらせ、気を失いそうになった。

 そこへ再びガシャーン!という大きな音がしたものだから、がしゃはピン!と背筋を伸ばしたままその場で白目をむいて数秒気を失い、ニャアという猫の鳴き声で目を覚ました。

 心臓を落ち着かせながらライトを音のした方に向けると、倒れた看板の横で、やたら尻尾の太い真っ白な猫がこちらを見ている。

「コラー!お前の仕業かぁ!」

 本気で怒ったわけではない。がしゃは猫が大好きなのだ。

 心臓が止まりそうな恐怖から、大好きな猫。究極の緊張と緩和。そのせいで少しおかしくなっていたのかもしれない。気がつくと逃げる猫を笑いながら走って追いかけていた。

 猫を見失い、我に返ったときは自分がどこにいるか分からなくなっていた。再び恐怖と戦いながら、構内を歩き、裏門で人影を見つけたときはもう遅かった。いつの間にか車が二台も止まっており、全員が乗り込んだ直後のようだった。もう追いかけることもできない。

「ごめんよー。なかなかタイミング合わなくてさ」

 次の日、がしゃは電話でぬらりと話していた。いいよいいよ。とぬらりは言う。実際、その声に落胆や怒りの色はなかった。

「あいつらの目的は詐欺チームだろ?後であいつらのヤサ送るからさ、そこで張ってりゃくんじゃない?もう多少のことは気にしないでやっちゃっていいから」

「いいの?後で困ったことにならない?」

「いいよ。そろそろあのチームも潮時かなーと思ってたところでさ。もう俺らと繋がる証拠は全部消し終わったから」

「あ、じゃあ、チーム全員始末しとこうか?昨日あいつらに捕まった奴らも逃げてどっかに隠れてるんだろ?」

「いいのいいの。めんどいっしょ?さすがにその人数殺すと後始末の方がやっかいになっちゃう。あいつらおびき出す用の人間以外は警察に捕まるよう段取りしといたから。で、捕まってバカみたくペラペラ喋っても俺らとの繋がりは何も出てこない……と」

「そう?ならいいけど」

 がしゃはぬらりとの通話を切った後、すぐぶるぶるに電話を掛け、車で迎えに来るよう伝える。それから銃の手入れを始めた。

銃の手入れが終わる。迎えが着く。一緒に昼食を取る。詐欺グループのアジトに向かう。

何もそんなすぐにアジトを張る必要もないように思えたが、たまにしかない仕事でモタモタもたついていると申し訳ない気になる。

 アジトのある通りは普通車同士なら十分すれ違える広さでありながら車通りは全くと言っていいほどなく、人通りもほとんどなかった。なるほど、いい場所だ。ぶるぶるの運転でゆっくり車を走らせ、辺りの建物も確認する。どこかから狙撃するか。

 通りを抜けて本線の道路に出た。ギリギリアジトが見える位置に車を止めて、携帯に送られてきたアジトの間取りを見る。やはり中で殺した方がいいか……。

「ちょ、がしゃさん、あれ……」

「え?」

 ぶるぶるは助手席の窓を少しだけ開けてアジトの方を見ていた。がしゃがいるのは後部座席だ。濃いスモークで見えづらいが、アジトの前に人影が見える。

「あれ、例の探偵のところに出入りしている女の子じゃないですか?」

「まじで?」

 今日は様子を見るだけのつもりだった。ここからぶるぶると交代で、或いは長引くようなら見張りだけのバイトを雇ってじっくり張り込むつもりだったのだ。

「もうここに辿り着いたの!?すごくない!?さすが探偵だよ!」

「え?あの子も探偵なんですか?」

「いや、知らないけど」

「でもなんかあの子、一人っぽくないですか?」

「えー?まさか……」

「あ。あ。間の細い通りに入っていきましたよ?一人で中に入るつもりなんじゃないですか?」

 二人はしばらく黙って事の成り行きを見た。その場で声や気配を感じ取ろうとするかのようだが、もちろん爆弾でも爆発しなければ聞こえそうもない。

「……、まじであの子、中に入ったんじゃないっすか?」

「……うん。だとしても探偵が来なきゃ話しになんねえよ。もう少し待つぞ」

「でももし探偵が来たとしてどうします?がしゃさんハンドガンしか持ってきてないんですよね?」

 がしゃはその質問には答えなかった。

 仕事のできる人間は自分の判断で臨機応変に対応する。自分は仕事のできる人間である。探偵だけを離れた場所に誘導してもいいし、無理だと思ったらこの場で殺すことは諦めてもいい。

 しばらく待った。集中力が少し途切れかけたところで、ぶるぶるが声を上げた。

「誰か来た!」

 途切れ欠けた意識を急いで戻す。

 工場のすぐ近くに軽のバンが止まり、そこから若い男が三人降りてきた。初めはキョロキョロしていたが、工場を見つけるとシャッターに顔が付くくらい近づき、中の様子を伺う。どこかで見た顔だと思ったら、工事現場で探偵と会っていた男だ。

 やがて男はさらに若い、少年のような男に指示を出して車からバールを持ってこさせ、シャッターを無理矢理こじ開け始めた。

「あいつら、中に入ろうとしてますよ?どうします?」

 どうするもこうするもターゲットが来ていないんだからどうすることもできない。ぬらりによれば中にいる囮の社員がどうなろうと問題はないようだから、仕切り直せばいいだけのこと。

 シャッターが開き、男たちが中に入るとすぐに女の子が中から出てきた。それから少年たちが慌ただしく出入りしたかと思うと、女の子の前にタクシーが止まった。出てきたのは探偵と、助手らしき大男だった。

「き、来た!探偵だ!」

 ぶるぶるは車内で大声を出してがしゃに頭を叩かれる。

 がしゃのいる後部座席はフルスモークで見えづらいが、間違いはなさそうだ。

 タクシーが去り、大男が中に入って外には女の子と探偵だけになった。二人は向かい合って立っており、探偵はがしゃたちの方に顔を向けている。女の子の後頭部の上に生首が乗っかったような状態で探偵の顔が見えた。

「ぶる!車移動して!」

 がしゃが突然思い立ったように指示してきた。

「早く!あの路地の出口を塞ぐ感じで!」

「は、はい!」

 言われるままにぶるぶるは車を移動させ、その間にがしゃはズボンのベルトラインに突っ込んでいた銃を取り出す。

「え?まさかここから撃つつもりですか!?無理ですよ!五十メートル以上ありますよ!?女の子の方に当たっちゃいますって!」

 大丈夫。いける。がしゃはそう確信していた。むしろ問題は距離よりもスピード。正面から狙うことになるから、相手が気付いて動く前に狙いを定めて引き金を引かなくてはならない。それに、もし女の子が振り返って顔を見られたら、女の子も撃ってしまうつもりだった。

 サプレッサーを取り付け、撃鉄を起こしておく。

 ドアの取っ手近くにあるボタンを押す。スモークの張られた黒い窓がスーッと下に降りる。銃を構えた。まだ探偵は気付いていない。ぶるぶるが唾を飲み込む音が聞こえた。自分よりよほど緊張しているようだ。狙いが定まる。そこでようやく探偵は自分の存在に気付いたようだ。だがもう遅い。

 バシュッ!というペットボトルロケットのような音がして、探偵の額に穴が開いた。探偵はそのまま棒きれのようにゆっくりと後ろに倒れる。何度も見たことのある光景だ。

 窓を閉めようとしたとき、女の子が一瞬、振り返るような仕草を見せた。がしゃは再び銃に手を掛けるが、結局女の子は振り返らず、倒れた探偵に駆け寄った。

 黒い窓がゆっくり上がってくるとき、いつの間に来ていたのか白い猫がじっとこちらを見ていた。

 ニャンニャンだ。

 微笑みかけたがスモークで見えるはずもなく、車はその場を発車した。

「あ、ぬらりさん?終わったよー。うん。額にバッチリ当たったから。あれで死んでなかったらもう不死身だと思って諦めるしかないね。ほんとにあいつだけでいいの?他に消しとくやついない?そう?分かった。じゃあそういうことで」

 外は気持ちのいい秋晴れ。「寒い」と文句を言うぶるぶるを尻目に、がしゃは窓を開け、冷たい風を浴びた。



 孔明は死にたがっている。だからわざと危険な状況に行動を移すんじゃないかと思うが、それは自殺ともちょっと違う、無意識のようなものだ。俺はこれまで何度も孔明と一緒に近しい人間の死に立ち会ってきた。そのたび不思議だったのだ。看取る孔明の感情に後ろめたさのようなものが混じっていることに。それで俺は最近思うんだ。もしかして孔明は自分が死ぬことによって気持ちをリセットしているんじゃないかと。周りがどんどん寿命に散っていく中、自分だけが生き残ってしまう後ろめたさ。それを何度も死んで何度も気持ちをリセットしている。そういうことなんじゃないかと最近思う。俺もいつかは死ぬ。俺たちの死は人間のそれとは少し違うが、俺が孔明から離れない限り、不本意ながら孔明に看取られることになるのだろう。その時孔明はどんな感情を見せるのか。先代の記憶にも先々代の記憶にもそれはなかった。



「いやー、孔明ちゃんが本当に不死身だったとはねえ」

 安倍探偵事務所の一室でさつきは紅茶をすすりながらしみじみと言った。

「いやー、当たったように見えて実は当たってなかったんだよ、びっくりして気、失っちゃっただけでさ。ね?幸太郎くん」

「え?ええ。そうです。先生ビビりだから」

「でも額に……」

「それはきっとあれですよ。たまたまそのタイミングで濃いめの鳥の糞が落ちてきたんですよ」

「そうそう。それよりさつきちゃん、さっきの話し本当?私の渡した人形をアヤカシの人たちが本当のさつきちゃんだと勘違いしたって?」

「うん、そう。あれ、一体何なの?」

 確かに、孔明が本気になればそれくらいの力を持たせることはできる。しかしあのときはあくまで簡易版。せいぜい水に流して三割程度の災いを避けることができる程度で、人形そのものが身代わりになるほどの力なんてあるはずもない。

「孔明、俺も気になることがあるんだが……」

 そう話しかけてきたのは長光だった。尾は一つで、孔明は目で返事をする。

「あのとき俺はさつきに振り向くなと言った。振り向いたらさつきのことも撃つつもりだと感じたからな。ただ俺としたことが慌てていたのか尾が一つのままだったんだ。それなのにさつきは、反応した。明らかに俺の声に反応して動きを止めたんだ」

「え?それって……」

 孔明と長光の視線がさつきに向かう。

 突然注目されたさつきはティーカップを口に付けたまま目をぱちくりさせていた。

「え?何?え?ちょっと待って。もしかしてこれって、タマちゃんが喋ってるの?」

「えーー!!」「えーー!!」「えーー!!」

「さつきさん、タマさんの言葉が聞こえるんですか!?」

 幸太郎は驚きと嫉妬の混じった悲鳴のような声を上げる。

「いや、でもまさか……。ここに来ると空耳みたいな声が聞こえるなーって思ってたんだけど……」

「おい、さつき、本当に俺の声が聞こえるのか?」

「あ、うん。意識して聞いたらはっきり聞こえる。まじで?信じらんないんだけど」

 信じられないのはこっちである。

 人形の効力を増大させ、一本尾状態の長光の声を聞く。

「さつきさん、すげえっす。何者なんですか」

「そういえばさつきちゃん、父方の実家が京都だって言ってたよね?なんていうお家なの?」

 何か根拠があって口にしたわけではない。なんとなく頭にふと浮かんだ疑問だったのだ。

「お爺ちゃんち?蘆屋。だから元々あたしは蘆屋さつきだったの。変ではないでしょ?」

「蘆屋?」

 孔明、長光、幸太郎がそれぞれ顔を見合わせる。

「いや、そもそもあの人って実在したんでしたっけ?」

「分からん。しかしこんな偶然があるか?」

 長光はもう尾を二つに分けていた。

 蘆屋道満。安倍晴明のライバルとして数々の物語に登場する陰陽師である。

「まさか……、ね」

 孔明、幸太郎、長光の視線がさつきに集まる。注目されたさつきは、戸惑った表情で視線を返した。


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