特殊詐欺編
東京湾に沈められました。
あ、実況中継風に言い直しましょうか?わーたーしーはー、いーまー、とうきょうわんにー、しずめられておりまーす!こんなことでも言わなきゃやってられんですよ。本当に沈めるんだもの、あの人たち。「東京湾に沈めるぞ!」って漫画やドラマの台詞では聞いたことあるけれども、本当に沈めるんだもの、あの人たち。死にゃしないですよ?それは分かってるんです。でも苦しいのは苦しいからね。昼間はまだ残暑で暖かい日があるとはいえ夜の海はさすがに冷たいしさ。あ、でも東京湾に沈むのは初めてだな。千年以上も不老不死やってるとね、斬られたり殴られたり埋められたり色んなひどい目に遭います。でもやっぱ息ができない窒息系はだめだね。殴られたり斬られたりはね、意外と痛みが麻痺すんの。すごい剣の達人に斬られたときなんかは、あれ?私今斬られました?って感じだったからね。まぁさすがにそれは大げさなんだけれども。
あーあ。苦しいな。目隠しもされてるしね、猿ぐつわもされてるし後ろ手に縛られてるし、それにこれは毛布かな?毛布的なもので包まれてテープか何かでぐるぐる巻きにされてるね、たぶん。あ、この毛布大丈夫だろうか
。衛生的な面で。ろくに歯も磨かないような脂ぎったおっさんが使ってたヤツだったら最悪だな。
あーあ。苦しいな。せっかくだから何か話しましょうか?生い立ちとか。あ、私の弟ね、すごい有名人なんですよ。安倍晴明。知ってます?陰陽師の。私は兄の孔明。まあね、私なんかは彼ほどの才能はなかったんで有名でもないし、十四の年、養子に行くことになりまして。分家の方にね。あ、分家と言っても後に晴明の師匠となる賀茂保憲様のところ、賀茂家のの分家ね。当時から息子のみっちゃん連れてウチに遊びに来ては、ついでに陰陽道教えてくれてたの。で、私は十四の年、大坂のいなかにある賀茂の分家で陰陽道を学びながら楽しく暮らすようになるわけです。おじさんおばさんも本当の息子のように優しくしてくれたし、娘の弥生ちゃんともすごく仲良くなったしね。ところがね、……、あー、だめだ、やっぱこれ話そうとすると泣けてきちゃうな。泣けてくると同時に怒りがこみ上げてきちゃうな。ある日、賊が来て一家皆殺しですよ。みんなまとめてね。私だけがね、なんとか逃げられたって寸法ですよ。正確に言うとおじさんとおばさんが無理矢理逃がしてくれたってことなんだけどね。当時は警察なんてないし、京都には検非違使がいたけど警察とは違うし大坂だし。でもね、暗かったし昔のことだから顔は分からないけれども、賊の声だけは今でもはっきりと思い出せるよ。まあ今となっては何の意味もないけど。わたしはもうどうしていいかも分からず、ええい、とにかく京の本家へ行くしかねえってんで道順も分からないまま京を目指す冒険が始まったわけです。ところがね、私、陰陽道かじってるくせしてずいぶんな方向音痴でね。いやね、夜、星が出てればさすがに私だって「あ、北極星があそこにあるんだからあっちが北だな」とか分かるんですけどね。申しました通り分家は田舎の方だったもので山の中に迷い込んじゃいまして。そうなったらもう夜なんて怖くって動けやしない。だからといって昼間は方向が分からない。川の水を飲み、野草を食べ、迷いに迷ったり三年間。たぶん。もう時間や年月なんて分かりゃしないですよ。後半ほとんど錯乱状態だもの。三年ってのも後々答え合わせして、多分そんくらいだったんだなってことだからね?だから「おおごろ様」を目の前にしたときも当然、夢、幻の類いだと思ったね。そりゃそうだよ、あんな二メートルをゆうに超す毛むくじゃらの熊みたいな生き物、いるわけないもん。額にも目みたいなものがあるしさ、化け物じみてるよね。あ、こんなこと言ったら怒られちゃうな。まぁでももう死ぬんだなって覚悟しましたよ。現実であれ幻であれ。で、実際襲いかかられた。襲いかかられたと感じましたよ。覆い被さってきたしね。目の前には私の顔より大きな、鋭い牙がずらりと並んだ口。私はほとんど抵抗する力もなく、自分の顔がその口の中へ入っていくのを、抜けた魂で外から眺めている気分になった。痛くはなかったけれど、恐怖のあまり私は気を失った。むくり。目が覚めた。生きてるじゃなぁーい。私、生きてるじゃなぁーい。やっぱりあれは幻だったのか。変なキノコでも食ったのかしら。気を取り直して起き上がろうとするじゃない?でもなんか変なんだよね。うまく説明できないけど自分のようで自分じゃないみたいな。自分の中にもう一人別の自分がいるみたいな。変だなーと思いながらふと前を見るとそこに真っ白い猫。あらー、かわいいニャンニャン、なんつって微笑み掛けんだけどそのニャンニャン、怒っているような悲しんでいるような絶望しているような、なんとも言えない表情してんの。で、「なんでこんなことを」って言うじゃない?「出てきてください!おおごろ様!」とも言うじゃない?「どしたの?」って聞くと、おおごろ様という神様がお前、つまり私ね、の中に入って一体化してしまったと。おおごろ様って?ってそりゃ聞くよね。「おおごろ様は人間が誕生したころから存在する山の神である」だって。ってかこのニャンニャン、人間の言葉喋ってるじゃない!何者!?「名を天正法位伝朝霧。おおごろ様に仕える猫又の一族である」だって。て、てんしょう……?まぁいいや。で、おおごろ様と一体化した私はどうなんの?「不老不死の力を手に入れる」すご!やった!やった?……やったなのかな?これ。それってつまり私は物の怪の類いになっちゃったってことじゃないの?「少なくとも普通の人間ではない」困ったな。いやね、当時弟の晴明はまだ有名でもなかったし正式な陰陽師ですらなかったんだけれども、やっぱまずいよね。周りはそういう力を持った人ばかりだし、ウチだって一応貴族の家柄なんだから物の怪になった長男がひょっこり帰ってくるって……、ね?まぁよく分からないけど他人の体なんて居心地いいわけないんだし、すぐ飽きて出て行ってくれるでしょう。ところでニャンニャン、この山から出る道分かる?
で、今に至る。至るまで千年ほどはしょりましたけれども。
さあ、もうずいぶん時間もたったでしょう。一日?二日?一週間?さすがにそれはないか。でもそろそろ助けが来るはずなんだけどなあ。来ると思うんだけど。来るといいなぁ。……まあいいや。寝ちゃおう。今日はもう寝ちゃおう。なんだか疲れちゃった。
薄れゆく意識の中で孔明は、今度こそこのまま死ねないものか、と願うがやはりそれは叶わなかった。
安倍孔明が目が覚ますとそこは高級ホテルのスイートルーム。自宅ではないが見覚えがないわけではない。以前にも気を失ったり危険な目に遭ったとき、連れてこられた部屋だ。寝転んでいるベッドは孔明が住んでいる部屋と同じ広さで、なんだかスラスラした肌触りのいいパジャマに着替えさせられていた。
体を半分だけ起こす。夜が真っ暗闇の時代をながくいきたくせに普段から明るくても眠れる体質だが、不慣れなシャンデリアの明かりで思わず目を細めた。白い肌に切れ長の目。おおごろ様と会ったときで年齢は止まっているから十八歳くらいのはずだが、当時の十八歳はもう立派な大人であったし、千年以上ある人生経験のためかそれなりの格好をすれば二十代後半くらいには見える。背も当時としては大きかったが最近になってようやく目立たなくなり、むしろ自分は現代人向きなのかも、と思い始めていた。
「ちっ、起きたのかよ」
視線を足下に向けると真っ白い猫が鋭い牙を口の端からちらつかせ、顔をしかめていた。
「相変わらず君は口が悪いな。君が着替えさせてくれたのかい?」
「んなわけねえだろ。それにな、何万回言わせんだ。俺ら一族は元々お前の中に居るおおごろ様に使えてんだ。お前にじゃねえ。従って俺がお前に丁寧な口をきく必要はまったくねえ!」
そう言って白猫は太くて長い尻尾をベッドに叩きつけた。尻尾だけが妙にふさふさして太く見えるのは、二つに分かれている尻尾を一本にまとめて誤魔化しているからだ。彼は猫又なのだ。名前を天正法位伝長光、あるいはタマ、ともいう。孔明が不老不死になった日に出会った天正方位伝朝霧の孫にあたる。彼らの一族は寿命が三百年から四百年くらい。ある程度は記憶の遺伝もあるようで、孔明に関すること、とりわけおおごろ様を奪った不届きなヤツ、という悪感情まできっちり申し送りができているようだ。
彼、長光殿の言う通り彼ら一族は孔明に忠誠を誓って色々と力になってくれているわけではない。千年と少し前、山の神おおごろ様と一体化して不老不死となったことは彼ら近習の者さえ全く知らされていなかった突然の行動で、外部から引き離す方法は誰にも分からず、おおごろ様が自らの意思で離れてくれるのを待つしかない状況なものだから、彼らも渋々ながら孔明の力になったりならなかったりといった案配なのである。
「ってまさか君、私の心の独り言、ずっと聞いてたんじゃないだろうね?」
「あぁ、実況中継風がどうとかってくだらねぇやつ?聞きたかねぇけど聞かなきゃ探せないんだからしょうがないだろ?」
「うわー、やだやだ、恥ずかしい。一方通行のテレパシーって何かずるいよね。もう禁止ね、禁止」
「禁止されなくても、こんなことでもなかったら好き好んでお前の心の中なんて見やしねえよ。大体お前……」
長光は突然言葉を止め、体を強張らせた。広すぎて部屋の入り口が遠く孔明の耳には聞こえなかったが、扉のノブを回す音が猫の耳には聞こえたのだろう。素早く部屋の隅にある化粧台へ飛び移り、警戒心を強めている。
「あらー!タマちゃん、二日ぶりだねぇ!?」
部屋の戸が開く音と同時に侵入者はドカドカとバスドラムのような足音を響かせ、真っ直ぐ長光へと向かった。
「寄るな!触るな!タマと呼ぶな!!」
長光は尾を二つに分け、背中の毛を逆立て、牙を剥き出しにして敵意をあらわにしているが、男は全く気にする様子もない。尾を二つに分けているときの長光の言葉は普通の人間でも聞き取れる。故に男にも聞こえているはずだが耳を貸そうとしない。
頭を撫でようと手を出し、長光は得意の猫パンチでそれを阻止しようとするが、柔道家でもある男は抜群の反射神経でパンチを躱し、再び手を出す。それをまた長光が払いのけようとし、男が躱す。それを何度も繰り返し、堪らず孔明は声を掛けた。
「幸太郎くん、よしなさいよ。タマちゃん困ってるじゃないの」
松下幸太郎はハッと孔明の方を振り返り、先生、起きてらっしゃったんですか!と言って百八十五センチの巨体を申し訳なさそうにすぼめた。対する長光は助け船を出されたにもかかわらず、孔明を恨めしそうに睨んでいる。人間より上であることを自負している長光は、人間にベタベタと触られることをよしとしないばかりか、フルネームで呼ばないと露骨に嫌な顔をした。しかし人間社会に紛れて生きるのなら、そんな大層な名前で呼ぶわけにもいかない。せめて人前でだけでも「タマ」という名前にしようという孔明の提案を渋々受け入れたのだが、未だに孔明が「タマ」と呼んだときはあからさまに不機嫌な顔をする。
「すいません、起こしちゃいましたか」
幸太郎が枕元まで歩み寄ってくる。
「起こしちゃうよ。もし私が今死んでたとしても、あの足音聞けば起きちゃうよ」
「またまたー。先生が死ぬだなんて冗談がお上手なんだから」
「その先生ってのも止めてくんない?昔みたいに孔明のおじちゃん、とかでいいよ。君も小さい頃はあんなに可愛かったのにね」
「そんな。表向きの年齢はもう私より年下なんですからね?年下におじちゃんはおかしいでしょう?」
孔明は返す言葉もなかった。
松下家とはもう百年以上の付き合いになる。たまたま孔明の占いによる助言がきっかけで商売が繁盛し始め、日本茶の輸出から始まった商売が今やホテル、私鉄、デパートなど松下グループだけで一つの街ができるくらいにまで成長した。戦後の財閥解体も孔明の助言をきっかけに逃れることができ、以来、義理堅く何かと世話を焼いてくれるので、孔明も時折、と言っても本当に一年に一度くらいのことだが陰陽道に基づいた占いで助言を行っている。松下家はそんな孔明をコンサルティングという名目で籍を置き、十分な給料までくれるし、副業で助けが必要なときは助けてくれる。中でも幸太郎は特によく孔明に懐き、自社の仕事をほっぽらかしてでも孔明を手伝いたがる。松下家は孔明の不老不死を知り、信じる数少ない一族である。
「やっぱり探偵なんて危ないですよ。」
探偵は三ヶ月前に始めたところだ。千年以上生きていく上で、転職と引っ越しは欠かせない。
「ま。私の場合探偵じゃなくても何故か命に関わるトラブルに巻き込まれることが多いけどね」
「今回は何が原因なんですか?」
「ヤミ金で困ってる人がいてね。本人の依頼ではないし、依頼内容はそこの違法性を証明する証拠を見つけてくれってことだったんだけれども、たまたま事務所に忍び込むことができちゃったもんだから、ついでに借用書捨てちゃえってな感じでそこにあった借用書、全部シュレッダーにかけちゃったの。それが見つかっちゃって」
そう考えるとやはりここ数百年の私は死なないからと言うか死に慣れてしまっているというか、危険に対して鈍感になっていることは否めないなあ、と孔明はぼんやり考える。元々ビビりな性格であるはずなのに麻痺してしまっているのだ。
「危険なことに首を突っ込むときは一人で行動しないようにしてください。ってかやっぱり占いやりましょうよ。その方が絶対安全だし儲かりますって」
「ならん。やだよ。私占いとかあんまり好きじゃないからね」
そう言って孔明は露骨に嫌な顔をする。
そもそも孔明はずいぶん早い段階で陰陽師と名乗ることをやめている。山を下りられるようになったあとも化け物になった自分を恥じ、なかなか街に入ることができず山の中や麓でウロウロしていた孔明は、修験者や山伏、僧、などと知り合い、独自の陰陽道を発展させていった。この力を使って人々の役に立ちたい。そう思っていたことも確かにある。しかし日々過ぎてゆく中で感じるのは自分の無力さばかりである。
自然災害を予測するのはそれほど難しいことではない。災害は木火土金水、五行のどれかに属しており、天体などにはっきりその兆候が見て取れるからだ。しかし何時、どこでなど細かい情報まで読み取ろうとするのは至難の業である。ましてやそんな曖昧な情報で人々を説得、逃がしたり対策を立てさせたりするのは不可能に近い。それぞれに生活があり、住処を手放すことのできないそれぞれの事情がある。晴明の時代のように国に陰陽寮という機関があり、役人として直接天皇や政府に訴えかけられればいいが、一個人ではそうもいかない。
「そもそも陰陽道なんてのは個人を占うものじゃなくてもっと……、ほ、は、……いっぷし!!」
「風邪ですか?何か温かいものでも食べますか?」
「そうだね。そんな大層なものじゃなくてよいよ。おうどんがいいな」
「しかしやっかいですね。死なないのに風邪とかは引くんだから」
「ねー。風邪は引くしお腹は空くし、悲しい別れは繰り返すし。ほんとろくなことないよ、不死なんて」
幸太郎は祖父を看取ったときの、孔明の悲しそうな顔を思い出した。考えてみればうちの祖父だって小さい頃から孔明に可愛がられていたはずであり、孔明にしてみれば可愛がっていた子供が先に亡くなったような気分なのかもしれない。そしてそのうち自分も……。少し悲しみの混じった笑顔を浮かべ、内線でフロントにうどんをよこすよう言った。このホテルも松下グループの経営だ。
「そういや前から思ってた素朴な疑問なんですが聞いてもいいですか?」
「気が乗らないね。今じゃなきゃ駄目?」
「もしも腕とか首が切り落とされた場合はどうなるんですか?爆弾でバラバラにされたときとか」
「うわ、ヘビーな質問。でも確かにそうだね。今まで刃物で殺されたときは全部袈裟切りか刺されてたもんな。爆殺なんてさすがにまだ経験してないし……。ほんとどうなるんだろうね。手とかまた生えてくんのかな。わ、なんかそれってやだな。ねえ?」
「あ、そういや今日、依頼の来客がありましたよ?」
「思いつきが過ぎるよ君!一つ一つの会話を処理していくって概念がないのかね君には」
長光が鼻でふふっと笑った。その声に反応して幸太郎は振り返るが、尾は一本に戻っており、彼には普通の鳴き声が聞こえただけである。長光にとって人間はそんな労力を使ってまで話したい相手ではないらしく、孔明以外の人間と話すことはあまりない。しかしそれも相手が男に限ったことで、女性だとやたら話したがる。あまりに節操なく正体を明かして話すので孔明が注意したこともあり、その場では文句を言いながらも、以来、女性でも限られた人間としか話さなくなった。
「高校生の女の子でした。制服だったんで学校帰りだと思うんですけど夕方くらいに事務所へ。今日は先生いないからまた明日来てほしいと言っておきましたよ?」
「高校生の女の子か……。彼氏の浮気調査かな?そういえば今日の昼間だったら私すでに行方不明だったよね?明日来てくれなんてよく言えたね?」
「ま。いつものことなんで」
確かに。探偵を始める前から、教師をやってもクラブのボーイをやっても、果ては漫画家のアシスタントをやっても何故かトラブルに巻き込まれ、よく拉致られた。
ケロッとした顔で答える幸太郎の顔を見て、意外とこの一族の中で一番大物になるのはこの子かもしれないな、と孔明は思った。
五木さつきはドアノブに伸ばした手を止めて、そのまま思案した。
何も問題はないはずだ。昨日応対してくれた大男は確かに明日来てくれと言った。体がごつくて少し頭が弱そうだが悪い人間には見えなかった。時間の指定はなく、昨日とほぼ同じ時間で向こうとしても予測しやすい時間だろう。古い雑居ビル特有のカビや埃の混じった苦い匂いがさつきの鼻先をくすぐった。いかにもテレビドラマの影響で探偵を始めた人間が事務所として選びそうな場所である。おそらく古い映画館の屋上なんかも候補として上がっていたに違いない。
ここを選んだのは同じ高校に通う友人に聞いたからだ。その友人は付き合っている男の浮気を疑い、素行調査を頼んだ。女子高校生が恋愛問題で探偵を雇うとは聞いたこともない話だが、とにかく安価であるからダメ元で頼んでみたらしい。結局その彼氏はクロもクロ、クロ中のクロの真っ黒けっけで五股が判明し友人は別れることとなったわけだが、それはつまり探偵の仕事としてはきちんと完遂されたということだ。ただ、その友人から注意事項として伝えられたのは、時々訳の分からないことをいう少し変わった探偵だから気をつけろ、ということだった。どんなことを言うんだ、と聞くと、何やら江戸時代はどうだったとか安倍晴明と話してどうとか、タイムスリップしてきた人間みたいなことを言う、と。なるほどそれは結構なクセのある人物かもしれないなということで、さつきも警戒せざるを得ないわけである。
さつきは掴んだままのドアノブをゆっくりと回した。回してから、あ、ノックも何もしていないや、と思ったが、キィーッと鉄の軋む音がブザーのように鳴り、続いてドアを押すと来客を知らせる喫茶店のような鈴の音がチリンチリンと鳴った。
「はーい」
最初に出てきたのは昨日応対してくれた背の高い大男だった。「先生はただいま行方不明なんですが明日には戻ってると思うので明日事務所に来てください」という高校生でも言わないようなくだらない冗談はさつきの不安を増幅させたが、こうして改めて見るとやはりあまり頭は良くなさそうだが人懐っこい笑顔で、がっしりした体つきは荒っぽいトラブルにも対応できそうな頼もしさを感じる。
「せんせい!昨日話した依頼者さんです!」
入り口近辺はトイレや給湯室があり、男は奥の部屋に向かって声を掛けた。やはりこの男は助手か何かなのだろう。その割には身につけているものがどれも高級品で、さつきの疑心がまたふわっと湧いた。お世辞にも繁盛しているとは言いがたい零細な探偵事務所の一従業員が身につけられるものではないことは、ブランドに詳しくないさつきにも一目で分かった。
「はーい、どうぞー」
左奥の部屋から軽薄な声が聞こえた。玄関前通路の突き当たりは小さな窓があり、ブラインドから夕暮れの光が漏れている。大男に突き当たりを折れて左の事務所へ入るよう促されたが、さつきは同時に最悪の事態を考え武器になりそうなものを探す。さつきは武道を習っている。中学までは合気道を、高校に入ってからは少林寺拳法を習っていて、どちらも県の大会に出れば必ず上位に食い込む腕前である。ジャッキー・チェンとジェット・リーが大好きで、漫画も刃牙や修羅の門など格闘ものを好んで読む。そのせいか常に最悪の状況を想定し、それに対する対処法を考えるのがクセになっていた。ボーイッシュなショートカットも武道の邪魔にならないように心掛けてのものである。腕っ節には自信があったがさすがにこの体格差で捕まれたらおしまいだ。傘、シャッターを下ろすための棒、給湯室にもナイフくらいはあるだろう。緊張した面持ちで握りこぶしの中に汗を滲ませ事務所に入ったさつきを迎えたのは、なんとも緊張感のないとぼけた表情をした若者だった。
二十歳前後にも見えるが三十近くにも見える。さつきくらいの年頃が大人の年齢を判別するのはやはり難しい。切れ長の目に薄い唇、スリムな体型は見る人によっては男前の部類に入るだろうが、ロングのTシャツに下はジャージ、しかもどこに売っているのか白地にでっかく「おんみょうじ」とプリントされたシャツを着るセンスは、残念な部類の男である証明にも思えた。
「ぶふふっ」
緊張感から解放されたさつきが思わず吹き出すと、若者は照れくさそうに笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね、こんな格好で。何しろ昨日まで海に沈められてたもんだから一張羅が乾かなくて。あ、こういうものです」
受け取った名刺を見ると、「安倍探偵事務所所長、安倍孔明」と書いてある。
「あべ……、こうめい?」
友人が言っていた「安倍晴明」という名前が頭に浮かぶ。
「本名……?」
「本名です。安倍晴明のパクりかってよく言われます。顔も似てるでしょ?」
「いや、安倍晴明の顔知らないんで……」
「だよね。で、この大きな人は幸太郎くん。たまに私の仕事を手伝ってくれるけど助手ってわけじゃない」
さつきの頭に再び一抹の不安がよぎる。が、ここはあえて強めの一歩を踏み出し、相手の反応を見て本性を見極めた方が得策のように思えた。
「あの、わたし、五木さつきって言います」
「いつきさつき?……ほ……」
「本名です!」
孔明が言葉を続ける前にさつきは手のひらを前に突き出し、強めの口調で押し止めた。
「どっちも名字みたいでどっちも名前みたいですよね。分かってます。まったくね。子供に名前をつけるときは離婚するときのことも考慮してつけてほしいもんですよね。そんなつもりないのに、ちょっと韻を踏んでる感じも鼻につくし」
さつきがフルネームを言うと相手は大概同じような反応を見せ、似たようないじり方をしてくるので、最近は先回りして自分から言うことにしている。孔明と幸太郎は少し困ったように、まだ何も言ってないんだけどな、と言いたげな表情で顔を見合わせた。
「で、今日はどういったご相談で?」
「その前に費用のことを話したいんですけど。見ての通り私は学生なのでお金がありません。出せてせいぜい一万円くらいです。後から経費がいくら掛かってもこれ以上は出せません。それでもいいですか?」
さつきの声にはまだ警戒心がたっぷりと含まれていた。
「あー、いいのいいの。どんな依頼か知らないけど高校生の一万円は大金でしょう?」
孔明は手をひらひらさせながら笑ってそう答えた。
ただほど怖いものはないが、激安も十分に怖い。さつきは昔、激安ショップで買ったTシャツが一度の洗濯でボロボロになった出来事を思い出した。だからといってここまで来て引き下がるつもりもない。
「じゃあ……」
さつきは仕切り直しの意味も含めていったん言葉の間を空け、話し始めた。
「わたし、団地で母と二人暮らしをしているんですけど隣に一人暮らしのおばあさんがいまして」
「隣に。おばあさん」
「まあ血縁があるわけでも何でもなくてただのお隣さんってだけなんですけど、ほら、ウチは離婚した父方の親族はほとんどが京都だし、母の両親は早くに亡くなってるでしょ?」
「いや、知らないけどそうなの?」
「小さい頃はお母さんが仕事でいなくて寂しいとき遊んでくれたりしてね。私にとっては本物以上に本物のおばあちゃんって言うか……」
「はあ……」
「そのおばあちゃん、わたしは絹江ちゃんて呼んでるんだけど、絹江ちゃんがオレオレ詐欺に遭ったの」
「あらま」
さつきは腕を組み、口を一文字に結んで鼻から息をふんっと鳴らした。喋っているうちにずいぶん乗ってきたらしく、孔明たちの本性を暴いてやろうなんて思惑もあっさり吹き飛び、身振り手振りも加え、表現豊かに話を進める。孔明と幸太郎は圧倒されて相づちを打つのがやっとである。
「絹江ちゃんだってね、息子さんのふりしたヤツに騙されるほどボケちゃいないんだからね。まだ六十代なんだから。六十八なんてもうほとんど七十代。立派なおばあちゃんじゃないなんて言ったら本気で怒るんだから」
「なんと」
「でもさ、話には聞いてたけど最近の詐欺ってほんとに巧妙なのね。あれはきっとうちの団地に住む人間の個人情報を前もって手に入れてたんじゃないかなと思うの。役所関係者のふりした人間が電話してきてさ、老朽化した手すりやゴミの集積所、その他諸々改装するから住民から集金してるって言うの、一世帯あたり三万円。うち、区営の団地だからあり得ない話しじゃないなって思うじゃない?」
「さんまん」
さつきの口調がいつの間にか砕けていることに孔明はようやく気づいたが、何も言えなかった。
「で、電話の三十分後くらいに取りに来たらしいの。スーツ着た真面目そうな若い男が。その時は何の疑いもなく三万円渡しちゃったらしいんだけどさ、ウチには来てないし、他に話聞いてみたら年寄りの世帯ばかり来てるみたいだからこりゃおかしいってなって役所に問い合わせたらやっぱりというか案の定というかそんな話ないって」
そこで言葉を止め、唾を飲み込み喉を鳴らす。それを見て孔明はお茶の一つも出していないことに気づき慌てて幸太郎に「冷蔵庫にペットボトルのお茶があったはずだから出してあげて」と言った。
さつきは出されたお茶を一気に半分ほど喉に流し込み、ふう、と大きな息を吐いた。
「でもさ、さつきちゃん」
この隙を逃してなるまいと、孔明は口を挟む。
「その詐欺師を見つけてくれ、とか捕まえてくれ、ならそれは警察屋さんの仕事じゃないの?私に逮捕権はないし仮に犯人にたどり着いたとしてもお金を取り返すのは難しいと思うよ?」
「三万円って金額が絶妙なのよね」
「え?」
「警察には言わなくていいって言うのよ、絹江ちゃんが。騙された私も悪いから三万円は授業料だと思うことにするって」
「バカな。騙された人は悪くないよ」
「でしょ?でもさ、実際騙されたことが恥ずかしいって気持ちもあると思うんだ。年寄りの烙印押されたみたいで。他にもたくさんいるはずだけど名乗り出ない人も多いみたいだし。騙されたことを知られたくないって気持ちと天秤に掛けたとき、知られたくないって気持ちの方がギリギリ勝つのが三万円って金額だと思うの。団地だからきっと一日三十件は回れるしね」
「むむむ」
ほんの数秒間ではあるが、三人とも押し黙って天井を睨みつけた。うっかり敵である詐欺師を褒めてしまいそうになって思いとどまったのだろう。
「で、私は何をすればいいの?」
「もちろん犯人を捜す。それも受け子程度じゃなくて大本締めをね」
「難題だなあ。南北の朝廷を仲直りさせて一本化しろってレベルの難題だよ?それは」
「何それ?無理ならさ、手がかりだけでもいいの。大本にたどり着きそうなヒント」
「で、その情報を元に警察に動いてもらうってわけ?」
「どうだろう。分かったらその時考える。被害者が被害届出さないって言ってるし。本当は見つけて一発ぶん殴ってやりたいんだけどね」
そこでさつきの目がギラリと光った。それはカンフー映画を見た後の少年のように正義感と興奮が入り混じったもので、孔明はこの少女が犯人のアジトに殴り込むつもりではないかと思い、その疑問をそのまま口にした。
「君、まさか殴り込むつもりじゃないよね?」
「…………」
さつきは口をつぐんだが、ほんのわずかに唇の端が上がっている。当たり前でしょ?とでも言わんばかりだ。
「危ないよー。危ない危ない。私のように不死身ならまだしも高校生の女の子が……」
「私強いよ?多分孔明ちゃんよりずっと」
「孔明ちゃんて……」
「あー、ごめんなさい。なんだか同い年くらいの子と喋ってる気になっちゃって」
「ぷっ」
ずっと黙ってやりとりを聞いていた幸太郎が思わず吹き出し、それを孔明が睨みつける。普通の人間なら若く見られて喜ぶことの方が多いだろうが、千年以上生きている孔明にとってずっと十代の見た目というのはコンプレックス以外の何物でもない。
「まあね。君が危ないことしないって約束するならそりゃ調べるけどね?」
「あー、しないしない」
こいつ、しよるな、と思う。
「じゃあとりあえず明日にでも絹江ちゃんだっけ?その人に話を聞きに行くことにしますか」
さあさあ。車さんですよ?慣れないよねー、くるま。怖いよねー、くるま。まあ私はほとんど山で育ったようなもんだから牛車にもほとんど乗ったことないし、駕籠にもほとんど乗ったことないけどもさ、どちらもスピードとしては全然じゃない。早く移動するというより楽に移動するためのもんだからね。初めて馬に乗ったときもかなりビビったけどねー。そもそも平地で全力疾走とかしたことないし。それに鉄だしね、これ。これ、鉄だしね!だいたい納得いってないの、私。何でこんなにスピード出る必要あんの?どこ行ったって百キロ以上出せるところなんてないのに、百八十キロ、二百キロまで出せるくるま作ってさ、スピード出やすいように道をアスファルトで綺麗きれいに舗装しちゃってさ、で、どうして事故は無くならないんでしょう?ってバカじゃないの?って思うよね。こけると痛いの、アスファルト!痛いのよ、こけると、アスファルト!あれ?そういや昨日、女性の客だったのに長光殿、顔出さなかったよね?あ、そうか。昨夜は松下家に泊まりに行ってたんだった。そっか。…………、聞かれて……、ないよね?この心の声。
「さつきちゃん、でしたっけ?確かに強いみたいですよ?合気道と少林寺拳法の大会上位常連みたいです」
「なるほどね。だからといって危ないことには変わりないよ。犯罪を生業にしてる連中なんだから。普通の人は刺されたり撃たれたりしたら死んじゃうんだからね」
絹江ちゃんの住む団地、それはつまりさつきの住む団地でもあるわけだが、そこに向かう車中での会話である。黒い軽のミニバン。幸太郎が複数台所有している車の中の一つで、運転も幸太郎がしている。本当はクラシックなクラウンやベスパなどに乗って移動したいが孔明は免許を取ることもできないため、移動は幸太郎の車、または公共交通機関を使っている。一応テレビの影響で、車を格好いいと思う気持ちはあるのだ。最近はようやく自転車に乗ることができるようになり、自転車移動も多くなった。
「馬の移動も認めてくれればねえ……」
心の声が思わず漏れ出た。
「やっぱり法律上駄目なんですかね?馬移動」
車内が狭いため、小さな呟きも聞こえるらしい。
「あ、馬に乗れるんなら探偵の次は競馬選手なんかどうですか?やったことないでしょう?」
「ダメダメ。あんな立派な馬、乗る自信ないもの。わたしが言う馬はもっと小さなポニーみたいな日本馬だからね?」
「ところでどうです?今日は方違えして行きますか?」
言われて孔明は車のナビゲーションを操作し、広域に広げる。
「んー、今日はいいや。このままナビ通り行ってもらって構わないよ」
一般的に東北の方角は鬼門、凶方位である。厳密に言えば他にも凶方位はあり、しかもそれらは日や時期によって変わるのだが目的地が凶方位にある場合、いったん別の方角へ移動して目的地の方向を変える。陰陽道の基本とでも言うべき考えであるが昔は一般庶民にも浸透しており、大事な用事の際には一般庶民も方違えをして出かけることもあったという。今日はその必要がないと孔明は言っている。
寸の間、会話が途切れ、孔明は幸太郎に作ってもらった資料に目を落とす。
「鈴木絹江ちゃん……、六十八歳か。わたしが言うのも何だけど本当に長寿の時代だよね」
「やっぱり先生から見ればどんな高齢のお年寄りでも子供に見えてしまうもんですか」
「そんなことはないよ」
いま「絹江ちゃん」と言ってしまったのは、さつきがそう呼んでいたのにつられてしまったからだと断ってから、孔明は話を続ける。
「お年寄りに限らず、それなりの年齢だと年上として接しちゃうよね。ただ、松下家みたいに小さな頃から見てるとさ、君の父上の良雄くんにしても未だに『よっちゃん』て感じだもんね」
ふーん。と、さほど興味もなさそうに鼻で返事をする。
「そういや昨日、南北朝の話が出てましたけど、先生、あの出来事にも噛んでるんですか?」
「まさか。その出来事自体、後々知ったくらいだよ。そりゃね、こんだけ長く生きてりゃ歴史的事件に巻き込まれた経験もあるけどさ。私は晴明みたいに高い位をもらったこともないしさ。大抵一般市民としてですよ。あ、でも戦には何度か参加したことあるよ?関ヶ原も出たし。ま、私には人を殺すなんてことできなくて毎回すぐ殺されちゃうんだけどね」
「着きました」
「あ、そう」
指定された番号の駐車スペースに車を止め、やはり指定された棟の前まで歩いた。十階建て。ボロボロ、とまでは言わないが、それなりに年季は入っている。築二十年らしい。孔明の人生からすれば一瞬に等しい時間だが、建造物が疲弊するには十分な時間のようだ。白い壁はくすみがかり、手すりやベランダなどの金属部分には錆も見受けられる。大規模な修理が必要、と言われればなるほどと思ってしまうのも無理らしからぬところである。
五木さつきの部屋は六階だと言っていた。つまり絹江ちゃんの部屋も六階。孔明と幸太郎はエントランスの前に立ち、なんとなく建物全体を見上げた。
「年寄りを騙す人間なんて許せないよねえ」
「わあっ!!」
突然足下から人の声がしたので幸太郎は驚いて飛び上がった。見るといつの間にか幸太郎の隣にA四サイズのスケッチブックを小脇に抱えた小柄な男が立っていた。幸太郎とあまりに身長差があるため足下から声が聞こえたと勘違いしたのだ。
「だ、だれ!?」
「僕?僕は手島おさむ」
「て、手塚治虫!?」
「て、じ、ま、おさむ。やっ、孔明くん久しぶり」
「お久しぶりです手島さん、もう着いてたんですね?」
「孔明くんは本当に変わらないね。不老不死だなんて君のホラ話もなんだか真実味を帯びてきちゃうね」
大きく動いた心臓がまだ静まりきらない幸太郎は二人の間に立って目玉を左右にキョロキョロと動かしている。
「あ、こちらの方。手島おさむさん。私が漫画家目指してアシスタントしてたときの兄弟子だね。この近所に住んでるんだって。全然デビューはできないんだけど似顔絵がすごくうまくてね。それもまた正直に特徴を捉えすぎるから似顔絵師としてもやってけない人なんだけど、今回、受け子の似顔絵を描いてもらうのにぴったりの人材じゃないかと思って」
「孔明くん、キツいこと言うなあ」
そう言って推定四十半ばの男は寝癖が付いたままの頭を照れくさそうに掻いた。
さつきに連絡してから六階に行くと、さつきはもう絹江ちゃん宅の前で待っていた。呼び鈴を押すと返す刀で返事があり玄関の扉が開く。顔を出したのは品の良さそうな、物腰の柔らかい白髪の女性だった。
「わざわざすいませんね。この子にも言ったんですけどお金はもう授業料だと思って諦めるので、本当に無理はなさらないでください」
熱いものと冷たいもの。その時の気分により、どちらが良いとも言いがたい微妙な気温の時期ではあるが、出されたのは熱い緑茶だった。やはりなんだかんだでこれが一番だな、と孔明は思う。
「駄目よ!そうやって絹江ちゃんみたいにみんなが諦めるからそいつらが調子に乗るんじゃない」
絹江ちゃんは眉毛を少しハの字に下げて困ったように微笑んだ。髪はほとんどが白くなっているので外見こそ確かに老人のものだが、澱みのない動きや知性の高さをうかがわせる口調からは、六十八歳という年齢を感じさせない。
「まあ確かに、そんな連中を野放しにしておくわけにも行かないので、できる限りのことはやってみようと思います。で、現段階で一番の手がかりと言えば、絹江ちゃんが会った受け子の男です」
突然五十ほど年下であろう若い男から「ちゃん」呼ばわりされ、絹江は目を丸くした。孔明も、しまった、という顔をしたが、絹江ちゃんが若い人からちゃん付けで呼ばれるのは嬉しいというので、そのまま続けることにした。
「そこでこちらの方」
視線が一斉に集まり、猫背で丸まった背中をすっと伸ばす手島。
「こちらの方は似顔絵の達人です。覚えてる限りで良いので受け子の特徴を彼に伝えてください」
「えー、困ったな。そうね、どうだったかな……」
絹江ちゃんは部屋の中空を見つめ、記憶の中の人物を映像化しようと、人差し指を目の前で走らせる。
「年はね、若かったと思う。スーツ着てたんだけど二十歳にもなってないんじゃないかな?って思った。可愛い顔してたな。アイドルみたいな。髪はサラサラのふわふわで。そうそう、そんな感じ。もう少し前髪は長くて横に流してた気がする。眼鏡も掛けてたわね。黒縁の。優しそうな顔だったからねえ。目はどちらかと言えば垂れてたんじゃないかなあ。……いや、そこまでじゃなくもう少し……、そう。そうそう、近くなってきた。で、唇は厚めで口元に小さなほくろがあったの」
その後も微調整を繰り返し、一時間後ようやく似顔絵は完成した。
「そうそう、こんな感じ。かなり近いと思う」
孔明は手渡された似顔絵を見てみる。確かに整った顔立ちの美少年だが、それ故に大きな特徴がないとも言える。これは探偵として上級者編の捜査になりそうだな、と思うのと同時に、長い人生の中で困難というのはやはり絶対的に必要なスパイスだな、とも思い、綻びそうになる表情をきゅっと引き締めた。
「しかしなんだな。人間どもの描く絵ってのも進化っつーか変化するもんだな」
手島の描いた少し漫画チックなタッチの似顔絵を見て長光が呟いた。尾は一つだ。
「珍しいじゃない。長光殿が人間の文化に興味を示すなんて。そういや浮世絵の時代ってのは君の青春時代にあたるわけか」
「タマさん、何ですって?」
駐車場に車を止め、遅れて事務所に入ってきた幸太郎が鍵をチャラチャラ鳴らしながら言った。
「なんかね、絵に興味あるみたいよ?」
孔明がそう言うと、長光は鼻をふんっと鳴らして奥の寝室へと入っていった。
ここは孔明の住居も兼ねている。玄関から入って右手側に給湯室とトイレ、左手側にバスルームがあって壁を隔てたその奥に寝室があり、隣が事務所、といった案配である。
「そういやまた依頼の電話がありましたよ?明日の予定が分からなかったんで明後日の十六時くらいにここへ来るようお願いしました。それでよかったですか?」
事務所への電話は留守の場合、幸太郎の携帯電話へ転送されるようになっている。孔明は携帯電話を持っていない。そろそろ一歩踏み出し携帯せねばと思ってはいるが、最近ようやく電話という文化に慣れてきたと思ったら今度はそれを携帯することになり、さらにはスマートフォーンへと進化。実際、感覚がついていかないというのが正直なところである。
「いいよ、それで。急に忙しくなってきたね」
孔明はそう言って依頼者と面談するとき用の三人掛けソファーにごろりと横になって似顔絵を手に取った。事務所の窓側には孔明がこだわって選んだ重厚な木製の机と社長が座るようなふっかふかの一人掛けソファーがある。しかし孔明がそちらに座ることはほとんどなく、今では長光のベッドと化していることがほとんどである。
「それにしても先生、漫画家だったこともあるんですね?」
「漫画家志望ね、志望。なれてないしね。漫画家はホントなりたくてね。何度も挑戦しては諦め、挑戦しては諦めしたなあ。本物の手塚治虫先生に会ったこともあるしね」
「へえ。先生でもどうにもならないことがあるんですねえ」
「そりゃそうだよ。いくら死なない体で長く生きてようが占いで少々先のことが分かろうが、どうにもならないことの方が圧倒的に多い。残酷だよ、ほんと。でもさ、そうやって失敗や挫折があるからこそ新しい発見や出会いもあるわけで、だからこそ人生は面白いとも言えるんじゃないかな」
「深いですね。先生が言うと。でも先生、死なないんだからしようと思えばいくらでも努力できるわけで、たっぷり時間掛けて人の何十倍何百倍も努力すればできないことなんてないんじゃないですか?」」
「違うんだよ。分かってないな、君は。全くの逆。努力ってさ、限りがあるからできるんだよ。物事はさ、突き詰めれば切りがないわけ。努力してればいつかはできるようになる。それはそうかもしれない。じゃあ何年?何十年?何百年?いつまだ続ければいいの?そう考えるともう駄目だよ。嫌んなっちゃう」
孔明は深いため息を交えてそう言った。
そう。どうにもならないことはある。果たしてこの犯人捜しはどうか。この特徴のない似顔絵一つでどうにかなるものだろうか。無理だと思う。孔明は早くも半分、いや、三分の二ほどは気持ちの中で諦めていた。
次の日、孔明は繁華街にいた。今日は一人である。
自転車に乗っていた。大きなかごの付いた、いわゆるママチャリ。まだ不慣れなためよくふらつき周りから不審な目で見られるが本人は得意げである。馬ほどのスピード感はないが自分の力で移動しているという充実感が素晴らしい。そう思っている。
特に何か当てがあって来たわけではない。犯罪者の手がかりを探すなら繁華街、つまりは刑事ドラマ、探偵ドラマから得た知識、影響のみである。
似顔絵を見る限り繁華街を探すより予備校を訪ねて回った方が良さそうな顔つきだが人は見かけによらぬもの。早速コンビニ前でたむろしている若者を見つけたので、彼らに話を聞こう、と思った。
三人いる。一人はカレーのルウみたいな茶髪で、あとの二人はアメリカ人でもイッツゴールド!とビックリしそうなくらい見事な金髪である。三人ともが腕に数珠をつけているので心根は信仰心の厚い立派な若者であろうと思われるが、いかんせん周りを威圧するくらいの大きな声で下品な笑い声を上げている。全員十代だろう。カレーの少年は高校のものらしき制服を着ていた。が、彼は高校生ではないだろう、と孔明は思う。長い人生の中で教師という職業も何度かやったことのある孔明の、勘、のようなものだ。なるほど。せっかく実年齢は十代であるというのに学生をやったことはなかった。探偵の次は学生をやってみるのも良いかもな、などと考えながら歩き出した。
真っ直ぐコンビニへ向かう。少年たちの横を通り過ぎ、気づけば店内である。いかんいかん。そういえば喉が渇いていたのだった。これだけ喉が渇いていたのでは円滑に会話を進めることもできないではないか。そう思い、今日の気温では少し暑い気もするがホットのブラックコーヒーを購入する。そういえば科学や文明の進化にはなかなかついて行けないのに、食文化の進化に対応するのは早いんだなあ、今さらあんな固い強飯などには戻れぬものなあ、現金なもんだよなあ、などと考えながら歩いているとまたしても少年たちの横を通り過ぎ、元いた場所へ。
もちろん彼らに声を掛け、激高されて殴る蹴るの暴行を加えられようと死ぬことはない。あるいは誰かがナイフを所持しておりめった刺しにされたところでやはり死ぬことはない。それは分かっている。でも痛い。孔明はほんの数日前、海に沈められて苦しい思いをした。死にはしないが死に目にあってから一週間くらいは生来のビビり性が露骨に表に出る。しかし一週間を過ぎれば気が緩み、また危険な目に遭う。千年以上生きて変わらないんだから、この先一万年生きても変わることはないだろうと諦めている。
「孔明ちゃん?」
「わっ!!あつっっ!」
驚いて跳ねたコーヒーの滴が手に掛かった。まったく。痛みは死への危険信号ではなかったのか。死にもしないのに信号ばっかり送ってくるなと自分の体に文句をつけたくなる。
大きな声を出したからか、カレーの少年が刺すような視線を送ってきたのが分かった。その少年の視線を遮るように、一人の女が孔明の前に立っていた。
「孔明ちゃんでしょ?久しぶり!」
「ああ、楓さん!久しぶり!」
孔明がクラブでボーイの仕事をしていたときのナンバーワンホステス、楓だった。確か本名は奈津子だったはずだがつい当時の源氏名で呼んでしまう。現在は小さいながら自分で店を経営しており、高級店ではないにもかかわらず有名人や社会的地位の高い者もお忍びで訪れるという。
「変わらないね、孔明ちゃん。あ、でも自転車乗ってるじゃない!?すごーい!」
「楓さんこそ!若いままですね!」
お世辞ではなかった。孔明がボーイをしていたのは二十年ほど前であったから、とうに四十は超えているはずである。しかし、この人も不老不死ではないだろうか、と疑いたくなるくらいその美しさは変わっておらず、地味目の私服を着ているのに人目を引きつけてしまう華と色香を持っていた。
「孔明ちゃん、最近どうしてるの?」
「探偵始めたんですよ」
「え?探偵?」
コンタクトの入った真っ黒な瞳が好奇の光でキラキラ光ったのが分かった。
そういえば……。
楓の顔を見て孔明はホステスさんのバックヤードの光景を思い出す。客を待っている間、彼女たちはタバコの煙が充満した小部屋でよく噂話をしていた。どこそこの社長が誰それを愛人にしているだとか、何々組の組長は最近羽振りが良いだとか、黒い噂はやはり夜に集まってくるらしく、彼女たちの噂話は大概当たっているんだ、と当時の店長が感心していたのを思い出した。
「楓さん今から少し時間とあったりなかったりします?聞きたいことがあるんだけれども」
「あるある!何?何でも聞いて!?」
日常生活に刺激を加えるスパイスでも嗅ぎつけたのか、楓は女学生のようにはしゃいだ。
三人組が再びこちらを見たが、思春期である彼らのことだから今度は、くびれの目立つ楓の後ろ姿を見ていたのだろう。
楓の店が近くだったこともあり、二人は楓の店で話をすることにした。
小さなビルの一階にあり、看板には洒落た飾り文字で「MilkyWay」とあった。
「ミルキーウェイ、天の川か……。いい名前ですね」
孔明がそう言うと、楓は返事の代わりに菩薩のような柔らかい笑みを返した。
カウンターが六席とボックスが三席。こぢんまりとした普通のスナックに見えたが、カウンター奥の棚に並んでいるボトルは半分くらいが最高級のもので、客層の高さを窺わせる。せっかくだから酒でも、と薦められたが先ほどのコーヒーをまだ持て余していたため断る。
「この少年なんだけれども、最近この辺で見たりしたことないすか?」
似顔絵を楓の前に広げた。
「あら、上手。これ孔明ちゃんが描いたの?そういや漫画家になるのが夢だって言ってたもんね?」
「いやいやいやいや。そっちはすっかり諦めて。これはその時の先輩が描いたものなんですよ」
「そうなの?もったいない。孔明ちゃんの絵も味があって良かったのに」
「そう言ってくれるのは楓さんだけです」
楓は似顔絵を手に取り、じっくり見つめる。
「可愛い顔してるよね。この子がどうしたの?」
孔明は掻い摘まんで事情を話した。話してからそういえば守秘義務ってどうなってるんだっけ、と思い、すぐにまあいいか、と思い直した。
「ふーん、特殊詐欺ねえ。そんなことしそうな顔に見えないけど」
楓が言うからには単にアイドル顔だからというわけではなく、顔立ちから滲み出る根の真面目さみたいなものを感じたのだろう。
「うーん、絹江ちゃんもそう言ってたんですよねー」
しばらく二人とも黙って似顔絵を睨みつけた。なんとか本性を暴こうと念じているようにも思える。
「ちょっとこれコピーとっていい?店の子にも見てもらうから」
孔明がもちろん、と答えると楓は似顔絵を持って奥の事務所に入っていった。
「なんかそういうことしそうな連中知らないですかね?団地ごと被害に遭ってるし単独犯ではないはずなんだよね。団地の近くに受け子を待機させる。リストを見ながら足の付かない電話を使って電話をかける役もいる。それをあの近辺の団地やマンション十数棟1度にやってるみたいだから少なくとも十人以上の組織的犯行じゃないかと」
事務所に届くよう、少し大きな声でそう言った。
楓はその場では答えず、似顔絵を二枚持って店内に戻ってから「いるよ。いるいる」と小声で話し始めた。
「店の子が最近言ってた。アヤカシってチーム名らしいんだけどね?半グレ集団って言うの?うわさじゃ犯罪の多角経営で色んなことやってるらしいの」
「アヤカシ?なんか聞いたことはあるな」
お、さすが探偵、と楓が茶化すように孔明を指さす。
「クスリの売買、ヤミ金、恐喝、何でもやってるみたいだから特殊詐欺くらいやってても不思議じゃないんじゃないの?ウチにも一度、下っ端が来たことあんのよ。帰ったあとで店の子が、今のアヤカシの下っ端ですよって。アンタ早く言いなさいよ!っつって。知ってたら難癖つけて店に入れなかったのに、って」
「アヤカシ……、ねえ?」
「まあ何か分かったら連絡するから。番号教えてちょうだい?」
「あ、じゃあその時はこのビルの屋上で煙りでも上げてもらえれば」
「狼煙!?アンタ何時代の人間よ!?」
生まれは平安時代です。
携帯電話を持っていないことに心底驚く楓に探偵事務所の電話番号と幸太郎のメールアドレスを伝え、孔明は店をあとにした。
「奈津子と会ってきたな?」
事務所に戻ると開口一番、長光が言った。
「え?どうして分かったの?また私の心覗いた?」
「それくらい匂いで分かる」
「へえ、さすが!ずいぶん昔に数回会っただけなのにすぐに分かるなんて」
長光は鼻をフンと鳴らして奥の部屋へ入っていった。自分をのけ者にして一人だけ楓にあってきたことが気に入らないらしい。本人は「人間の女なんて」と言って認めないが、女性には興味を引かれるようだ。長光は人間を見るとき、目に見える外見よりも魂の形を優先してみるので、特に年齢や容姿にこだわりはないらしい。むしろ実際の性別すら関係なく、魂の形が女性の形をしていれば、女性として接しているようだが、楓のことは外見に関係なく特に気に入っていた節がある。
「どうしたんですか?」
いつの間にか幸太郎が部屋に入ってきていた。
「いや、別に……。何か買ってきたの?それ」
幸太郎の手にはA四サイズくらいの袋がぶら下がっていた。
「陰陽師のDVDです。小説とか漫画は見たけど映画は見てないなあと思って買ってきたんですよ。一緒に観ませんか?」
「えー?私が?映画の陰陽師?」
はじめから同意など求めていないのだろう。渋る孔明を尻目に幸太郎はDVDを着々とセットする。
「あ、昨日も言いましたが明日依頼人が来ます。確認の電話がありました」
「うん。覚えてるよ。明日ね」
「はい。人捜しっぽいこと言ってましたね。パート終わってからだから十六時は少し過ぎるかもって言ってました」
映画が始まると長光が音もなく部屋に入ってきて机の上に寝転がり、テレビ画面に目をやった。指摘するとまたへそを曲げかねないので言わないが、どうやら映画も好きらしい。
物語は丑の刻参りを境に女が鬼へと変貌していく話だ。当然孔明はこの話を知っている。最近の小説や漫画はもちろん、昔から歌舞伎や浄瑠璃でも晴明の物語は観てきた。創作とはいえこれだけ長い間、時代をまたいで愛され続けている弟がいるということは、やはり孔明にとっても誇りであり、自慢なのだ。ある意味、彼こそが不老不死なのではないかとさえ思う。しかしどれだけ世間が押しつけてくる晴明のイメージが孔明の頭に定着しても、彼の物語を観て思い出すのはやはり共に過ごした幼少期の晴明である。孔明の知る限り、晴明は人ならぬものを見たり、術を使ったりしたところを見たこともなければ聞いたこともない。ただ不思議なところは確かにあって、虫、植物、鼠や馬などの動物、それらと会話するように接していた。そう考えるとやはり当時から自分には見えない精霊のようなものが見えていたのかもしれないとも思う。
画面には晴明宅の縁側が映し出されている。小説などでもよく描かれる風景だ。親友である源博雅と静かに酒を酌み交わし、少ない言葉を交換する。酒などの配膳をしてくれるのは美しい女の姿をした蜜虫と呼ばれる式神である。
「先生もやっぱりこういう式神とか出せるんですか?」
画面から目も離さず、スナック菓子を口に放り込みながら幸太郎が言った。
「まあ晴明も本当にこんなことできたのか?って私なんかは思うけどね?」
そう言って孔明もスナック菓子を放り込む。
「そりゃ私だって式神使うことくらいできるけれどもさ。正直言ってあんなはっきり具現化はめったにできないよね。この千年ちょっとで成功したのは十回もないくらい。この百年くらいはもう挑戦もしてないね。だって見てごらんよ、まるっきり人間じゃないの。私ができるのはせいぜい人形や動物とかに降りてきてもらって、そのままの姿で式神としての役割を果たしてもらうってことかな?」
「と、言いますと?」
幸太郎が一瞬だけ孔明の方を振り返った。
「んー、だから例えばね。この蜜虫さんって小説では藤の式神でしょ?私は藤の花を人間の姿に変えることはできないけれども、藤のイメージに近い十二天将の誰かに降りていただいて、藤の姿のまま式神としてお手伝いいただくことはできる。あ、このイメージってのは私の勝手なイメージでいいの。ここに降りてきてくださいってお願いしやすいように。そうだな。もう単純に、藤は春の花だから六合さんに降りてきてもらおうかなー、とか。で、それを誰かに渡してその人を私の希望する行動に導いてもらう、とか。ざっと言えばそんな感じ」
「へえ」
幸太郎は気のない返事を返す。
映画は中盤、物語の核を描く大事なシーンで、長光も一緒になって画面に集中していた。話の内容を知っているにも関わらず孔明もぐんぐん引き込まれる。そして思った。鬼、超怖い。
いやー、昨夜の鬼、まじ怖かったなあ。本当に鬼ってあんな感じなのかなあ。いや、絶対にいるのは分かってんだけど見たことないもんなあ。実際現れたらどうしよう。私の陰陽なんかで戦えるんだろうか。何か必殺技みたいなのでもあみ出しとかなきゃいけないなあ。呪を唱えたら手から炎とか衝撃波が出る、みたいな。でもやがてそれが通じない敵が出てきて、修行しつつ仲間を探す旅に出る、みたいな。そして仲間とともに究極の技を完成させて、力を合わせその鬼を討つ、みたいな。手塚先生あたりに描いていただきたいけど亡くなってるしちょっと手塚テイストの話しじゃないなあ。じゃあ鳥山明か。いっそのこと漫画家じゃなく原作者を目指そうかしら。っつーか、そもそも私の人生そのまま物語の原作になるんじゃないの?って駄目か。わたし、全然強大な敵にも立ち向かっていないし、困難にも立ち向かってないもんなあ。駄目だなあ、わたしは。
その日はさつきの団地へ行った。自転車で行くには少し遠い距離だが、運転技術向上のためにも自転車で行くことにした。他の住民に似顔絵を見せて話を聞いて回る。そりゃ繁華街よりそっちの方が先だろう!と孔明は自分でも思ったが、何でも形から入る方なので、すぐにテレビとかのまねをしたくなる。
しかしさつきの話しの通り皆あまり協力的ではなく、受け取りに来たのはやはりこの少年だった、というのを確認するだけの作業となってしまった。絹江ちゃんのところにも寄ってみたが新しい情報は得られず、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が当たり前なんてすごい時代だよね、なんて話しで盛り上がっただけだった。
事務所に戻るとさつきが来ていた。
来客用のソファーに座って先日幸太郎が持ってきた「陰陽師」を観ている。隣には長光が寝転がっていた。
「あら、いらっしゃい。来てたんだ?」
「おかえり。鬼、超怖いね」
「でしょー。って君、我が家のごとくくつろぎすぎじゃない?」
話しによるとさつきを中に入れたのは幸太郎で、先ほどまでいたのだが仕事が入ったとかで出ていったのだそうだ。留守番失格だよ、まったく、と孔明は文句を言いながら、長光を間に挟んでさつきの隣に座る。
「どう?捜査進んでる?」
「君の言った通り団地の人もあまり協力的でなくてね。有力な情報は仕入れられなかったね。それより今日はこれから客が来る予定なんだ」
「へえ……」
「……」「……」
「客が来る予定なんだ」
「ふうん……」
「……」「……」
「いや、ここにいてもらっちゃ困るんだけどね」
「大丈夫。来たらどけるから」
「そういうことでなくて。君、同席するつもりかい?」
「いいじゃん。面白そう」
「駄目でしょ。守秘義務がどうこうってのもあるし、相手さんだって関係ない人がいたら困るだろうし……」
ブー。その時、玄関のブザーが鳴った。クイズで×を出されたような安っぽい音で、こんなのあったんだ、とさつきは今になって気づく。孔明は玄関に向かいながら何度も振り返り、奥の部屋に行け、とジェスチャーで伝えるが、さつきは見ていないふりをした。
カランコロンカラン。扉を開けると目の前に四十代くらいの女性が立っていた。
「あ、すいません。先日お電話した浦田と申します。少し早すぎるかなと思ったんですが……」
時刻は十五時四十分。十六時を過ぎるかもしれないという話しだったので確かに早いが、千年を生きる孔明にとって二、三十分のズレなど一瞬にも満たない僅かな時間で、何の問題でもない。
「ああ、全然構わないですよ?どうぞ」
孔明が事務所へ案内しようとしたとき、奥からさつきが早足で玄関に来た。依頼人は勢いよく迫ってきた制服の少女に驚いて目を丸くしている。
「あ、わたし、五木さつきです。アルバイトで助手をしてるんです」
あまりに堂々と言い切ったためか、依頼人は特に何も言わず会釈だけして、苦虫を噛み潰した顔の孔明に連れられ、事務所に入った。
「息子が帰ってこないんです」
女は開口一番そう言ってうなだれた。
浦田幸子と名乗ったその女性は名前とは正反対に、世界中の不幸を背負ったような暗い表情だった。痩せているし服装も上等なものではなく、思わず同情したくなるが息子を心配しすぎてこうなった、というよりは、生まれつきこうだったんじゃないかと思うくらい、不幸な空気が馴染んでいる。
「家出……、ですか?」
「分かりません。息子は高校三年生なんですが最近学校にも行ってないみたいで……。母の私が言うのもなんですが息子は真面目な人間で髪も染めたことがないですし、悪い人と付き合いがあったこともなければ学校をサボったことなんて一度もなかったんです。なのに急に……」
「何か心当たりはあるんですか?」
孔明の質問に浦田幸子は一瞬下唇を噛んで押し黙ったが、すぐに「いいえ」と小さな声で答えた。何かありそうだな、とは思ったがここでしつこく追求しても正直に答えてくれるとは思えなかったので、とりあえず受け流すことにした。警察に捜索願を出せない理由もその辺にあるのかもしれない。
「で、その息子さん……」
「あ、美徳です。ウラタミノリ」
「美徳くんを探せばいいんですね?写真か何かありますか?」
あ、はい。そう言って浦田幸子はスマートフォンのフォルダから息子の写真を探す。マニキュアの一つも塗られていないシワの刻まれたその指は、生真面目な彼女の人生を物語っているかのようだった。
「これ……。二年くらい前のものなので今とは少し印象が違うと思いますが……」
自宅で誕生日を祝ったときのものだろうと思われる、誕生ケーキを間に挟み、満面の笑みを浮かべた美徳と幸子の顔があった。角度と距離からしておそらくは自撮りだろう。母子二人きりの家庭なのだろうか。それでも今の幸子のように悲壮な空気は見当たらず、無事、健康に誕生日を迎えられた喜びとささやかな幸福感が画面から溢れ出そうなくらいで、少し印象が違うどころの話しではなかった。
「あ」
隣から覗き込んでいたさつきが声を上げた。
「え?」「え?」
孔明と幸子の視線がさつきに向く。
「あ、いやいや」
手を顔の前でひらひら左右に振りながら、さつきは横目で孔明をチラチラと見た。何か言いたそうだ。しかし孔明は「何?お茶菓子でも欲しいのかい?」などと見当外れのことを言ってくる。何、この勘の悪さ!これでも探偵!?と罵りたくなるが、幸子の方が怪しんだ視線を送ってくるのでこれ以上は何も言えない。
「お嬢さん、ウチの美徳とお知り合い?」
「あ、いえいえ」
言えない。言えるわけないではないか。確証もないのに。美徳くんが自分たちの追っている詐欺事件の受け子にそっくりだなんて。
やきもきするさつきをよそに孔明は幸子に依頼の受諾と料金を伝える。やはりあまりの安さに驚いた表情を見せていたが、他に頼れるところもないのだろう、「お願いします」と頭を下げて帰って行った。
幸子が帰ったあと、さつきは孔明に詰め寄った。えー?いやいや違うでしょ?と、どうしても納得のいかない孔明にパソコンへ転送してもらった美徳の写真を開き、教師が出来の悪い生徒を諭すように何度も画面を指さした。
「ほら、どっからどう見ても同一人物じゃない。これが別人に見えるなんてどうかしてるよ?」
孔明はもう一度画面に近づき、目を細めた。
一般に年を取ると若者の見分けが付かなくなるとよく言われるが、千年を生きる孔明はなおさらである。それでも昔のように誰もが烏帽子を被っていたり、ほとんど全員が月代にちょんまげの時代を思えばマシな気もするが、現代でも個性を前面に出す人は孔明の感覚では江戸初期のかぶき者と数的に変わりはない。若者は同じ流行を追いかけるから横並びになり、年を取ると目立たないよう周りに溶け込もうとするから、やはり見分けにくい。
奥の部屋にいた長光もパソコンの前に来て言った。
「うん。同一人物だな」
「ほらー。タマちゃんも同じ人だって言ってるじゃなーい!」
長光の言葉が聞き取れたのかと思って一瞬驚いたが、猫の鳴き声を都合の良いように解釈しただけだと、一瞬遅れて気づく。
「うーん……」
長光までそう言うのなら本当に同一人物なのだろうが、二年前の写真とはいえ孔明の中でどうしても母と並んで笑顔を見せるこの少年と、詐欺という犯罪が結びつかないのだ。
「詐欺なんかするような人間には見えないんだなー」
「また絹江ちゃんみたいなことを言う。それを調べるのが孔明くんの仕事でしょ?むしろ一気に二つの依頼を解決するチャンスじゃない」
人は見かけによらない。母といえども全てを知っているわけでもない。それなら元から素行がよくなかったと仮定して、不良少年の世界に精通している人間から話を聞きたい。
孔明の頭に一人の人間が浮かんだ。
ステンレスだろうか。銀色の壁にぐるっと囲まれた工事現場。スーパーだかショッピングモールだかが出来るらしく、敷地の正面には巨大なジャングルジムのような足場がある。そこかしこで金属のぶつかり合う甲高い音や、恐竜のような重機が重低音を鳴らし、お祭りさながらの喧噪を感じさせた。鉄筋や重機なんかがなかった時代、城を建造するときも同じくらい騒がしかったんだから不思議だよなあ、などと思いながらぼんやり立っていると、ヘルメットを被った若者が近づいてきて孔明に手を振った。
「先生!」
白い歯を見せて笑顔を向けるその青年は背も高く、日焼けした肌が、がっしりとした体格をより精悍に見せた。
「やあ、花村くん久しぶり。申し訳ないね、忙しいだろうに」
「いやあ、ちょうど今から休憩するところだから。それより驚いたよ、先生から連絡があるなんて」
見ると、まだ作業しているものもいるが十人くらいのグループが数組、二階建ての仮設ハウスに入っていく。花村曰く、色んな業者が入っているのでそれぞれの班が各自の判断で休憩に入るのだそうだ。
「しかし変わらないね、先生も。若いままじゃん」
そう言ってヘルメットを脱ぐと、短く刈られた金色の髪が現れた。五年前、孔明が学校の教師として生徒の花村と接していたときよりたくましく、大人の落ち着きも感じさせるが、時々見せる笑顔の中にやんちゃ小僧だったときの面影があった。孔明はそのことが嬉しかった。
「いやしかし立派だよ君は本当に。こうやって親方として人を使う立場になったんだからね」
「まあ全員がウチの人間てわけじゃないけどね」
孔明は一人の少年に目をやった。おそらくまだ若い。ヘルメットから茶色い髪がはみ出していた。それほど体も大きくないのに四、五メートルはある鉄パイプを四本まとめてひょいと軽々肩に担いだ。
「すごいね。皆あんなことできるのかい?」
「コツもあるんだよ。コツさえ掴めば孔明先生だってそれなりに出来るよ」
本当なら一度挑戦してみたい、と孔明は思う。年齢による筋力の衰えはないが、千年生きたからと言って千年分の筋肉が付くわけではない。漫画家同様、なりたくてもなれていない職業に中に格闘家、武術家がある。伝説の力士、雷電為右衛門を生で見たことがあるというのは一生の自慢であるし、江戸時代には御前試合を木に登ってこっそり見たりもした。力持ちへの憧れはなみなみならない。
「先生、そんなとこいたら危ないよ?」
「あ、ああ……」
じろじろ見すぎたのか、鉄パイプを運んでいた少年が孔明に鋭い視線を投げつけた。孔明は慌てて花村の後に付いていく。
「しかし先生が探偵ねえ。わりいけど全然イメージに合わねえわ」
「いいの。合わなくても。やってみたかったんだもん」
「そりゃやりたいと思ったことをやるのは理想だけどさ……」
「花村くん、最初からそこに向かおうとしないのならそれは理想でなくただの空想だよ?途中で失敗しようと挫折しようと、そこに向かって行動して初めて理想と呼べるんだ」
「なんだよ。俺の顔見たら久々に教師のスイッチ入っちゃったの?」
花村は眉間にシワを寄せたが、声の色に不愉快な感情は混じっていない。
二人は自動販売機で缶コーヒーを買い、仮設ハウスの隣に立てられている、白いシートの屋根で覆われたテントの中に入った。仮設ハウスの中は電子タバコのみ喫煙可能で、今時は紙巻きタバコを吸っている人間も少ないもんだから、いつもここはガラガラなんだ、と花村は寂しそうに言う。実際今も花村と孔明以外誰もおらず、二人並んでパイプ椅子に腰を掛けると妙に距離が近く感じるので、あえて一つ空席を空けて座った。
「で、人探しだって?」
「そう、この子なんだけれどもね。浦田美徳くん」
そう言って孔明は幸太郎にプリントアウトしてもらった美徳の写真を見せた。今とは印象が違うかもしれない、と言って、手島おさむの似顔絵も一緒に渡す。
「ヤンキーなの?そうは見えないけど」
「真面目な子だったらしいけれどもね」
「じゃあ俺らのネットワークじゃ分かんないよ」
「でもどうも詐欺グループに関係してるみたいなんだよね」
「まじで?うーん、俺は見たことないからウチの連中に聞いてみるよ。ちょっと待ってて?」
花村はタバコの火を消し、写真と似顔絵を持って隣の仮設ハウスへと入っていく。花村の元には彼を慕う現役、あるいは元不良の少年青年が集まり、鳶職人として花村を支えている。現役もいるものだから彼らの持つ不良世界のネットワークは実にリアルで生々しいのだと風の噂で聞いたのだ。
しばらくすると写真と似顔絵を見つめて小首を傾げながら花村が戻ってきた。学生時代、個別指導で難しい問題にあたったときも同じような顔をしていたのを思い出す。
「ごめん。みんな知らないって。やっぱ不良やってるわけじゃなくて、そこらのチンピラにパシられてるだけじゃねえかな?一応全員に写真と似顔絵、携帯に収めさせたからさ。何か分かったら連絡するよ」
「悪いね。じゃあもう一つ質問いい?この辺りで組織的に特殊詐欺やりそうなグループってない?」
「うーん……。そういうのやりそうってなったら、やっぱ『あやかし』じゃないかなあ」
「あ、やっぱり」
「え?先生知ってんの?」
いあや、名前を知ってる程度だ、と孔明は先日楓に聞いたことを掻い摘まんで伝えた。それ以外のところでも聞き覚えがあることは言わなかった。どこで聞いたかも思い出せないままだし、特に役立つ情報とも思えなかったからだ。
「あいつら結構きっちりとした組織でさ。頭は俺らの同世代らしいんだけど、どこの誰かは俺の耳にもさっぱり入ってこないんだよ」
「へえ。そりゃ相当慎重で頭のいい人物なんだね」
人の口に戸は立てられず、SNSのない時代ですら隠し事をするのは難しかった。やっていないことを、やったことにされるのはよく見るが、やったことを最後までやっていないと貫き通した人間は千年以上の人生で数えるほどしか見たことがない。缶コーヒーを口に含んで喉に通すと、いつもより大きな音でゴクリと鳴った。
「恐喝部門、クスリ部門、窃盗部門、てな具合に分かれててさ、各部門に正式メンバー、ようは幹部クラスだよね。そいつらが三、四人。そいつらの舎弟が六、七人。で、その舎弟みたいなのがまたそこらのチンピラや不良少年を手足に使ってそれぞれの部門が機能してる」
花村がそこで言葉を止めたので、少しの沈黙があった。孔明としては話しの続きを待っていたのだが花村は疑惑の沈黙と勘違いしたらしく、「何でそんなに詳しいんだって?」と、唇の端を上げ歯を見せた。喫煙者の割に歯が白く、日焼けした顔の中で特別目立った。
「実はさ、俺も前に誘われたことがあるんだよね。恐喝部門に昔の顔見知りがいてさ。今はもちろん当時だって本当に顔見知りって程度でほとんど付き合いもなかったんだけど急に連絡が来て。結構しつこかったから話だけ聞いてやったんだよ」
「じゃあその彼に話を聞けばもっと詳しく分かるね」
「あー、ダメダメ」
花村は目の前の虫を追い払うようね仕草を見せる。
「俺もさ、この辺で好き勝手なことされてムカついてたから何か情報引き出してやろうと思って色々聞いたんだけど、あいつら他の部門のこと何も知らねえんだよ。全体を把握してんのは頭のヤツとほんの数人の最高幹部だけで、あとの奴らはよその部門にどんなヤツが何人いるかすら知らねえ。さっきの幹部が何人、舎弟が何人ってのも恐喝部がそうだから他所も多分そうなんじゃね?ってだけみたいだから」
「うーん、そうかあ」
隣の仮設ハウスからぞろぞろと人が出て行く。作業を再開するのだろう。何人かは孔明と目が合い、会釈をした。
「悪いね、貴重な休憩時間に。もう仕事に戻らなきゃならないだろう?」
「うん。まあ……。なあ先生」
花村は下を向いて声のトーンを落とした。
「もしそいつがさ、本当にアヤカシと関わってんのならこれ以上深入りしねえ方がいいよ。あいつらはマジでやべえ」
「そりゃ犯罪者集団だからね」
花村は一度深く息を吸い込み、さらに声のトーンを落として言った。
「そうなんだけどさ。そこらの不良グループとはわけが違うんだ。あくまで噂だけどよ。……殺しの部門があるらしいんだ」
「殺し?」
「ああ。保険金目当てだとかヤクザからの注文だとかがメインらしいんだけど、組織の邪魔をする人間を始末することもあるらしい。あんまり嗅ぎ回って目立つと先生も狙われるかも」
休憩を終えた者たちが作業を再開したからか、現場から聞こえる音がより一層激しくなった。孔明も少し前屈みになって距離を縮め、花村の声を耳に入れる。
「そういや私、君にも殺されかけてるよね?」
「やめてくれよ、先生」
花村は恥ずかしそうに顔を歪めた。
「まあ先生が不死身だったおかげで取り返しの付かないことにはならなくてさ。今はこうやってまともに生きていけてるよ。けど今度もうまく生き延びられるとは限らないしさ。気をつけてよ」
花村の言う不死身とはもちろん死に目にあったのに死ななかったことに対する比喩であり、殺されかけた、というのも実際には殺された、の間違いである。学生時代の花村を指導する中でトラブルに巻き込まれ、殺された。しかし相手が不死の孔明であったことは花村にとっても幸運で、その事件を境に更生の道へと進み始めたのだから孔明の死も役に立ったということだ。
「分かった。気をつけるよ。ありがとう」
花村が現場に戻ったあとも孔明はテントに残り、缶コーヒーの残りを飲んだ。
アウトローな人種というのはいつの時代だって存在した。江戸初期のかぶき者。戦後の愚連隊。恐ろしさでいえば彼らの方が数段上だった。少し怒らせればすぐにでも殺されかねない鋭利な迫力と、いつでも喉笛を狙うような獣臭があった。が、分かりやすかった。分かりやすいから半径五メートル以内には近づこうともしなかったし、向こうも近寄らせないオーラを放っていた。
ところが現代のアウトローは分かりにくい。知らない間に近づいてしまっている場合もあるし、向こうから近づいてくることもある。そういえばそろそろ危機感が薄れてくるころだ。本当に気を引き締めねば、と孔明は思い、残りのコーヒーを喉に流し込んだ。
事態が動き出したのはその日の夜だった。
楓の店に以前来たことのあるアヤカシのチンピラが手下のような少年を連れてきており、それが浦田美徳のようだというのだ。孔明は、あまり深く探ろうとしなくていいから美徳と連絡を取れるようにだけして欲しいことと、出来れば何かその少年が身につけたもの、例えば髪の毛やハンカチでもいいから手に入れて欲しいとだけ頼んで電話を切った。
青を基調とした薄暗い店内はまだ少し時間が早いせいか客が少なく静かであった。ボックス席にはスーツを着た四、五十代の中年男性が三人。ゴルフ仲間でいずれも社長クラスの人物らしく、この店では馴染みの顔だ。カウンターの端にも一人。髭に眼鏡のお洒落な男性でブティックの経営者らしく、やはり馴染みの客だ。そしてその反対側の端に座っているのがアヤカシのチンピラと、浦田美徳と思われる少年だった。チンピラの方は以前にも一度来たことがあり、自らを沙悟浄と名乗った。もちろんあだ名だろうが、何故か誇らしげに言うのだ。
沙悟浄はその名が示す通り坊主に近い短髪で、三十になるかならないかくらいの歳であるのに頭頂部が薄くなっている。かなりご機嫌で、四角い顔を赤くしてすでに酔っ払っている様子だ。他の客が物静かなタイプなので、少し大きな声がやたら下品に聞こえる。
「おい、ワラシ!先輩のグラスの酒が減ってんだろうが。そんなの後輩が気を利かせて無くなる前に作るんだよ!」
「あ、いいのいいの。そういうのは私の仕事だから。気づかなくてごめんねえ」
二人の前に付いているのはメグミというバイトの女の子だ。大きな胸がさらに強調される胸元の開いたドレスを着ており、前回来たときすでに骨抜きにされていたのは目に見えて分かった。二十六歳、独身ということになっているが本当は三十二歳バツイチで子供もいる。フェロモンが服を着ているような印象のある見た目だが実は頭の良い女の子だということを楓は知っている。そこらのチンピラが太刀打ちできる相手ではない。最近は楓より夜の世界に詳しく、沙悟浄がアヤカシのチンピラだと教えてくれたのもメグミだった。
ワラシと呼ばれた少年は下を向いてグラスのウーロン茶で唇を湿らせた。この少年が美徳であるなら未成年なのは間違いないので酒を注文されてもお茶を出すつもりでいたが、自らお茶を注文し、そのことに対しては沙悟浄も何も言わなかった。安く済んで有り難い、くらいにしか思わなかったのだろう。
「ワラシ!タバコ買って来いよ!」
「タバコならあるわよー。ほとんどの銘柄が置いてあるから」
「おう、ワラシ!何か面白い話しして先輩楽しませろよ!」
「いいじゃん。私と話してるだけじゃ楽しくないのぉ?」
つまりこの少年は沙悟浄が威張るために連れてこられた要員のようだ。ここまで露骨でないにせよこの手の人種は割と頻繁に見る。自分より立場の弱い人間を近くに置いて、その人間を馬鹿にしたり小間使いにしたりして自分が上の立場の人間であることを周りにアピールする。実際はそのことで自分の評価を下げているのだが何故か本人はそのことに気づかない。楓の経験から来る偏見で言えば、高校デビューで不良を少しかじったくらいの小会社社長に多いタイプだ。
「どうもー。ママの楓です。私も何か戴いてよろしいですか?」
前回沙悟浄が来たときはほぼ満席の状態で忙しかったし、あまり長居しなかったので楓と顔を突き合せることはなかった。沙悟浄は一瞬躊躇したがメグミにせこいと思われるわけにもいかず、いいよ、好きなもの飲みなよ、と強がって見せた。きっとその躊躇が見透かされていることにも気づいていないのだろう。二言三言、言葉を交わすと再びメグミとの会話に夢中になった。
「初めてですよね?ずいぶんお若く見えるけどおいくつなんですか?」
ここがチャンスと見て楓はワラシと呼ばれる少年に声を掛けた。
「あ、じゅう……、いや、あの、は、ハタチです」
透き通るような頬をほんのり赤く染め、少年は慌ててお茶に口をつけた。
「ワラシって呼ばれてますよね?本当はなんてお名前なんですか?」
「あ、いや、その……」
少年はもごもごと口ごもり、チラチラと沙悟浄に視線を送るが沙悟浄はまるで気づかない。
「ねえ、いいじゃないですかあ。下のお名前だけでも。ね?」
そう言って楓はグラスを持っている少年の腕にそっと手のひらを乗せた。楓のボディータッチはどんな組織の拷問より、どんな強力な自白剤より、どんな権力者の脅迫よりも効き目がある。
「ミノリ……、ミノリです……」
消え入りそうなその声を聞いたとき、楓は思わずカウンターの下で拳を握り、ガッツポーズを作った。
「で、そのあとメッセージアプリで連絡を取り合えるところまでこぎつけたと。いや、さすがです」
事務所の中で拍手が響き渡る。孔明、幸太郎、さつき、全員が手を叩き、楓に視線を送った。
美徳が店を訪れた翌日、近くに用事があるからと言って楓が直接事務所へ報告に来た。
「本当は探偵事務所ってのに興味があったみたいだぜ?」
ソファーに座る楓の隣で体を丸め、長光が言った。
おや。楓の心まで読めるのか?と思ったら、「それくらい匂いで分かる」と答えた。ほら、また一方通行のテレパシー!と心の中で言ったが長光は知らん顔で腕をペロペロと舐めて顔を洗った。
さつきがいるのは、ほとんど毎日学校帰りに事務所へ寄るようになったからだ。依頼人として調査の進捗状況を確認しに来ている、と本人は言うが楓同様、好奇心で来ているのは明白で、なおかつ彼女の場合、助手を気取っている節すらある。しかも今日は高校生のさつきではめったに接することの出来ない夜の世界に生きる女性、それもトップクラスの楓と遭遇できたのだから、右目には好の字、左目には奇の文字がはっきり浮かんで見えた。
「一体どんな魔法を使ったんですか?お姉様」
さつきはそう言って楓の隣に座った。長光は女性二人に挟まれ、なおかつずっと楓に頭や背中を撫でられているのでご満悦の様子だ。
「何も特別なことしてないわよ?こうやって丁寧にお話ししただけ」
さつきの小さな手の甲に、楓の細長くしなやかな指が包み込むように重なった。金縛りに遭ったように動きの止まったさつきの頬がみるみる赤く染まる。この手口は老若男女、性別年齢を問わず有効のようだ。
「幸太郎くん、お父様はお元気?」
「あっ、はい!おかげさまで!」
幸太郎の父、松下良雄は楓が以前勤めていた高級クラブの常連客であった。今の店にも何度か顔を出したことがあるらしく、幸太郎自身は全く酒の飲めない下戸であるが父の付き添いで何度か楓と顔を合わせたこともあるらしい。父の姿が脳裏にちらついてしまうためか、直立不動でかしこまったままだ。
「で、どうでした?何か気になること話してませんでしたか?」
「うーん、さすがに犯罪とか組織に関することはねえ……」
孔明の問いに楓は視線を中空に彷徨わせ、昨夜の記憶を捉えようとする。
「ほとんどがカッパのくそつまんない話しばかりでさ」
美しい顔から飛び出る口汚い言葉にさつきが少々面食らった顔をした。
「あ、でもこれは捜査の役には立たないと思うけど、美徳くんはどうもお父さんの借金が原因で組織に加担させられてるみたいよ?」
「お父さん?」
写真からも話しの内容からも父親の存在は感じなかった。借金を残して蒸発したか或いは亡くなったか……。
「いやいや、いい情報、姐さん、さすがっす。ナイス!」
「何それ、馬鹿にしてんの?」
言葉とは裏腹に、楓の顔は笑顔で綻んでいた。クラブで勤めていた頃から孔明は万事この調子で、昔ながらのやりとりを懐かしんでいる風でもある。
「借金のカタに……ってことか。いつの時代になってもその手の話しはなくならないもんだねえ」
「孔明ちゃん、爺くせえ」「孔明ちゃん、爺くせえ」
さつきと楓の声が重なった。顔を合わせて笑い合う二人は親子と言ってもおかしくないほど年が離れているはずだが、楓の見た目が若いせいで仲のよい姉妹に見える。
「で、姐さん、例のものは……」
「ああ。持ってきたよ。こんなもので良かったの?」
バッグから手のひらより少し大きいくらいの、ジップでロックできるビニール袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
「え?何それ?」
「孔明ちゃんから頼まれてたもの。もし美徳くん本人だと確認できたら何か身につけていた物か、髪の毛や体液の付着した物が欲しいって。だから頭撫でてあげたとき手に付いた髪の毛と、手を拭いたおしぼり。何?DNA鑑定的なもの?」
「いやいや、まさか。そこまでできないですよ。ちょっと。さつきちゃん。そんな目で私を見ないで。別に変態チックな意味合いで頼んだわけじゃないから」
眉間にシワを寄せて目を細め、口をへの字に曲げたさつきの顔は確かに、不倫がばれて謝罪をする芸能人かセクハラ行為を糾弾されている政治家を見るような目つきで、孔明は居たたまれなくなった。
「ちょっと失礼しますよ……と。幸太郎くん、お姉様方にお茶とお菓子のおかわりをお出しして」
「え?本当に何なの?」
ビニール袋を手にすごすごと奥の部屋へしけ込む孔明を見てさつきは眉間のシワをさらに深めた。
「お守り作りですよ。先生は神主の資格も持ってらしているので」
「あー、そういや昔もそんなこと言ってたね。私も作ってもらったことある。多分探したらまだ家にあるんじゃないかな。でもお守り?なんで?」
「今後その少年を親元に帰すとなれば組織を抜けさせる、ということですからね。少しでも危険が及ばないように、ってことじゃないですかね」
むろん神主の資格を持っているというのは嘘である。しかし孔明にとっては何かと都合のいい嘘なので、昔からよく使っていたのだ。
「そんなちまちましたことするくらいだったら組織ごとぶっ潰せばいいのよ」
さつきは腕を組み、奥の部屋へ繋がるドアを睨みつけて鼻を鳴らす。幸太郎は何故かそんなさつきに向かって笑顔でガッツポーズを見せた。
「式神か?」
「わっ、びっくりした!」
振り返ると長光がいた。足音も気配もないので声を掛けられたことに驚いたが、式神を降ろすとき、或いは何らかの陰陽的行為を行うとき、長光が付いてくるのはいつものことだ。
「全く君も心配性だよね。ここ数百年は何事も起きてないじゃない」
おおごろ様と、孔明の扱う神々とは系統が違う。そもそも山の神は女神であることが多いのだが、おおごろ様に性はない。そのことこそがこの地に住まう他の神々よりおおごろ様の位が高い証明であると長光は鼻息を荒くするが、正直なところ一体化するまで存在すら知らなかった孔明はピンとこない。
神の使いが猫であることも珍しい。このことに関しては長光曰く、元々違う動物が仕えていたが猫の位が上がった折、権力闘争のようなものがあり、これに打ち勝っておおごろ様の側仕えという地位を手に入れたらしい。地位だの権力闘争だの人間のサラリーマンや政治家みたいだよね、なんて言うと引くほど怒るので言わない。
彼が心配しているのは、おおごろ様と一心同体である孔明が十二神将や土着の神を呼び寄せたとき、何か異変が起こるのではないかということだ。事実、一体化した後まだおおごろ様の意識が残っていることを強く感じていた百年、二百年ほどは様々な神を呼ぶたび孔明は体調の異変を訴えたり、軽い地震、強い風雨、などが起こることがあった。むろん長光の一族が孔明の体調を気遣うわけはなく、いくら体調が悪くなってもそれで死に至ることはないので、心配しているのは天災のほうである。それも本当に最初の二百年ほどのことで、おおごろ様の意識を感じなくなってからは頭痛の一つすらしなくなったし、ましてや長光が心配するような神の怒りによる天変地異などは起こったこともない。むしろ本当にまだおおごろ様、中にいるの?死んでんじゃないの?と思うこともあるが、孔明の不老不死は続いているのでそれはないだろうし、そんなことを言うと引くほど怒られるので言わない。
「さて……、と」
寝室として使っている八帖の部屋は無機質なコンクリートのビルに似つかわしくない和室に仕上げてある。コンクリートの床に畳を敷き、桐の箪笥、さすがに囲炉裏や行灯を置くわけにもいかないので代わりというわけではないが真ん中にちゃぶ台を置き、アンテークな間接照明を置いた。
孔明は箪笥の一番上段にある引き出しを開け、中から贈り物用のクッキー入れみたいな丸いカンを取り出した。その缶を開けると中には白い紙でかたどられた人形が数枚入っており、一枚を手に取る。
「そういやタマちゃんさあ」
長光に強く睨まれ、一瞬先ほど頭の中で考えたおおごろ様のことを覗かれたのかと思ったが、すぐに『タマ』と呼んだことに怒ったのだと思い直した。
「長光どんさあ」
孔明は面倒臭くなったとき、わざと薩摩言葉のように「どん」をつける。ささやかな長光に対する抵抗であり、これなら突っ込まれても「いや、ちゃんと『どの』って言ったよ?」と言い張れるからだ。
「長光どんはさ。おおごろ様と話した記憶ってあるの?いや、もちろん君自身にはないだろうけれど、ご先祖の記憶の中でとかさ」
長光は浮かんだ記憶を捉えるように空中へ視線を飛ばした。
「俺たちはお前らのように具体的な言語を使って話すわけじゃないからな。先代はお前と一体化して薄くなっていくおおごろ様の意識を一方的に読み取っていただけ。きちんと意思の疎通が図れていたのは爺さんの頃だから……。記憶はなんとなくあっても実感は残ってないな」
「わたしさ、たまに考えてみるんだよ」
孔明は箪笥で捜し物をしたまま振り返らず話を続ける。
「おおごろ様の意識が完全に消えたのはいつだっただろうって。何かきっかけがあったんじゃないかって。そう考えると武家社会が始まってすぐだった気もするし、本当はもっと後で、鉄砲が伝来した頃だった気もする……」
「おおごろ様は山の神だ。お前ら人間を誰が牛耳ろうがどれだけ殺し合おうが、それでお隠れになるとは思わない。お前ごときがおおごろ様のお心を測ろうなどとはせず今まで通り一年に一度あの山で祭祀を執り行えばそれでいい」
おおごろ様の山は現在、おのごろ山と呼ばれ、古い伝承とともに残っている。それほど大きい山ではなく、獣道のような山道を歩けば一日で頂上に行ける。頂上の少し開けたところにご神木となる大木があり、その木が屋根を貫くような形で簡易の小屋を建て、一年に一度そこで祭祀を執り行い、山全体に張った結界を維持している。そのためか、おのごろ山は未だ人の手が介入しておらず、開発による伐採、戦火、山火事などにも無縁で、千年前と変わらぬ姿を残していた。それこそがきっと、おおごろ様がお前を取り込んだ理由なのだと長光は言った。おおごろ様はどんどん山がなくなっていく未来を予見なさっていたんだと。
「ふーん、そういうものか……。あ、あった!」
振り返った孔明の手には三センチほどの小さな蛇のアクセサリーがぶら下げられていた。それから部屋の中央にある丸いちゃぶ台の脚をたたみその上にビニールから取り出した美徳の髪とおしぼり、箪笥から出した人形と蛇のアクセサリーを並べて、明かりを間接照明だけに切り替えて薄暗くした。暗くなければならないわけではないが、この方が気分も乗るし、集中できるらしい。
楓たちが来る直前、水風呂にて身を清めておいた。
箪笥から出した白い狩衣を上から羽織ったあと、左手で印を結び、呪を唱えながら右の手のひらで髪とおしぼりを撫で、続けて人形を撫でる。これは一般の神社などで行う厄払いのようなもので、髪、おしぼりから美徳の厄、穢れを人形に移す。
長光はじっとその作業を見ていた。
―晴明のようにはいかないがー。孔明がよく口にする言葉である。
長光は安倍晴明を知らない。他の者と同様、見世物や伝聞で見聞きした程度のことしか知らず、実際のところどれくらいの実力であったのかは知りようがないのだ。しかしこの世に生まれてから今まで、或いは先祖の記憶の中で数多くの僧、修験者、宮司などを見てきた。その中でも孔明の力は群を抜いている。例えばあれほど簡易な厄払いなら、並みの者なら三十パーセント程度の効力しか得られないだろう。しかし孔明ならば七十パーセント以上の効力をひと月は持続させられる。半年後でもせいぜい五十パーセントに落ちるくらい。それほどの実力がありながらも孔明は幼少期しか知らない弟が歴史的な人物となり、頭の中で肥大したイメージにいつまでも萎縮したままだ。さらに「晴明ほどではない」と口にするたびその言葉の言霊に捕らわれ、泥沼的思考から抜け出せないでいる。
呪の内容が変わった。声にも先ほどより緊張と重々しさが感じられた。あのアクセサリーに式神を降ろしているのだな、と分かる。
「お、おい、孔明!」
しばらくして長光が声を出した。呪を唱えている最中に長光が声を掛けてくることは珍しく、集中して聞こえていないのか孔明は反応しない。
「おい!孔明ってば!」
「キュウキュウ……、もうなあに?長光どん。邪魔しないで……、うわあ!!」
孔明は思わず大きな声を上げた。蛇のアクセサリーを置いていたはずのちゃぶ台に見知らぬ男が腰掛けていたからだ。
男は髭を生やした四十代くらいのちょっと悪そうな男で、ふてぶてしく足を組み、電子タバコを吹かしている。
「だ、だ、誰!?この人!?」
孔明は目を回して倒れんばかりの勢いで男を指さし、長光に尋ねた。
「人?お前には人に見えるのか?俺にはお前と同じくらいの大きさをした大蛇に見えるぞ?」
「まじ!?こわっ。ん?蛇?……あの……、もしかして……、勾陳さん?」
「いやいやいやいや」
男は呆れたように首を振り、タバコを一つ吹かしてから口を開いた。
「俺、君らと会うのもう三度目くらいだよ?前回も百年だか二百年前に出てきて、そんときも君ら今と全くおんなじ反応して、全く同じやりとりしてた。で、そんときも俺言ったの。見え方がそれぞれ違うのはまだ孔明の力が足りないせいだって。長光くんの目に、……君、長光くんだよね?より本来に近い姿で見えるのは長光くんが神に仕える存在だからだろうって」
そう言われて長光も申し訳なさそうに下を向く。厳密に言えば長光本人ではなかった可能性もあるのだがそれは言えない。系統は違っても勾陳は神で、長光は神に仕える立場。会社で言えば派閥や部署が違っても上司であることに変わりがないのと同じで、系統は違っても神に逆らうことはできない。
孔明は単純に忘れていた。ずいぶん昔に式神が直接姿を現したことはなんとなく覚えてはいたが、それがいつ、どのような流れで、どの神が姿を現したのかはすっかり忘れていたのだ。現に今こうして勾陳を目の前にしてもいまいち思い出せない。そんな孔明の心を見透かしたように勾陳は言葉を続ける。。
「そりゃ当時とは見え方も違うだろうけれどもさ。十二神将の一柱がが姿を現すなんて結構大きな出来事なんじゃないの?忘れるかね?普通」
そう言っている間、孔明と長光はチラチラと目を合わせながら小声で何か言っている。耳を澄ませてみると。「君から言ってよ」「何でだ。俺は関係ないだろう。自分で言えよ」などと言い合っている。
「え?何々君たち。ちょっと怖いんだけど」
「あのー、まことに言いにくいことなんですが……」
長光に尻尾ではたかれ、口を開いたのは孔明であった。
「戻ってもらえます?」
「は?」
「いや、こうやって姿を現してくださったのは本当に、ほんとーーに嬉しいし有り難いんですが、今回はちょっと違うかなーって」
「違う?」
「今回の目的は悪の組織に入ってしまったある少年に,その組織を裏切るよう仕向けることなんですね。ほら、裏切りと言ったら勾陳さんじゃないですか」
「あんまり気持ちのいい言い方ではないけれど否定はしないな。闘争を司り、裏切りと不忠不幸を呼ぶ凶将だからな。だったらなおのこと好都合じゃないか」
「いや、戻ってほしいってのはアクセサリーの姿にってことです。その少年にはどういう姿で見えるかは分からないですけど、今日からこの人を連れてくださいなんて知らないおじさんを紹介するわけにはいかないじゃないですか」
「そうかもしんないけど、何か釈然としないなあ」
勾陳は不満げな表情を隠そうとしない。
「まあそう言わずに。ことが落ち着いたら好きなものお供えしますから。それにあのアクセサリー、超かっこいいっすよ?」
「そう?じゃあ何か甘いものな。最近は普通に甘いものが食えるって聞くし。なんだかなー、久しぶりに出てきたってのになあ……」
声とともに姿がフェードアウトしていき、ちゃぶ台の上に蛇のアクセサリーが残った。
「ふう」
孔明は一つ、大きな息を吐く。ため息が露骨すぎだと長光は尻尾で孔明の足を叩き,目で注意をする。
それから勾陳の降りたアクセサリーを小さなお守り袋に入れ、厄の入った人形は後日しかるべき場所で処分するべく、新の人形が入った缶とは別の箱に保管しておく。
「これでうまくいくといいけど。よろしく頼みますよ?」
孔明はアクセサリーに顔を近づけ,小さな声で呟いた。
二人が事務所に戻ると、幸太郎までもがソファーに座り、爆笑で盛り上がっていた。
「あらら、すっかり仲良くなっちゃって。何々?何の話し?」
「いやー、今、楓さんから先生が楓さんのいた店で働いていた頃の話しを聞いていたんですよ。うちの親父が店行ったとき先生のことを『おじちゃん、おじちゃん』て呼ぶもんだからみんな目を丸くしてた、とか」
「そうそう。ほんと不思議なんだよね。良雄ちゃんも孔明ちゃんと接するときは子供みたいになるもん。自分が爺くさいから、からかってそう呼ばれてるだけだって孔明ちゃんは言うけど」
そう言う楓の隣でさつきがうんうんと頷く。
「分かる。わたしもたまにおじいちゃんと接してるような錯覚に陥るときがあるもん」
これには孔明もショックを受けた。
確かに文明、文化の進化になかなかついて行けず若者らしくない言動を取ってしまうことも多いかもしれない。千年を超える人生経験のために、隠しきれない貫禄が滲み出ていることもあるだろうし、あまりに若く見られるとそれはそれで気に入らない。。しかし孔明は孔明なりに流行のスピードに戸惑いつつも現代風の言葉を勉強し、かつそれらを使いこなそうと努力する。或いは自らが使いこなせずともスマートフォーンのことなども、なるべく知っておくようにする。ジーパンだって穿くさ。未だにあのゴワゴワとした履き心地に慣れず、本当なら年中和装で過ごしたいところなんだけれども、我慢して穿く。なのにまだ爺くさいのか。
「孔明ちゃん?褒めてんのよ?これ。若いのに落ち着いてるなって」
とてもそうは思えない。
「ま。そういうことにしておきましょう。で、楓姉さん、美徳くんをまた店に誘うことはできますか?」
「もちろん。いつでも」
「じゃあ次来たとき、適当なこと言ってこれを渡してください」
そう言ってお守り袋を渡す。
「あ、本当にお守りを作ってたんだ?」
受け取ったお守りを訝しげに見ながら楓は目配せで中を見てもいいかと孔明に問う。孔明が頷いたのを見て、楓はお守りの巾着を開け、中から蛇のアクセサリーを取り出した。
「蛇?……これだけ?」
美徳の干支か何かだろうか。と楓は思う。アクセサリーの輪っか部分を摘まみ360度見回してみても別段変わったところのない、どこにでもある安物のアクセサリーであった。
「もしもお守りを身につけることに抵抗があるようなら、そのアクセサリーだけ渡してくれてもいいから。お守り袋にさしたる意味はないし」
「これを渡すだけでいいの?何か聞いておくことはない?」
「ええ。とりあえずは。それが何かしらのきっかけを作ってくれると思うので」
あまり深入りさせると楓に危険が及ぶことにもなりかねない。楓はこれが?という顔でアクセサリーを再び見回しさらに聞く。
「ほんとに何も?ほら、いつもどこに集まってるんだとか、沙悟浄以外にどんな上役がいるんだとか」
「いやいやいや!あんまり焦って警戒されては元も子もありません。姉さんにはまたお願いすることがありますから!」
孔明は慌てて首を振った。こうでも言っておかないと尾行すらしかねない勢いである。
「アジトさえ見つけてくれれば私がパッと行ってパッとやっつけてくるのに」
そう言ったのはさつきだ。彼女の場合、実は自らの格闘術が実戦でどれだけ通用するかを試したくて、事務所に顔を出しているのではないかと思われる節がある。探偵事務所ならばトラブルに巻き込まれるかもしれない、という期待からだ。
「何言ってんの。仮に見つけたところで何人いてどれだけ物騒な武器持ってるかも分かんないんだよ?そんな高校生のお嬢さんがさ……」
「はい出た。女は弱いから大人しくしとけって?孔明ちゃん爺くせえー」
また言われた。
言い返す言葉のない孔明は両手を広げ、天を仰ぐしかなかった。
いやー、驚いたよね、勾陳さん。未だに全会を思い出せないんだけれども。だってしょうがないよ!千年分の記憶だよ!?どこか記憶の引き出しに入ってるのかもしれないけどさ、さすがに入りきらなくて新しい記憶と入れ替えで完全に頭から出てっちゃってる可能性もあるよね?とはいえ私はしょうがないよ?所詮人間の脳だもの。でも長光殿はひどいね。系統が違うとはいえ一応神に仕える身なんだから忘れちゃ駄目でしょう。わ。怖い怖い。睨まれちゃった。でもそうか。他にもすっかり忘れてることなんて数え切れないほどあるんだろうね。なんだか寂しいね。でも千年分の悲しい思い出や辛い思い出がそのまま残ってたら死にたくなっちゃうだろうね。死ねないんだけれども。
数日後、孔明は浦田家へ向かうため、幸太郎の軽自動車に乗っていた。何か手がかりになるものが残っていないか、美徳の部屋を調べるのだ。いや、また肝心なこと後回しにしてるやん!と思われるかもしれないが、今回はそのようなことではなく、美徳の母が三つも掛け持ちでパートをしているため、なかなか時間が合わなかったのだ。
「しかし三つってすごいよね。やっぱりお姉さんの仕入れた借金が原因説、間違いないね」
助手席に座るさつきが言った。
「ってちょっと、さつきちゃん!しれっと調査に参加するのやめてくれる!?あまりに自然すぎて気づかなかったよ!そもそも今日は平日だよ?君、学校は!?」
「まあまあ。色んな目で見た方が手がかりは見つかりやすいかもよ?まあすでに私なんかは連絡取り合えるようにまでなってんだから今さら何探すんだって話しだけどね」
「楓姉さんまで!ちょっと幸太郎くん、どうしてお姉さんまで乗せちゃったのさ!?」
「すんません。楓さんに頼まれると断れねえっす」
「何よ孔明ちゃん。あれだけ色々手伝ったのに私を邪魔者扱いするわけ?」
楓の大きな瞳が、そこに映った自分の顔をはっきり目視できるほど近くに寄った。
「い、いや。あの。そういうわけでは」
「ふん。みっともねえ。おろおろすんなよ」
楓の膝の上で長光が、目玉だけを動かして孔明を睨んだ。
長光どん!君まで……!喉まで出かかった言葉を、メロンパンが喉に詰まったときのようになんとか飲み込み、孔明は一度腰を浮かせてからもう一度深く、どすんと座席に腰を沈めた。
「まったく何なんですか。調査が進むたびにメンバーが増えていくシステム。ドラクエですか。ワンピースですか」
「にしては中心の勇者が頼りないけどな」
そう言ったのは長光である。
なんだい。ドラクエは知ってんのかい。
「あ、楓さん。大丈夫ですか?今日黒のスカートだからタマの毛、目立つと思いますよ?」
「あら、ホントね。タマちゃん、ちょっとごめんね?」
楓は長光の両腕を抱えて孔明との間に降ろし、ゴミ取りブラシでスカートに付いた毛を取り始めた。
「…………!!!」
長光がこっそりと孔明の太ももに爪を深く食い込ませる。めっっっちゃ痛かったが、痛がれば負けだと思ったので我慢した。
美徳の母、幸子は四人と一匹が押し掛けてきたことに目を丸くしていた。当然である。
二階建て、木造アパート。お世辞にも綺麗とは言いがたい。いや、控えめに言ってもボロ。さすがに共同トイレ共同キッチンということはないようだが、実はここが本物のトキワ荘であると言われても納得してしまいそうな昭和感溢れる佇まい。廊下には所々雨漏りと思われるシミがある。日当たりも悪い。陰の空気。
「そりゃあこんなところに住んでいたら、あんな暗い表情にもなるってもんだな」
玄関で長光が言った。
「うん。悪い気がたちこめてるよね」
「え?ここ何か出るんですか!?幽霊!?」
最大限小さな声で呟いたつもりが二畳ほどのキッチンに四畳二間。丸聞こえだったようだ。
「違うよ!やめてよ、怖いこというの!」
騒いでいるのは孔明と幸太郎だけ。女性二人は馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりにさっさと中に入っていき、幸子は元から振り返りもせず、それはまるで今さら幽霊が出ようが鬼が出ようが私の人生が好転することはない、という意思表示にも見えた。
狭いキッチンを越えると四角い折りたたみ式テーブルの置かれた居間がある。襖を隔てた右隣が美徳の使っている部屋で、幸子が就寝するときは居間のテーブルを片付け、布団を敷いて眠るらしい。
「シンプルですね!」
幸太郎が思わず唸ってしまうほど、居間には何もない。テーブルの他は、畳んで角に押しやられた布団、十四インチほどの小さなテレビ、三段のカラーボックス、それだけ。四人で調べれば五分で終わってしまいそうな物の少なさだ。唯一飾ってあるのはカラーボックスの上に立てられている数枚の写真。美徳が小学生低学年くらいから中学生まで、全てに幸子が横並びで写っているが、やはりどれもが今より多幸感に溢れている。背景もこのアパートとは別の場所のようだ。年齢と比例して徐々に……、というわけではなさそうだ。
女性二人は何もない居間にさっさと興味をなくしたらしく、隣の部屋へ移動した。
「美徳くんがいなくなってから部屋の中は……」
「一度も触っていません。今日こそは帰ってくるだろう、今日こそは帰ってくるだろうと思いながら毎日過ごしておりましたので、私が勝手に触ったら嫌がるだろうと……」
幸子の言葉は口からぽろぽろとこぼれ落ちるような、か細いものだった。
「おい、孔明」
長光が顔で居間の窓を指す。
「ん?」
違和感を感じた。よく見れば建物が古すぎるせいか目視で分かるくらい窓の枠が歪んでいる。近づいてみると、微かに風の入り込む音がした。さらに近づくと僅かではあるが枠の歪みのせいで、窓が閉まっているにも関わらず目を当てれば外の景色が微かに見えてしまうくらいの隙間ができている。
振り返ると険しい顔の長光と目が合った。
もしかして……。ウエストポーチから方位磁石を取り出し、かざしてみる。スマートフォーンを持っていればアプリだかポプリだかで方位を見られるらしく、そろそろ本気でスマートフォーンを持たねばな、と思っているところだ。
このウエストポーチも爺くさいと言われる所以の一つであるが、孔明はもちろん、これほど便利でしかもナウいアイテムがあるだろうかと思いながら使っている。
「わー。やっぱり鬼門だよー」
鬼門。鬼の通り道。方角でいえば北東。僅かな隙間でも家主が悪い流れの中にあればなおさら好んで入ってくるだろう。鬼門に窓なんか作るなよなー。鬼、超怖いのに。映画に出てきた鬼を思い出し、軽く身震いしながら呟いた。
「幸太郎くん、ちょっと頼まれてくれる?」
はいはい。体の大きな幸太郎が小走りで駆け寄ると、建物全体が揺れて、仕舞いには崩壊してしまうんじゃないかと恐ろしくなる。
「ここ来る途中、ホームセンターあったじゃない?ちょっとあそこまでお使い頼まれてくれる?」
はあ。自体の飲み込めない幸太郎に、孔明はウエストポーチから取り出したメモ帳に何やら書き込んで手渡した。
「孔明ちゃん……」
幸太郎が部屋を出たのとほぼ同時に、早くから美徳の部屋を漁っていた楓とさつきが顔を出し、孔明を手招きした。
「何か見つかりました?」
美徳の部屋は居間と比べればまだ物がある。勉強机と呼べるほど立派なものではないが、引き出しの付いた机があり、本棚とベッドもある。それだけで十分部屋の中は足の踏み場がないくらいいっぱいいっぱいなのだが、今ははそれに加えて机の中の勉強道具や本棚の本が床に巻き散らかされていた。
「ちょ、ちょっと姉さん方、これあとでちゃんと片付けてくれるんでしょうね?」
「分かってる。片付ける片付ける」
その答えを聞いて、ああ、片付けよらんな、と孔明は思う。
「それよりほら、これ見てよ」
楓が手に持った缶のペンケースを開けると、蓋の内側にシールが貼ってあった。制服姿の美徳と、その横に同じく制服を着た高校生の女の子が写っている写真のシール。馬鹿にするな。知っているぞ、これくらい。これはプリントの倶楽部という、エレキテルの怪物みたいな箱の中で写真のシールを作る機械、それによって作ったものだ。ちなみに目玉がグレムリンのようにでっかくなっているのは機械の故障によるものではない。覚えておいた方が良い。で?
「これはプリントの倶楽部というやつですよ。これがどうかしたんですか?」
「うん。「の」はいらないけどね。ほら、これ」
楓とさつきの顔を見ると、手柄をあげたみたいに得意気な笑顔を見せている。
?
きょとんとする孔明に、楓は顎で幸子を指した。
?
まだ分かっていない。一度幸子の方を振り返ってから再び楓を見る孔明に、楓はもう一度幸子を指す。
?
まだ分かっていない。三度、四度。二人の顔が険しくなってきたところでようやく気付いた。この彼女から聞き込みをしなさい、そのためにどこの誰であるのか母親から聞きなさい、と言っているのだ。しかしおそらくもはや原型のない、悪魔のような目玉をしたこの写真を見て判別が付くだろうか。息子のこんな姿を見て悲しむのではないだろうか、と心配になった。
孔明は二人の刺すような視線に何度も振り返りながら幸子の傍に寄る。
「あの。この女の子、誰かご存じですか?」
「ああ。えっちゃん」
拍子抜けするほどあっさりと答えは返ってきた。
「えっちゃん?」
「はい。確か笹倉エミリ、だったと思います。二年生の頃からお付き合いで、前の家に住んでいたときは何度か遊びに来たこともあります」
その声には今までになく明るい色が滲んでおり、ほんの一瞬ではあるが、地の幸子を見た気がした。
笹倉エミリは同じ高校の一つ下らしい。そういえば美徳の高校にも聞き込みに行っていないな、と孔明は気付く。よくこれでほんの少しでも捜査が前進してるもんだ、と苦笑いをしつつ、感心したくなった。
楓とさつきが、片付けるというよりは散らかした文房具や本をただ棚と引き出しに押し込める、という作業をしているのを見た幸子が居たたまれなくなり「そのままで結構です。あとで片付けておきますので」と告げた頃、幸太郎が戻ってきた。
息を切らせながら玄関をまたいだ幸太郎の両手は荷物でいっぱいで、左手に網戸を抱え、右には長さ一メートル幅三〇センチほどの細長い棚、指先には買い物袋をぶら下げ、その袋をあちこちにぶつけながら入ってきた。
「ちょっと。何も一気に持ってこなくたって……。言ってくれれば取りに行ったのに」
いや、これくらいなんてことないですよ、と言って幸太郎は荷物を足下に置いた。たったそれだけで居間は足の踏み場も無くなってしまう。
「さて、突然ですが幸子さん、この部屋には悪い気が充満しています」
え?幸子は眉間にシワを寄せる。明らかに胡散臭い輩を見る目で孔明の表情を窺った。そりゃそうだよな。孔明は内心でペロリと舌を出した。
「いやいや、実は私、神主の資格を持ってまして。さらに風水にも少々明るくて」
「はあ……」
「で、今、このお家の中は風水的に良くないところがいくつかあるんです。そこを改善させてもらおうかなと思いまして」
現代の人間には風水という言葉を使った方が通りがいい。風水も陰陽道の中の一部分に過ぎないのだが、物語の印象が先行しすぎて今では陰陽師の方が眉唾のイメージがつきまとうようだ。
「いや、もちろん料金は発生しませんし、部屋を傷つけるようなこともありません。なので少しだけお姉様方と外でお待ちいただけますか?」
そう言うと楓とさつきも不服そうではあるが、まあタダだってんならやってもらったら良いんじゃないですか?と、幸子の背中に手をやり部屋を出て行った。
「幸太郎くんは残って私を手伝ってくれるかい?」
「わっかりました!」
幸太郎は嬉しそうに敬礼の真似をして背筋を伸ばした。そういえば子供の頃もお手伝いを頼むとこんな返事をしたなあ、と少し懐かしい気持ちがこみ上げる。
「で、何をすればいいですか?」
「そうだね。あ、私の荷物も持ってきてくれたかい?そう、あ、ありがとう。じゃあね。ほら、あそこの窓。あの窓に買ってきた網戸をはめてね。で、窓枠がいがんでるみたいで隙間ができてるじゃない?網戸はめたら網戸にも隙間ができちゃうと思うんだけれど、それを隙間テープで埋めて欲しいの。窓にも網戸にもね」
「わっかりました!」
孔明は幸太郎から受け取った小さなリュックを開ける。中には上下とも真っ白な狩衣が入っていた。
「ほう。持ってきていたのか。ずいぶん気が回るじゃないか」
長光が感心して声を上げた。
「いや、たまたまだよ。前に替え用の狩衣を幸太郎くんの車の中に忘れて帰ったのを思い出して。なければその辺で白シャツと白ズボンを買ってきてもらおうと思ったんだけれども」
何だ、やっぱりそんなことかと長光は鼻を鳴らす。
シャツとジーンズの上から狩衣を羽織った孔明は、やっぱり着替えた方が良かったかな、さすがにちょっと暑いな、などとぶつくさ呟きながら台所で丁寧に手を洗った。それから幸太郎が買ってきた細長い棚を両手で抱え、窓際の部屋の隅へ棚側を壁に向けて、ぴったりと角に収まるよう設置した。
「ちょ、何やってんすか先生。それじゃ棚が使えないですよ」
大きな体を丸めて隙間テープを貼っていた幸太郎が目を丸くして言った。職場で出来の悪いアルバイトに苦言を呈す口調でもある。
「いいの。棚として使うわけじゃないんだから。京都御所の鬼門にある猿が辻も塀を敷地側に凹ませて『欠け』させているでしょう?これもね、棚をね、『欠け』に見立ててね、鬼門に触ってませんよーってね、アピールするためのものなんだから」
「はあ」
幸太郎は理解したのかしていないのか、それともすでに興味を失っているのか、作業を再開しながら気のない返事をした。
「まあだからといってこれだけじゃ心許ないんで……」
すでに独り言と化している呟きをこぼしながら孔明はポシェットから一枚の紙とお守り袋を取り出す。紙は白い和紙で、すでに呪文が書き込まれていた。そして自分の髪を一本抜き、紙と重ね合わせ、頭から胸まで撫でるように手のひらをかざして、髪に自らの気を移す。
「急急如律令、急急如律令、急急如律令……」
呪を唱えたら和紙を畳み、髪を巻き付けお守り袋に入れる。それを棚の天板に置いた。
「よし。そっちも完成した?じゃ、悪いけどお姉様方を呼び戻してくれるかい?」
これで少しでも事態が好転してくれればいいのだが。孔明は腕を組んで隙間の塞がった窓を睨みつけた。
ちょうどそろそろ下校かな、という時間だったので、そのまま笹倉エミリと美徳が通う学校へ行ってみることにした。楓は店の準備があるから帰ると言う。
「じゃあ送りますよ」
「いいよ。適当にタクシー捕まえて帰るから。ついでに買い物もしたいし」
じゃあついでにさつきも乗せてやってほしい、と言うと、さつきは自分も学校まで付いていくと言いだした。
「いやいやいや」
「いやいやいや」
孔明が驚いた顔をすると、さつきも驚いた顔で返してくる。
「だいたいさ、あんたたちみたいな、めっちゃでかい男とめっちゃダサい男が二人で行ってどこの高校生が話聞かせてくれると思ってんのよ?」
いや、ダサいのは関係なくない?それにこれでも元教師だよ?と言いたかったが、あまりにはっきりとした物言いで言われたため、うまく反論の言葉が出てこない。
「ふふっ、現役高校生の助言は聞いた方がいいんじゃない?じゃ、私行くから」
そう言うと楓は大通りに向かって消えていった。
校門前に着いてしばらくすると校舎からチャイムの音が響き、下校の生徒がぞろぞろと出てくる。それなりの進学校らしく、目を引くほど派手な格好をしている生徒はほとんどいない。孔明たちはその中でも比較的協力してくれそうな人間を物色するが、明らかな警戒心を含んだ目を向けるものや、絶対に関わらないよう必死で視線を避けるものばかりで、なかなか話を聞けない。考えてみれば高級品を身につけた大男、顔は良いのに変にダサい青年、そこに違う学校の制服を着た女子高生まで加われば余計に怪しいのではないか。これはさつきに一杯食わされたか、と思っていると、思いがけず相手側から声を掛けられた。
「五木?」
死角になる方角からの声だったので驚いて振り向くと、幸太郎ほどではないものの、なかなかに体格の良い男子高校生が立っていた。
「平井じゃん。あ、あんたこの学校だっけ?」
「ああ。お前、こんなとこで何やってんの?っつーか最近全然道場に顔出してないだろ?師範がぶつくさ文句言ってたぜ?せっかくの素質が台無しになるって」
「まあ最近私も色々忙しいわけさ。ところでさ、あんた、浦田美徳って知ってる?この学校の同級生でしょ?」
「ああ、特に仲いいってわけじゃないけど……。でもあいつ最近学校来てないみたいだぜ?」
「それは知ってんの。ね、どんな人?」
問い詰めるような勢いにたじろぎ、平井少年は一歩下がった。
「どんなって……。普通だよ。全然普通。顔は良いのに普通すぎてつまらないからいまいちモテないタイプの」
「仲の良い友達とかいないの?あ、笹倉エミリは知ってる?一個下の子なんだけど」
「あいつは三年に上がったくらいからほとんど誰とも友達付き合いしなくなったよ。笹倉エミリは知ってる。妹と結構仲いいからな。って何これ!?お前、マジで何やってんの?」
「へへっ。私今ね、探偵やってんの」
「探偵!?」
体に似合わぬ高い声を上げて驚いた平井少年は、丸めた目でさつきと孔明たちを交互に見た。今の状況からすれば孔明たちの方が助手的立場に見えたに違いなく、平井少年は視覚的情報も交えながらなんとか事の次第を理解しようとしたのだろう。
自分たちは助手ではない。そもそもさつきは探偵ですらない。喉まで出かかったが、そんなことを言って二人の会話に割り入っても平井少年をなおさら混乱させるばかりで聞ける話も聞けなくなると思った。結果孔明と幸太郎は、スーパーの買い物中ほとんど付き合いのない近所の奥様とばったり出会ったときのような、なんとも曖昧な笑みを返すだけとなった。
「ちょっと平井さ。その笹倉エミリって子、連れてきてくんない?」
「えー!?俺が!?二年の教室に?」
「いいじゃん。知り合いなんでしょ?今度何か奢るからさ。道場にも行って平井に言われて来ましたって言うし」
「……分かったよ。絶対道場来いよ?」
校舎へ戻っていく平井少年の背中を見送ってから、さつきはどうだと言わんばかりに力強く振り返った。孔明と幸太郎はまたも奥様とばったり出会ったときの笑顔を返すしかなかった。
「私たち、もう別れてるんです」
笹倉エミリは清純派女優のような少女だった。化粧気はないが肌が透き通るように白く、喫茶店の窓から差し込む秋の日差しが肌に反射して体全体がキラキラ光っているような錯覚を受ける。
「い」
「いつ?どうして?」
孔明が口にするより早く、四人掛けの席で笹倉エミリの隣に座ったさつきが顔を横に向けて聞く。
「一ヶ月ほど前です。理由は聞いてもちゃんと応えてくれなくて……」
「な」
「何か変わった様子はなかった?」
「ミノくん、お父さんがいなくなってから元気なかったけど別れる一ヶ月くらい前からは特に元気がなくて……」
「さ」
「最近美徳くんから連絡なかった?ああ……、別れる直前、今まで聞いたことない話ししてたとか、聞いたことのない人の名前が出てきたとか」
全部言う。
笹倉エミリの『こいつらは何なの?』とでも言いたげな訝しい視線がチラチラ孔明と幸太郎に突き刺さる。目の前のミルクティーは角砂糖を一つ投入されたあと口をつけられることもなく、湯気の勢いを徐々に殺しつつあった。
「私も心配で別れてからも何度かLINEは送ったんですけど返事はまったく……。変わった話しも心当たりは……。すみません。……あの、ミノくん何か大変なことに巻き込まれてるんですか?」
「だ」
「だーいじょうぶ、大丈夫。ただ、早く見つけてお母さんを安心させてあげないとね。だから何か思い出したり美徳くんから連絡あったりしたら私たちに知らせてくれる?」
それ良い台詞のヤツ!「何かあったら知らせて」は探偵として言いたい三大台詞の一つ。何で君が言うかなー。
会計を済ませ、店の前で笹倉エミリと別れた。去り際、彼女の視線を数値化するならば、さつき八十、孔明十八、幸太郎二、といったところか。おそらく、いや間違いなく彼女の中で探偵はさつき、孔明と幸太郎は助手、ということになっただろう。
そんな彼女から連絡があったのは、それから三日後のことだった。
きめたよ、わたし。わたし、きめた。きめたったらきめた。今度こそ、本当に決めた。あ、しつこい?何を決めたって今年中にスマートフォーンに挑戦する。いつまでも逃げてちゃ駄目だ。そうしたら色々その場で調べられるっていうじゃない?私なんて未だに旧暦と西暦がごっちゃになってさ、恵方なんかもわけ分からなくなったりしちゃうしさ。いっそのこと車の運転にも挑戦しちゃうか!いけると思うの、わたし。自転車にもずいぶん慣れてきたしさ。免許は昔、教員免許作ってくれた人がなんとかしてくれるだろうし。無理か。さすがに運転免許は。
「君さ、ホント毎日ウチに来てるけど道場行った?平井くんと約束したでしょう?何の道場か知らないけれど。それに高校三年生っていったらさ、今頃進学だ就職だで大忙しなんじゃないの?」
「道場は行ったよ?それにあたし、推薦で大学行く予定だから」
「推薦?何の?」
「空手とか拳法とか……,そこら辺のやつで」
嘘くさい。事務所のソファーでコーヒーをすすりながら携帯から一度も目を離さず、曖昧な返事を返す。嘘くさい。
「そういや幸太郎はさ、柔道でで結構いいとこまでいったんだって?」
茶菓子の入った丸い盆を差し出す幸太郎にさつきが訪ねた。
「ええ。一応オリンピック候補には……。まあでもやっぱ上には上がいるし厳しいっすよ」
「実戦には役立つの?」
「どうでしょう?やっぱり喧嘩とは違うし……。掴むことさえできればいけると思いますけど」
幸太郎くん。この光景とその会話、まるっきりさつきちゃんが探偵で君が助手のようだよ。じゃ、私は何かい?事務員さんかい?
そんなとき、さつきの携帯が鳴った。軽快でポップな電子音のメロディーだが、さつきの「エミリちゃんからだ」という一言で、事務所内の空気が、削りたての鉛筆の芯みたいに鋭く尖った。
「もしも……」
「助けてください!」
さつきの応答を途中で食い潰し、電話の向こうから絞り出すような声が聞こえた。
「エミリちゃん?落ち着いて。どうしたの?今どこ?」
さつきは通話をスピーカーに切り替え、エミリに問いかける。服の擦れ合う音や慌ただしい靴音、途切れ途切れの息づかいなどがただならぬ緊迫感を伝えるが、返事はなかなか返ってこなかった。
「エミリちゃん!?」
さつきが掛けた二度目の呼び掛けに数秒の間を空けたのち、弱々しい声がスピーカーから流れた。
「あの……、ミノくんが……、ミノくんが追いかけられてて……。学校の中に……、逃げ込んだんですけど……」
「学校!?あんたたちの学校ね!?すぐに行くから動かないで待ってて!」
さつきはスマートフォーンをポケットにねじ込むと、険しい顔つきで振り返った。
「幸太郎!車!」
さつきの掛け声に幸太郎は「はい!」と大きな返事をして事務所を飛び出した。
「ちょ、ちょっと、君も行くつもり!危ないよ」
「当たり前じゃん!っつーかあたしが行かなくて、どうやってエミリちゃんと連絡取るつもり!」
ぐうの音も出ず連れだって事務所を出て幸太郎の車に乗り込む。夕暮れ時、オレンジから紫に変わりつつある大通りは車のテールランプがパズルゲームのように次々と車間を埋めていき、普段、一〇分で着く距離が一五分たってもまだ着かず、あげくあと少しというところで、完全に渋滞に捕まってしまった。
「あー、もう!あたし先に行ってるから!」
後部座席でブツブツ文句を言いながらずっと焦れていたさつきがついに車を飛び降りて走り出した。
「さつきちゃん!待って!」
孔明も急いで飛び降り、さつきを追った、
格闘技による基礎体力故か、或いは元々の身体能力が高いのか、ずいぶん早い。反対に孔明は運動が苦手で走るのも遅い。走り方も変。腕は真っ直ぐ伸ばし、拳を握りしめて腰の辺りで前後に降っているだけだし、足も全然上がっていない。当然どんどん離されていく。ヌルヌルした気持ち悪いものを顔に押しつけられたような表情で、それでも必死に孔明は食らいついた。何故なら今さつきを見失ってしまうと迷子になるからだ。
息も絶え絶え、もう駄目だ、もう死ぬ、やっと死ねるんだ、と思った矢先、立ち止まっているさつきにぶつかりかけた。
「わあっ!」
「しっ!」
人差し指を唇にあて、さつきは孔明を睨んだ。電信柱に身を隠すようにしている。
「ちょ、ちょっと……、あ、危ないじゃない、……き、急に立ち止まったら……」
呼吸を整える孔明にさつきは黙って前方を指さした。
見るといつの間にか百メートルもない距離に学校の校門が見える。部活もほとんどが終わっているのだろう、下校の生徒がたまに出てくるが、その人影に紛れていかにも怪しい三人組が門の周りをウロウロしていた。
「さつきちゃん……、あれ……、沙悟浄じゃないの?」
三人組の一人は楓から聞いた沙悟浄の特徴と一致している。
「見えるの?」
孔明が生きてきた時代を考えれば夜が本当の真っ暗闇だった時間の方が長く、現代人よりは暗闇になれていると言ってもいい。辺りは紫から黒に変わりつつある頃。それでもなんとかぼんやりとした特徴くらいは識別できる。
「見える。うん、あれは沙悟浄だね。うわー、やだな。あとの二人はものすごく強そうだよ。体も大きくて。きっとあれだな。ぬりかべと牛鬼だな」
まだ教師は何人か校舎内に残っているだろう。完全に暗くなってから侵入経路を探して
中に入るつもりに違いなかった。
ぴろりん。電子音が鳴ってさつきは再び電信柱の陰にすっぽり体を収める。ブルーライトが下から顔を照らし、怪談話でもするかのようだ。
「エミリちゃんだ。体育館側の校舎の階段下に隠れてるって。行こう」
「え?どこか分かるの?」
踵を返し、フェンスに沿ってグラウンド横から学校裏側へと向かうさつきの後を追いながら孔明は訪ねた。
「助っ人で何度か来てるからね。大体は分かる」
歩みを止めずにさつきは答えた。競歩ぐらいのスピードで。
「す、助っ人って?」
「色々。剣道とかバスケとかフットサルとか」
「き、君やっぱり、う、運動に関しては……、す、すごいんだね」
今だって、先ほどの全力疾走を引きずって少しの早歩きで息を切らしている孔明と違って、全く乱れていない。
裏門は開いていた。すっかり暗くなったグラウンドや体育館に人影はないが校舎にはいくつか明かりの付いている部屋がある。
「エミリちゃん……、どこ?」
寝起きドッキリを仕掛けるレポーターのような声だったが、周りが静かなためことのほかよく聞こえる。何度か呼びかけると真っ白い小さな顔がひょっこり出てきた。外階段下の裏側。階段が屋根代わりになるので三角コーンや荷車が仮置きしてあるスペースに、笹倉エミリは隠れていた。見ると中庭にも三角コーンで囲ってある場所があるので、何か小規模ながら工事をしているのだろう。何にしろ少しでも身を隠す小物があることはいいことだ。
「エミリちゃん、大丈夫?」
さつきが駆け寄り、孔明も後に続く。笹倉エミリはしゃがんで丸まったまま、さつきの袖をぎゅっと掴み、小刻みに頷いた。
「あれ?美徳くんは?一緒じゃないの?」
孔明が口にすると、さつきも辺りをキョロキョロ見回した。
「ミノくん……、様子見てくるって、ついさっき……」
「そうなの?まずいな……」
思わずそうこぼすと、笹倉エミリは目を潤ませて孔明を見た。
「孔明ちゃん、探しに行ってあげれば?」
「わたし?わたし部外者だよ?校内の地理勘はないし見つかったらややこしいことになるし……、あれ?戻ってきたんじゃない?」
暗闇のなか、工事中の中庭から人影が一つこちらに近づいてくる。まだはっきりと顔が確認できる距離ではないが、細く柔らかいシルエットと周りを警戒する慎重な足取りは浦田美徳で間違いないだろう。が。
「あ。まずいんじゃない?」
「どうしたの?」
孔明の肩越しに顔を出したさつきも思わず「あ」と短い声を上げた。
浦田美徳と思われる人影の後ろから三人組の影が近づいている。浦田美徳はまだ気付いていない。二つの影の距離が縮まり、声が聞こえた。聞き取ることはできなかったが、「わらし」と言った気がする。美徳の影が振り返った。一瞬こちら側へ逃げるような仕草を見せたがすぐに方向転換し、三人組の脇をすり抜けようと走る。が、捕まった。笹倉エミリまで見つかってしまうことを避けたのだろう。
三人組の怒気を含んだ声が聞こえる。大声を出して見つかれば困るのは自分たちなのでボリュームは抑えているが、口汚く罵っているのは分かる。今の立場からすれば教師に見つかって困るのは美徳も同じだろう。黙って下を向いていたが、やがて三人組は美徳の肩を掴み外へ連れ出そうと動き出した。
「まずい」
そう言って飛び出そうとするさつきの腕を孔明は掴んで止めた。
「ちょ、ちょ、どこ行くの?何するの?どうするの」
「助けに行くに決まってんでしょ?」
「だ、駄目だよ、だめ。危ないよ!」
「大丈夫よ、あんなの。絶対見た目だけだって」
「無理無理。沙悟浄はともかく牛鬼とぬりかべの大きさ見てみなよ。一人ならともかくあんなごついのが二人もいるんだよ?」
沙悟浄?ぬりかべ?牛鬼?笹倉エミリが不信と同情の混じった目で孔明を見る。
「じゃあどうすんの?このまま放っておくの?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ……」
「お願いします!ミノくんを助けてあげてください!」
その時突然、ニャア、と猫の声がした。さつきと笹倉エミリにはただの鳴き声に聞こえたかもしれないが、孔明には「どうした。ピンチか?」と聞こえた。
「なが……、タマちゃん!どうしてここに?もしかして車に乗ってたの!?」
するとその後ろから大きな影がのっそりと現れた。
「すいません、遅くなりまして。顔隠せれた方がいいだろうって言われたんで持ってきたんですが、どっちが先生のでしたっけ?」
その手には強盗が被るような黒の全面マスクとオレンジの全面マスク、二つが握られていた。以前ヤミ金の事務所に忍び込むとき用意したもので、結局孔明一人でマスクもせずに忍び込んだが、最初の予定では幸太郎にも付き合ってもらうつもりで二枚用意したのだ。
「俺がアドバイスしてやったんだ」
長光は得意気な顔をする。
その時、孔明の頬を風が吹き抜けた。世界チャンピオンが繰り出す高速ジャブのようなスピードで手が伸びてきたかと思うと、あっという間にさつきがオレンジのマスクをひったくってしまったのだ。
振り返ったときには、すでにさつきは階段下を飛び出しており、マスクを被りながら足早に四つの影へ向かっていく。
「幸太郎くん!今ね、美徳くんがピンチなんだ。あそこに人影の塊が見えるだろう?行って美徳くんを助けてきて欲しいんだ」
「うわ。やっぱりこっちが先生のですよ。全然入んないもの」
被りかけた黒いマスクが目の下辺りで引っかかり、幸太郎は口を歪めている。
「何やってんだい君は」
自分が行ったところで時間稼ぎ程度の戦力にもなるまい。そう思いながらもう一度振り返ると、さつきが四つの影に接触したところだった。
まず正面に立ち塞がったのは沙悟浄。なんだチミは、みたいなことを言っているのだろう。次の瞬間、さつきのスカートが翻ったかと思うと見事なハイキックが沙悟浄の顎を捉え、沙悟浄は横に吹き飛んで倒れた。本当に死んでしまったんじゃないかと思うくらい派手に吹き飛んだ。
すぐさま牛鬼とぬりかべがさつきに襲いかかる。スピードはさつきの方が圧倒的に上で、二人がなんとか捕まえようと腕を伸ばしたり殴りつけようと腕を振り回しても、さつきには触れることもできない。そのかわりさつきもすれ違いざまローキックなどを当ててはいるが牛鬼とぬりかべに効いた様子はなく、やはりこれだけ体格差があるとピンポイントで急所に当てなければ厳しいんだろうなあ、と孔明は思った。
なんてテレビで観戦中の気分になっている場合ではなかった。
「幸太郎くん!早く!」
しゃがんだまま、まだマスクと格闘している幸太郎を見て孔明は立ち上がり、マスクに手をかけ、全体重を乗せて顎まで引き下ろした。
「いたたたた!」
布の悲鳴と幸太郎の悲鳴が重なり合い、なんとかマスクは幸太郎の顔をすっぽり隠した。
「ひどいですよ、先生」
「いいから!早くいっといで!」
目の位置がずれているのか幸太郎は顎をあげ、両手を前に突き出し、ゾンビのようにおぼつかない足取りでさつきたちのところへ向かった。
驚いたのは牛鬼とぬりかべだ。覆面を被った女子高生が現れていきなり沙悟浄をのしたかと思うと、今度は大男がよたよたと変な歩き方で近づいてきた。立ち塞がったのは牛鬼だ。なんだチミは、みたいなことを言っているのだと思う。幸太郎の襟首に向かって手が伸びたと思った次の瞬間、牛鬼の体がスーパーマンの滑空姿勢みたいにふわりと浮かび上がり、そのまま一回転して背中から地面にドスンと叩きつけられた。さいたまスーパーアリーナ辺りまで響いたんじゃないかと思うくらいすごい音がした。
呆気にとられているぬりかべをさつきは見逃さなかった。
ホームランバッターの素振りみたいに左足を水平に振り、つま先をぬりかべのみぞおちにめり込ませる。堪らず腹を押さえ、下がった顎にまたもや見事なハイキックがヒット。ぬりかべはぬりかべらしく大きな音を立ててその場に崩れた。
「いやいやいやいや、驚いた。君、本当に強いんだね!?」
駆けつけた孔明は声を裏返して驚嘆した。
「さつきさん、すごいっす」
ずれたマスクの穴から細い目を覗かせ、幸太郎も親指を立てる。
「いや、ホントたいしたもんだ。ほら、幕末に男装した女剣士がいたろう。お前も殺されかけた。あれよりすごいんじゃないか?」
そう言ったのは長光だ。尾は一つなので孔明以外には猫の鳴き声にしか聞こえない。
「だから言ったでしょ?私は強いって!」
「それより君、得意になっている場合じゃないよ。あれだけ大きな音がしたんだ。誰か見に来ないとも限らない。手分けしてさっきの階段下まで彼らを運ぼう」
異論はなく、幸太郎がぬりかべを、孔明と美徳が牛鬼を、さつきと笹倉エミリが沙悟浄をなんとか運んだ。三人ともまるで目を覚ます様子はなかったが、一応台車の上に乗っていた虎柄のロープで手足を縛っておいた。それでやっと安心したのか美徳が初めて「あの……、あなたたちは……」と、もっともな疑問を口にした。
「まあちょっと待って。今はここから離れることが何より先決。……うん、こうなったらあの人に助けてもらうより他ないね。ね?幸太郎くん」
そう言って孔明に視線を送られた幸太郎は、先ほどやっとマスクの脱げた顔をこすりながら、にわかに顔色を曇らせた。
「あの人ですか……」
「そう。幸太郎くん、電話して」
「はあ……」
みんなに背を向け、少し離れてスマートフォーンに顔を寄せる幸太郎は先ほど大男を投げ飛ばしたような元気はなく、心なしか身長も縮んだ気がする。
「どうしたの?幸太郎。急に元気なくなったけど」
「うん、たぶんね、助けを呼ぶ相手のことが怖いんだと思う」
「怖い?一体誰を呼ぶの?」
孔明が口を開く前に幸太郎が戻ってきた。
「繋がりました。たまたま本人が近くにいるそうで、五分ほどで来るって言ってました」
「おや、そう。なんだか神懸かってるね。今日は誰も降りてきてもらってないんだけれども」
「ね、幸太郎、誰が来んの?」
「で、あなたたちは一体……」
「先生、僕、先に帰っちゃ駄目ですかね?」
「探偵さん、ねえ、探偵さん」
「皆さん静かに!」
孔明は人差し指を自分の口に押し当てた。笹倉エミリが先ほど騒ぎのあった場所を指している。そこには懐中電灯の光が一つ、人魂のようにゆらゆらと揺らめいていた。
やはり。すごい音だったもんな。
ライトが逆光になりハッキリとは確認できないが、わざわざ一人で懐中電灯を持って確認に来るくらいだから教師なのだろう。
全員が口を閉じ、息を潜めた。本当なら警察を呼んでもらって沙悟浄たちを突き出したいところだが、今それをすると美徳まで捕まることになる。ましてや笹倉エミリと美徳以外の人間はこの学校からすれば部外者であり、なおかつ三人が気を失って寝転がっているとなれば、今ここで見つかっていいはずがない。
左右に動いていた光が狙いを定めたようにピタリと止まった。壁に張り付き息を止め、孔明は心臓の動きすら止めんとばかりに自らの襟元をぎゅうと握った。緩い光が孔明の足下まで届いている。完全に狙いを絞ったのだろう。光はもう左右に振れることなく、孔明の足下で小刻みに揺れながら光の輪を少しずつ大きくしていった。
すでに孔明の頭のなかは見つかったときの言い訳で一杯になっていた。「道に迷って」「で、学校の中に!?」「友達がたおれちゃって」「学校の中で?三人いっぺんに!?」一向に考えがまとまらないまま、もうダメだと思ったその時、バターン!と大きな物音がした。工事中の看板が倒れたような音だった。
「コラー!お前の仕業かぁ!」
新任の教師だろうか。若い男の声だった。足元のライトは、サッと方向を変え、足音と共に勢いよく遠ざかって行った。
「助かった……、みたい……」
孔明がそう呟くと、全員が深い海の底から上がってきたように大きく息を吐き出し、その場に座り込んだ。
寸の間、放心していると長光が戻ってきて言う。
「へへっ。たまには人間をからかってやるのも悪くないもんだな」
尾は分かれておらず、孔明以外には猫の鳴き声にしか聞こえなかったはず。それでも長光の行動で助かったことは全員が理解したらしく、「タマちゃん、ナイス働きだよ!」と孔明が言うと、拍手もせんばかりの視線をみんなが長光に向けた。長光本人もさつきや笹倉エミリに頭や喉を撫でられ、満足そうである。
と、そこへグラウンドの金網越しに車のライトが見えた。一台はマフィアが全面防弾で乗っていそうな、真っ黒くて厳つい戦車のごとき車。他にも高級そうな、やはり真っ黒いセダンの車が二台。それらがゆっくりと裏門に近づき、静かに止まる。どん!どんどん!打ち上げ花火の音にも似た重厚なドアの開閉音が立て続きに響き、黒いスーツの男が三人現れた。そのうちの一人が戦車の後部座席を恭しく開けると、そこからやはり黒いスーツの女が降りてきた。黒髪を後ろで束ね、厳格そうな黒ぶちの眼鏡、棒で突き刺したように背筋を真っ直ぐ伸ばし、正面を見つめる。部下らしき男が裏門を開けると、ハイヒールの音に意思の強さを滲ませ、車のライトを背にこちらへと歩み寄ってきた。
その異様なまでの威圧感に美徳とエミリは全身をこわばらせ、さつきは拳を握りしめた。
「大丈夫。味方だよ」
孔明がそう言うのとほぼ同時に黒いスーツの集団は孔明の前に並んだ。中央には眼鏡の女。
「ご無沙汰しております」
そう言って頭を下げた腰の角度はきっちり四五度。
「お久しぶり、詩織ちゃん。変わらないね、君は」
「いえ、先生ほどでは」
そのまま表情を一ミリも変えず、視線だけをゆっくりと右へ移動させた。視線の先には大きな体を無理矢理高校生たちの背後に隠し、なんとか気配を消そうとしている幸太郎の姿が。
「ウチの幸太郎はお役に立っていますか?お邪魔になっているようでしたらすぐにでも他の人間と交代、或いは引き上げさせますが」
「姉ちゃん……」
幸太郎は美徳の肩越しにひょっこり顔を出し、困った表情を見せた。
松下詩織は幸太郎の姉というだけでなく、会社の人間としても幸太郎より遙か上の立場。世襲経営はしない、と数年前宣言した松下グループに置いても出世を重ねる実力者である。幸太郎にしてみれば頼れる姉でもあり、怖い上司でもあるのだ。
「いやいや、先ほども大活躍したところだよ。ねえ?幸太郎くん。それより詩織ちゃん、あまり目立ってもらっちゃ困るんだけどね。ほら、あの車だけでも十分厳ついのに全員が帝愛金融みたいな黒いスーツでさ」
「あら、そうでしたか、失礼しました。お得意様で慶弔行事がありましたもので」
「あらかたは幸太郎くんから聞いてる?あ、そう?じゃ、とりあえず車に乗せてもらおうか」
その言葉を合図にそれぞれ動き出し、孔明、詩織、幸太郎、美徳がセダン、笹倉エミリとさつきがもう一台のセダンで家まで送ってもらうことになり、アヤカシの三人は戦車に押し込んだ。
美徳は知らない人間に囲まれ、まだ体を強張らせている。
「悪かったね、怖い思いをさせて。まさかここまでの事になるとは思わなかったんでね」
孔明がそう言うと、美徳はその綺麗な顔を少し上げて孔明を見た。運転手は男手が必要な戦車の方に回したので幸太郎が運転し、助手席に詩織が座っている。
孔明は手を伸ばし、美徳の胸元にぶら下がっているお守りの巾着袋を開けて中から金色の龍のアクセサリーを取り出した。こんなファッション性のかけらもない巾着袋を素直にそのままぶら下げているところに、この少年の生真面目さが現れている。
孔明は手のひらに金の龍を乗せ、美徳の眼前に差し出しながら言った。
「勾陳。闘争を司る凶将。裏切りも呼び込むからね、頼んでおいたの。何かのきっかけになればいいなあ、と思って。もう必要ないから引き取るね」
「はあ……」
理解が追いついていないのか、口を半開きにしたまま顔は孔明の方を向いているが、視線はどこを捉えているでもない。「あ」。それでも一つだけ確かな事実を思いついたらしく、ようやく視線が孔明の目を捉えた。
「じゃあ楓さんは……」
「そう。私の古くからの知り合い、私は探偵で君のお母さんから依頼されてね。そしたら偶然にも楓さんの店に君らが現れたって言うからさ」
「母さんが……。でも探偵の調査料って高いんじゃ……。そんなお金すらウチには……」
「まあその辺ウチは激安探偵だからね。『業務用探偵』とか『タンテ・ホーテ』みたいなキャッチフレーズで今後売り出そうと思うんだけど、どう?」
「いや、分かんないっす」
「だよね」
それから少しの間、沈黙が続き、それぞれ窓の外に視線をやる。日はすっかり沈んでいるが、街には車のライトや店の明かり、街路灯などが辺りを照らしており、孔明のよく知る真っ暗闇はどこにもない。今さら昔の生活に戻れと言われてもごめんだが、たまにあの静かで不気味な夜を懐かしく思う事もある。
「ところでこれ、どこに向かえばいいんですか?」
「は?あんた、知らないで走ってたの!?」
詩織は膝上のノートパソコンから目を離し、運転席に顔を向けて目を丸くした。一瞬だが姉の顔になったな、と孔明は思った。
「どこでもいいよ。とにかくこの件が解決するまで美徳くんたちを匿ってほしいんだ。ホテルでもマンションでも、なんなら君たちん家でもどこでもいい。一応あとからお母さんも迎えに行ってもらうから」
「分かりました、手配いたします」
「さすがだね、詩織ちゃん」と、孔明が言っても詩織は振り返りもせず「いえ」と短く返事をするだけである。これでも子供の頃は幸太郎と同じく「孔明おじちゃん、孔明おじちゃん」と言ってずいぶん懐いてくれたものだ。松下家では孔明の正体を明かすのは子供が十四歳になったとき、と決めているそうだ。武士ならば元服するくらいの歳。幸太郎が超常的な存在の孔明を面白がり、より傾倒していったのに対し、詩織は思春期も重なって徐々に距離を取り始めた。しかも高校、大学と理系の道に進み、科学で説明できない信じられない話しと、信じざるを得ない目の前の現象に挟まれ感情が歪んだようでもあった。それでも言葉を喋る猫、という特異な存在の長光のことはある程度受け入れているように見える。あれ?そういえば長光どんは?と言うと,さつきと笹倉エミリの車に乗り込んで、そのまま松下家に送ってもらい泊まっていくらしい。まさか向こうの車で尾を二つに分けてべらべら喋りまくってるんじゃないだろうな。もしも長光が人間の男だったらどんなプレイボーイになっていただろうと、恐ろしくすらある。
「あの……」
美徳が弱々しい顔で口を挟む。まだ一度も安心した表情を見せていないが、無理もないだろう。
「有り難いんですけど、そこまでやってもらうわけには……。お金もないですし、何より借金を返すために母だって仕事を休むわけにはいかないでしょうし……」
「あー、それね。大丈夫、大丈夫。君んちがお金借りてるとこ、だいだら金融でしょ?以前君んち行ったとき郵便受けに督促状が入ってたの見てさ。なーんか聞いたことある名前だなーって思ってたの」
「先生、それって……」
幸太郎がミラー越しに孔明を見やる。その目の色は何故か笑いを堪えるような少し意地悪な雰囲気を含んでいた。
「少し前にね、別件でその金融屋入って借用書とか全部燃やしちゃったの。だからね、もう返す必要はないの」
「はぁ…、いや、でも…」
話が飲み込めず、なお食い下がろうとする美徳を孔明は手のひらを差し出して強引に制した。
「まぁまぁ、今まで大変な思いしたんだから少し休暇をとると思って。お母さんの仕事先もちゃんと休職扱いになるよう話つけるからさ。しかしやっぱり反社会的な組織は怖いよね。抜けるって言っただけで追われるんだ?」
「あ、いや、それだけじゃなくて……」
そう言って美徳はスボンのポケットに手を突っ込んだ、が、そこで一度動きを止める。この場にいる人間を果たして信用していいものかどうか、迷っているようであった。やがて意を決したようにゆっくりとポケットから手を出す。
「これなんです……」
「これって……、パソコンのあれだよね?UUFO?USJ?」
「先生、さすがにわざとですよね?」
「泳がせなさいよ君、渾身の現代ジョークなんだから」
美徳はピクリとも笑っていない。
「何が入ってんの?それ」
指先で鈍く黒光りするそれは、まだプラスチックという材質にいまいち慣れていない孔明にとって、ひどく不気味なものに見える。
「今まで騙した人の名前と住所と電話番号、それから金額。あとはこれから電話を掛ける予定の電話番号のリストです」
「すごいね、きみ!ずいぶん思い切ったね!」
孔明は心底驚き、思わず声量が一段階上がる。
「僕も……、自分にこんなことが出来るだなんて……」
詩織ちゃん、お願いできる?助手席の詩織にUSBを手渡すと、詩織はすぐさま膝上のノートパソコンに差し込み、キーボードをカチャカチャと叩き始めた。
「しかしこういった犯罪組織ってクラウドは使わないんですかね。そっちのほうが証拠は見つかりにくいと思いますが……」
キーボードを叩きながら詩織が呟く。独り言のようにも思えたが、どちらにしろ孔明には何を言っているか理解できず、答えることはできない。
「やっぱりこっちのほうが証拠隠滅しやすいんじゃないの?いざとなりゃ全部壊せばいいし、復元するにしても時間掛かるだろうからその間に高飛びするなり余罪の証拠隠すなりできるだろうし」
答えたのは幸太郎であった。まあ僕も犯罪、パソコン、両方素人だから分かんないんですけどね。と付け加え、ねえ、先生?と孔明に振る。「だよね」とだけ答えたところでキーボードを叩く音が止まった。画面を見ながら詩織がうん、うんと頷いている。
「どう?」
「確かに。被害者の証言と合わせればかなり有力な証拠になると思います。ただ、これだけではどれくらい上の人間を引っ張れるかは不明瞭ですね」
「僕……、自首します。自首して全部話します。元々そのつもりだったし……」
美徳が絞り出すように言った。声は小さいが強い決意が滲んでいる。
「まあまあ。慌てて自首したってさ、向こうは受け子が捕まる事くらい想定内だよ。とにかく沙悟浄たちが目を覚ましたら彼らから話を聞くよ」
再び沈黙が戻り、孔明は窓から夜の空を見上げる。弟の晴明は天文が得意だったと聞く。今も星は出ているようだがビル群が邪魔をしてよく見えない。最も見えたところで、天文で個人の吉凶を見ることなんてできないから意味ないんだが、と、自嘲気味に薄ら笑いを浮かべると、窓の反射越しに美徳と目が合った。孔明は慌てて腕を組み、深く考え事をするふりをして目を閉じた。