国王さまは旅に出ています。
国王ヒュペリは王家の紋が入った豪奢な馬車に揺られ、北に向かっていた。黒漆に金箔で精緻な絵柄が描かれた王妃愛用の文箱が膝の上で重々しい存在感を放っている。
「陛下のお命を狙う者がわざわざ王都にやって来るのですから、その隙に本拠を平定なさいまし」
「建国以来300年の悲願を叶えるは、だんなさまを置いて他に居りませんわ。なによりも、妊娠出産を他人事とする殿方の多い中、義娘の苦しみを我が事とし敬虔に祈るお姿はなんと尊きことでしょう」
王国の負の歴史を背負わせてきた公爵家を切り捨てることを決めたあの夜。夫婦の寝室で、甘やかな声が耳元でそう囁くのが、とろりとした意識の中で聞こえたのは覚えている。だから今、ヒュペリはここに居る。
「どうしてこうなった…」
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国王として判断を下したヒュペリの口許に、メティスはそっとメレンゲ菓子を当てた。条件反射のようにそれを受け入れると、唾液でしゅわりと溶ける。
「カルパーティ公爵家に艱難辛苦の道を負わせたは王家。それであるのに公爵は善き心を持つ、善き友であった」
好物なはずのメレンゲも今はカサカサと味気なく、心を癒してはくれない。
「公爵とその子らが居らなんだら、余は息子を喪っていただろう。メティス、そなたが来る前の余は国王であるが、父ではなかった」
温かく甘い湯割りを幾ら飲んでも体が震える。教会で懺悔すことも、声をあげて慟哭することも国王には許されない。威厳を見せつけ、反乱や侵略を防ぐのが国王に課せられた枷であった。
「あぁ、お優しいだんなさま。公爵家を憂いていらっしゃるのね」
柔らかな圧力が国王を包む。人肌の温もりと規則正しい鼓動はひたすらに優しく、ヒュペリは静かに涙した。
「ねぇだんなさま。わたくし、皆にとって良い考えを思いつきましたの」
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古の怪物を、王妃メティスは“伝染病”と表現した。過激であればあるほど他者への感染力が強く、現状に不満を持つ者や己を特別視する者を取り込んで勢力を拡大させる。やがてその力に利を見出した権力者が出資者となれば感染は国内はおろか大陸全土に広がり、行き着く先は戦争だ。
「公爵と長男のお二人には表向きお亡くなりいただき、王家と縁の深い次男が家督を継いでカルパーティ公爵家、いいえ、カルパート山脈と古の怪物の関係を断ち切るのです。お二人は表向きは事故死、領民には古の怪物の暴走を止めるためと流せば公爵家は悲劇の英雄、アレらは非道な反逆者」
聖地カルパート山脈と紐付けされているからこそ、古の怪物は彼ら自身を特別な者とし、己の活動を正当化してきた。そこを断つことで“神龍の遣い“から”不埒な無法者”に引き摺り下ろす。それが王妃の策であった。
ヒュペリは文箱をそっと撫でる。
「王妃のカルパーティ入りはスケジュールNGで国王ならOKて、余の存在意義、軽くない?」
すんなり決まった公爵領入りに、よほど声を大にして言いたかったが、ヒュペリはそれを口にするほど愚かではなかった。




