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補遺 がんと死の追想 3死のイメージ

死のイメージ

 子どもの頃のわたしをずっと恐怖に陥れていた死のイメージは、いったいどのようなものであったのだろうか。わたしが抱いていた死は、わたしの存在が物質的にも精神的にも何もなくなるイメージだったように思う。死んでしまうと、遺体から魂が抜けていき、自分の死を嘆き、遺体の周りで嘆き悲しんでいる両親や兄弟や友達がいて、それを魂となった自分がどこかで見つめている、というようなイメージはなかった。死んで天国に行くイメージもなかったし、天国に行くことが幸せだとも思っていなかった。子供の自分にとっては、いつまでも現世の方がいいのだ。

 死に対するわたしのイメージは、死んだ瞬間にわたしの生きた証はどこにもなくなるのだ。わたしが両親から生まれたことや、学校のクラスにいたことさえ、すべての人から忘れられるのである。もちろんわたし自身もこの世に存在したことを忘れてしまう。わたしがいなかったことで何の違和感もない時間が刻まれるのである。このように、私が抱いた死は無のイメージであった。

 わたしが死を恐怖したのは、肉親が悲しむことではなく、自分が動かない遺体になり、焼かれて骨になることでもなかった。ただ、自分がこの世にいたことが何もなかったことにされてしまうことにつきるのだった。

 大学生になって、フォークシンガーの加川良がとつとつと歌う『鎮静剤』という曲を知った。作詞は20世紀前半のフランスの女流画家マリー・ローランサンで、それを堀口大学が訳し、加川良が曲をつけて歌った。

 『鎮静剤』は、ひたすら哀れな女を手繰っていく詩であるが、詩は、「死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です」で終わる。マリー・ローランサンは一番哀れなのは「忘れられた女」だと言う。別に女でなくてもいいのだろうから、男も含めて人間一般の中で一番哀れなのは「忘れられた人」なのだろう。

 この詩は一人の女の人生を物語っているのだろうか。つまり、生きていると不幸が雪だるま式に増幅していき、最後に死んで、その後時間が経つとともに忘れられてしまうのだ。人は死ぬと、早い遅いの違いはあっても、死んだ人の思い出はだんだん希薄になり、いつか忘れられる。わたしは忘れられることが哀れなこととは思わない。自然の摂理であって、死んだ人の記憶が残された人たちの頭の中をずっと占有したならば、残された人は悲惨だと思えるからだ。それ以上に、永遠に忘れてもらえない人も、不幸だと思うのだ。

 もう一つの解釈として、自分が一番哀れだと嘆いている群集の中から、賢者が、一番哀れな女を言い当てようとしているようにも思える。そこでも、一番哀れな女は忘れられた女なのだ。忘れられるとはそんなに悲惨なことなのだろうか。わたしもたくさんの人と出会い、そのほとんどの人たちを忘れていった。申し訳ないと思うが、忘れている。同じように、わたしも過去に出会った人たちに忘れられているだろう。それを哀れなどと同情されることはない。

 本当は、忘れられるだけまだましなのだ。世の中には、だれの記憶の片隅にも残らずに、死んでいく人もいるだろう。そうした人たちに比べれば、一瞬でも覚えられていて、いつか忘れられることは、決して不幸なことではないように思う。

 何十年経っても、忘れられないことと、忘れたくないことがある。それは愛し、愛された人たちだ。その人たちのことは、死ぬまで忘れたくないし、その人たちに忘れられたくもない。しかし、それもわたしが死ぬまででいい。わがままであることは十分承知な上である。

 過去に愛した人を、男は「名前を付けて保存」し、女は「上書き保存」するという話を聞いたことがある。男は未練たらしく過去の女を想い続け、女は新しい彼氏ができると、それまでの男はきれいさっぱりと忘れるというのである。そのような傾向があるのかもしれないが、みんながみんなそんなわけではないだろう。

 少し脇道にそれたが、わたしが子供の頃に抱いた死の恐怖は、他人に忘れられることよりも、自分が生きていたことを忘れてしまうことだ。コンピュータでオールクリアのボタンを押したように、瞬時に過去の履歴は消え去ってしまう。そんな虚無感がわたしを覆いつくし、恐怖にかられ、布団の中で隠れキリシタンとなって、神に祈ったのである。

 いまの自分は、子供の頃とそう大きく死のイメージが変わったわけではない。死は無だ。だが、わたしが死んだら周りの人たちは、それなりにわたしの死を悲しみ、わたしとの様々な思い出を持って生活していくことだろう。この世にわたしがいなかったということにはならないだろう。わたしが死ぬと世界がなくなるようなイメージは、あまりにも自己中心で、世界に生きるすべての人々に対して失礼であると思えるからだ。世界はわたしが造り出しているわけではない。

 子供の頃に抱いていた死への恐怖は、おとなになるにつれ薄らいできた。鈍感になったといった方が正確かもしれない。それは生きていくためには仕方のないことだ。もう一つ、死への恐怖が薄らいだのは、死んで自分が無に帰しても、それは別に悲しむ事でもなんでもなく、単なる自然の摂理だと受け入れられるようになったからかもしれない。人間だけでなくすべての生きとし生けるものが死ぬ。これほど確かなことはない。それから逃れることはできない。だれも死を2度経験できないし、死を経験したことはない。経験していないからと言って恐れることはない。

 ただ、死ぬその時まで生きていくことだ。


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