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補遺 がんと死の追想 5健康と死

健康と死

 わたしはそんなに元気な子供ではなかった。風邪をひいたり、腹をこわすことも多かった。わたしのもっとも古い記憶に、丘の上の療養所に入院していた記憶がある。窓から見ると眼下に蒸気機関車が煙突から煙をはいて走っていたことを思い出す。わたしのそばには母親がいた。あとから聞くと、その記憶は、わたしが幼稚園に上がる前に、疫痢に罹って入院していた時の記憶だ、ということがわかった。わたしはいまでもおなかに自信がない。

 小学校に上がってからも、胸のレントゲン写真で影があると言われ、再検査を受け、様子を見ようということになり、両親を不安にさせた。3人兄弟の中で、病気で騒がせていたのは、わたしだけであった。

背は低く、がりがりに瘦せていた小学生のわたしだが、夏休みは毎日プールにいき、真っ黒に日焼けして、徐々に元気になっていった。色が黒かったこともあり、親からは「ビアフラの子供」とアフリカの飢餓難民のように呼ばれていた。

 高校1年生の夏休みの頃、腎炎になって宇部市にある山口大学医学部付属病院に1か月くらい入院した。大阪で万博があった年である。腎炎は、慢性の扁桃腺の炎症を治療してもらう際に、検査で発見された。夏休みに家族全員で万博に行く予定があったので、扁桃腺炎の治療は万博から帰ってからにした。幸運にも、しっかりと万博を見ることができた。その点、わたしも能天気であった。

 山口大学病院に入院すると、6人部屋は全員腎炎の患者だった。わたしが一番若く、みんなからかわいがってもらった。楽しく入院生活を送っていたが、なかなか治らないのが腎炎であった。長く闘病生活をしている人もいた。その一人が「15、16、17と私の人生暗かった」と、当時大ヒットしていた藤圭子が歌う『圭子の夢は夜ひらく』の一節をつぶやいた。わたしはまもなく15から16になろうとしていた。藤圭子の硬質の声が深く心に沁みた。なぜか暗い歌は心が浄化されるのだ。よく知られたことであるが、宇多田ヒカルは藤圭子の娘である。二人ともそれぞれが生きた時代のミューズとなった。

 腎炎で入院すると、医者から過激な運動をしてはいけないというお達しがあり、それからしばらくの間体育の授業は見学することになった。そして医者から肉体労働のような仕事についてもいけない、ということを言われ、当時のわたしは将来肉体労働の仕事を選択しようと思ってはいなかったが、自分の将来の選択肢が狭められたようで、寂しく思った。いずれにしても腎炎は完治したわけではなかったが、退院することになった。腎炎であることは、しばらく意識の中で引きずり、それから徐々に忘れていくことになった。

 いずれにしてもわたしは心の中にひとよりも肉体的に劣った人間であることを深く刻み込むことになった。運動をしていても、勉強をしていても、仕事をしていても、遊んでいても、何をするにしても、体が壊れるかもしれない、とブレーキをかけることになるのである。それを自分が怠け者であることの言い訳に使ってきたのかもしれない。この強いブレーキが、自分の生き方に大きく制限を与えてきたと思うが、それは単なる自分への甘さなのだろう。いずれにしても、わたしはわき目も振らず精一杯頑張った経験がない。体に自信がないのだ。

 35歳の時、わたしはA型肝炎に罹り、山形大学病院に1ヶ月入院した。黄疸が出て体は真っ黄色になり憔悴して動く気力もなくなった。ベッドに横たわっているわたしに向かって主治医が「大丈夫です。劇症肝炎になっても総合病院ですから、きちんと対処できますから」と言ってくれた。わたしは劇症肝炎になったら死ぬことを意味しているのだろうと勝手に解釈したが、あれほど恐れていた死の恐怖は不思議なほどまったく起こらなかった。気力体力共に、死に抗う力が残っていなかったのだ。

 この時の体験を通して、気力体力に満ち溢れた若者が、死を恐れることは当然であり、老衰によって気力体力がゼロになっていけば、死を受容できるようになるのだろうと思うようになった。歳を取って老衰で死ねる人は幸せなんだ、と理性的に理解した。もちろん死の恐怖が理性だけで取り除けるとは思っていない。死神は予告もなく突如としてドアをノックする。その時に、理性的に恐怖心をコントロールできることはないだろう。でも、そうした不条理な死に立ち向かえるのも、理性しかない。それと再び隠れキリシタンになるだけなのだ。死という不条理の前では、理性と隠れキリシタンは両立するのだと思っている。


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