第九章 現在の生活 九ー5滝のような汗
滝のような汗
平成28年の夏の暑い日。かれの研究室をノックすると「はい」という返事が返ってきたので、ドアを開くと目の前にパンツ一丁のKが椅子に座っていた。
「いったいどうしたの。これじゃ、裸の王様だよ。女子学生が入ってきたら、セクハラだと訴えられるよ。頭がおかしくなったんじゃないの。」
「いや、歩いてきたら汗だくになって、いま濡れたものを脱いでパンツ一枚になって、汗を拭いているところなんだ」
「それにしても、「はい」っていう返事はないんじゃない。返事されたら誰だって入ってきて、びっくり仰天するよ」
年中快適な温度の病室にいるとわからなかったが、退院して、夏が訪れると、第5肋骨の下側から滝のようにどっと汗が流れ出ることがわかった。だが、いつでも汗が出ているか、と言ったらそうではなく、暑くても全く汗がでないこともあるのだ。出始めると、ダムが決壊したように、衣服をびしょびしょに濡らすまで出るのだ。つまり適度というものがないのだ。発汗のスイッチは、オンとオフしかなく、砂漠状態が続いた後に、凄まじい勢いの集中豪雨が降るのだ。空は晴れわたっているのに、かれは一人集中豪雨に会い、着替えをしなければならない。夏の間中、かれはデイバッグに着替えを持ち歩くようになった。
一方、第5肋骨から頭の先までは、いくら暑くてもまったく汗が出ないのだ。これはこれで気持ちが悪いものである。汗をかき、蒸発する発汗作用によって涼しくなる。それが身をもってよくわかるようになった。そこで、顔や胸は時々濡れたタオルで拭いてやり、体にたまった熱を逃がすようにしている。
どうしてこういうことになってしまったのか。かれはこれも肺がんの手術の後遺症だと考えている。切除した3.5cmの神経網の中に自律神経が含まれていて、それでうまく発汗ができなくなったと考えている。胸椎を再手術する原因となったのは、急激な血圧低下による転倒だったが、この血圧低下も薬の副作用だけでなく、自律神経の切断によることが大きいと、かれは考えている。
一時の激しい血圧低下の症状は、いまは治まっている。とすると、発汗を制御する自律神経系も修復してくるのかもしれない。すると異常な発汗もそのうち治まるのかもしれない。ゆっくりと待つことにしよう。時間が解決してくれるはずだ。そもそも、いくら汗をかいたって、それで死ぬことはない。ましてや、童話の世界じゃないんだから、自分の汗でおぼれ死ぬことはない。着替えを持ち歩けばすむことだ。少しおくさんの洗濯の回数が増え、また頭が上がらなくなるけれど。
いくつの夏を乗り越えれば、汗の異常気象は治まるのだろうか。




