大事の前には小事があるものです。
「今回のは随分、骨が折れそうねぇ…」
太陽神の威勢もやや落ち着いたか、野を渡る風に爽やかさを感じる季節になっていた。その報告書に目を通したメティス・ネミ・ヴァレンティーノは、儚くも妖艶な月夜花に喩えられる美しき相貌に憂いを含ませる。”森の国”ネミで豊饒神の巫女とその伴侶たる国王のもとに生を受け、叡智の女神の名を与えられ、大国ヴァレンティーノの王妃として辣腕を振るう彼女の頭脳は幾通りもの悪い事態を瞬時に弾き出した。
想定される被害を減ずるための方策や、それらにかかるリスクとコスト。
混乱に乗じて跋扈するであろう魑魅魍魎どもの力を削ぐ手段。
制御不能な複合災害、二次災害の発生の予防。
最善が得られなければ次善、それも無理なら三善を。その時どきで出来うる限りを尽くすのが信を得て民を導く長の務めである。ネミの王家の家訓は、メティスにも脈々とたぎり流れている。そして恐らくは、ネミの血を色濃く引く愛娘にもーー。
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「大きいものが、こう。ず、ず、ず、とずれるような?落ちるような?感じでしたの」
メティスによく似た少女が身振り手振りを交えて深夜に感じた異常を訴えたのは夏も盛りの日だった。
初夏から晩秋までは王国の社交シーズンで、通常の公務に様々な大事小事が加わる多忙な時期である。そうした事情をよく知る娘からの「お支度のいとまにでも、お時間をいただきたく存じます」と面会を求める手紙に応じて母娘の茶会を設けたのは、我が子可愛さもないでもなかったが、自身によく似た娘ディアーナが、己は決して持ち得なかった豊饒神の巫女の力を継いでいることを識っているからだ。
ーー豊饒神の巫女は、大地と共鳴するーー
ネミの王家が代々女系で継がれるにも拘わらず女王として立たず、巫女としているのは、その体が豊饒神の依り代とされるためだ。彼女たちは神意を語り、民を守る存在とされている。
メティスには生まれもっての聡明さと剛気さがあったが、巫女の素質は持たなかった。それでも祖母や母、実姉たちなど血の繋がった女性たちが、感度に差はあるものの、自然災害や異常気象の前触れを一様に感じ取る姿をみてきたために、それがいかに優れた力であるかを知っている。ネミ以外では「気のせい」と一蹴されたり、一笑に付されるような些細な感覚が、実は大災害の前兆であるかもしれない。そう思えばこそ、メティスはディアーナの"へんな感じ"を如何なるときも優先させてきた。
「それは、この地図でいうとどちらの方角だと感じていて?」
「えぇと、そうね。ここだわ」
本来は茶道具などを載せる可動式ワゴンに広げた王国の地図に、ディアーナの細い指がついと伸びる。迷いなく指し示した場所は、王国領の最北端。隣国との国境に悠々とその身を横たえる龍のごときそれはーー。
「カルパート山脈…」
呟くメティスの声は、震えていた。