現出と衝突 その1
授業が終わったあとは、僕は相も変わらずセレナと共にいる時間がほとんどだった。
妖魔とかいう化け物に狙われやすくなるとの事だったが、僕は1度もあれから化け物とは出くわしていない。
「なぁ、そろそろ四六時中、僕についててくれなくてもいいんじゃないの? そっちも自分の生活があると思うし」
「妖魔に受けた霊傷は外見上は治ってても、どんなに早くてもこんな短期間で治ったりはしないのだよ。だから完全に治るまでは私が護衛をしてあげるってわけ」
ちょっと自慢げに彼女は言った。
彼女の話によると、霊傷というのは、生き物の内に持っているオドって言うエネルギーの塊みたいなのが傷つけられることで、その傷口からオドが溢れ出てしまうものらしい。
妖魔は人間のオドを狙って襲ってくる。そのため霊傷は早く治るに越したことはないのだが、治るスピードは本人の資質によるとのことだ。
彼女の元に人型の何か模様が描かれた紙片が飛んでくる。彼女はそれを手に取った。
『一般住宅街、第3地区ニ妖魔反応アリ』
紙片から機械的な声が聞こえる。
「ほうら! 出てきた!」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「あっ、えーと。えへへ」
なにが「えへへ」だ。誰かに危険が迫ることが起きたことに、誇らしげかと思えば、恥ずかしがる。やっぱり彼女は少し感覚がずれている。自分が言えたことでもないかもしれないが。それはともかく、その危険な状況を解決できる人材がここにはいる。
「向かわなくていいのか? だから連絡がきたんじゃない?」
「うん。でもキミを1人にするのは――」
「僕のことはいいから行ってきなよ。これでも逃げ足には自信があるんだ」
彼女は逡巡したようだが、少しして納得したようにうなずくと、
「よーし! じゃあ素早く片付けてすぐ戻ってくるよ!」
と飛び出すように駆けていった。
戻ってこなくても大丈夫だと思うけどな。そう思いながら近道である路地裏に入っていった。
しばらく歩いていると前方から光が差し込んでくる。路地の終わりが見え、住宅街へと抜けた。
もうすぐ家に着くな。やっぱり僕には何も無かったじゃないか。
そう思った次の瞬間、それは来た。
目の前で土煙が舞い、少しの間、視界が塞がれる。煙が晴れて現れたのは、4足のケモノの形をした、明らかにこの世ならざるものの姿だった。黒い霧のようなものを纏い、口と思われる部位からはねっとりと唾液が垂れている。
己の心臓の鼓動が早くなるのを感じ、落ち着かせるためか、無意識に深く息を吸う。
彼女がいない時に限って現れてしまった。こうなれば大人しく逃げつづけ、彼女が来るのを待つしかない。
「命懸けの追いかけっことか嫌だな!」
そうは言っても、妖魔は待ってはくれない。黒い獣はその進路上の万物を喰らい尽くすかのような顎門を開く。そして前足を伸ばして姿勢を低くし、頭を下げてお尻を上げる体勢をとった。犬で言えばプレイバウと呼ばれる体勢、その意味は、
「遊びたいってか? その見た目で全然笑えないね」
野生の獣は目線を外した瞬間に襲ってくるというが、獣が圧倒的に強い力を持っている状態にそれは当てはまらない。体高が3メートルに迫る巨体をもつ妖魔の方が、この場では圧倒的な強者である。
後脚を蹴り、顎門を開けたまま、まるでブルドーザーの如く舗装された道路を抉りながら、こちらに突撃してくる。
僕は反射的に左に飛び退いた。間一髪、避けることができた。直線的な突撃でなければ、今頃、妖魔の腹の中だっただろう。
「これなら少しは持ちそうだ」
右手のデバイスを操作し、駿足を発動する。これは毎回受けてしまう罰則を少しでも楽にするためのオリジナル魔法である。
魔法陣に無駄があるのか、発動操作に時間がかかるのがキズだが、いざ発動さえしてしまえば、動くのに邪魔な空気などの要素を身体が触れた瞬間に切り裂くことができる。もちろん普段の生活で邪魔と思うことはない程度の小さな要素しか切り裂くことはできず、攻撃的な威力は持ちえない。しかし、例えば空気抵抗が無くなるだけでもかなり身体が軽くなる。
罰則中に使っているのがバレればズルになるのでライブラリには登録していないが。
「今回は使う暇があったな」
「オォルルララアアアァ!!」
妖魔が喉を鳴らすような咆哮をかます。その空気の振動も僕の体に触れた瞬間に拡散していく。
よし、これで逃げ続けられる。そう思い後ろへと振り向き、逃げる体勢に入ると、数メートル先に小さな女の子が立ちすくんでいた。
「なんでこんな時に!」
さっきの衝撃で様子を見に来てしまったのか。
妖魔がその存在に気づいたのか、邪悪に口角を吊り上げる。
あの子は恐怖でその場に足が固められたかのように動くことができないでいるようだ。その怯えた顔が記憶の中の誰かと重なった気がした。それが誰だったのかは靄がかかったように思い出せない。
どうする、あの子を庇いながら逃げる余裕も実力も僕にはない。なぜこんなにも都合が悪いことが重なるのか。なぜ僕は目の前の女の子を助けることもできないほど非力なのか。
妖魔は女の子へとその距離を縮め、獲りやすい喰い物を見つけたのが嬉しいのか喉を鳴らす。完全にターゲットが僕からあの子に切り替わっている。今なら僕はあの黒い獣から逃げ切ることも容易いだろう。
僕の考えを他所に、妖魔はその体躯を縮めたかと思うと、少女へとしなやかな跳躍をし、喰らいつこうと襲いかかった。