第1話 わたしのボティがない?
『あなたのボディはバベルから失われました』
真っ白な深い霧に包まれた世界でこう言われたら、あなたのボディは仮想世界“バベル”では完全に消えてしまったことを意味する。
バベル、それは旧約聖書にある、神に近づこうとした人が作った塔の名。22世紀、その名を冠した量子人工知能が生み出したこの仮想世界には、今や世界で数十億人を超えるプレーヤーが暮らしている。
バベルは、人の見る夢の一部として認識されている。寝るときにつける指先の小さな器具から、夢の一部を世界中の人たちと共有している仕組みだ。そして、バベルの世界で生きているもう一人、それが“ボディ”だ。
バベルでのボディは人族だけでない。エルフ族、ドワーフ族、ホビット族、精霊族、魔族などといった空想や伝説に出てくる様々な種族が存在し、ゲーム性のあるファンタジーな剣と魔法の世界で、多くのボディが冒険や生活をしている。
冒険や戦いの多いバベルでは、ボディが傷ついて死んでしまうことも多い。
そのためにバベルは、蘇生できる機会や方法を数多く用意していた。しかし、稀に蘇生のできない条件が揃ってしまうと、“ロスト”としてボディを失ってしまうことがあるのだ。
それがわたしが、今見ているメッセージの状態なのだ。
バベル歴7年。
実際の感覚としては、もっと長くあの世界で生きてきたような気がする…。
現実で寝ればバベルに、バベルで寝れば現実に、二つの世界はどちらも表裏一体の大切な世界となって生活してきたからだ。
二つの世界を生きて混乱がないのは、夢の記憶を現実では覚えていないように、バベルの記憶はバベルのボディの中だけにあり、二つの世界の記憶は共有されない仕組みとなっているからだ。つまり、ボディのロストは、大切な記憶のロストになってしまう。
『新しいボディを作成しますか? はい・いいえ』
わたしは視界の中に浮かび上がったコンソール上の言葉を見つめ続けた。
コンソール…それはバベルでの機能や状態を確認するための操作パネルで、バベルでの特徴のひとつだ。
『300・299・298・297・296…』
無情にもバベルは無機質にカウントダウンを開始した。
「はい」を選べば、前のボディの属性と近い新しいボディが提供される。失われる直前までの経験値、所持金、装備などは救済措置として引き継げる。ボディにあった記憶は残念ながら失われる。
「いいえ」を選べば、現実へと戻る。次にバベルにダイブすれば新たに初期化されたボディで、バベル人生を再スタートする。
『203、202、201、200、199…』
そして画面の右下には赤文字で小さく「ワイルドカード」のボタンが出現している。
過去にロストしたボディのいくつかを、バベルが残した由縁不明な個体である…と聞いたことがある。赤文字(機能不能)で選択できないが、どんなボディが眠っているかはバベルしか知らない。
『160・159・158・157・156…』
カウントダウンが終われば強制ログアウトだ。
それにしても…なぜ? バベルでは蘇生魔法があり、高位な魔法使いや僧侶がいれば蘇ることができた。わたしのパーティには術者もいた。そして蘇生アイテムもあったはずだ。仲間たちは、わたしを置き去りにするような人たちでもない。
もしかすると蘇生できない事態に陥ったか、一瞬でパーティが全滅したのか…、あるいはその両方だったのかもしれない。
本当の理由は、バベルに戻り調べるしかない。前のボディの名前だけはハッキリと覚えているからだ。
『30・29・28・27・26…』
あと30秒しかない。選択しないと、すべてが失われしまう…。
そのとき気がついた。コンソール右下にある『ワイルドカード』という文字が白く光って選択可能となっていることに…。残りは10秒しかない。
これが選べる…そして、説明が表示された。
『バベルで失われた“影向のボディ”を救うことができます』
???
“影向のボディ”…それは、どんなボディなのだろうか?
どこに戻り、どんなボディなのか? それが問題だった。むこうのわたしは、どんなわたしになっているのだろう?
『5・4・3・2・1』
わたしはまるで吸い込まれるように、その文字を選択した。
わたしの周りが白く光り出し、バベルへの転送が始まった。バベルの世界に意識が落ちていきながら、声がささやいた。
「ありがとう」
確かに、そう聞こえた。
そして、バベルに戻ったとき、もう一つのわたしの人生は…傷だらけでボロボロなボディの持ち主として始まったのである。