第九章 現在の生活 九ー3歩くこと
歩くこと
平成27年5月に第一回目の肺がん手術をした時、Kは一時的に歩くことを忘れてしまったが、リハビリのかいもあって数か月後には歩けるようになった。そうかと言って、第一回目の手術から二年経ち、普通の生活をしている現在においても、元気な頃とまったく同じようには歩けていない。
平成27年11月に長期入院したY大学病院を退院して、12月から一人で大学に出勤するようになったが、しばらくは自宅の近くのバス停からバスを乗り継いで、あまり歩く必要もないルートで大学に通った。冬なので雪道を歩いて転ぶのが怖かったこともある。
冬が明けた平成28年4月から、電車とバスを乗り継いで大学に出勤するようになった。自宅から最寄りの駅までおよそ600mの距離があるが、健康な時は6分くらいで歩いていたのに、4月の頃は杖をつきながら25分もかかった。5月には杖をつかなくなり、8月には20分で歩けるようになった。駅まで歩くようになって一年経った平成29年3月には、10分で歩けるようになった。随分回復したものである。
歩くのがしっかりしてくると、バスの接続が悪いことに耐えられなくなってきた。これまでは40分近くの接続時間は、周りの店を見て回ることで時間をつぶしていた。そろそろそうしたことにも飽きたので、平成29年3月になって片道1.2kmの距離を毎日往復歩くようになった。歩くようになってから、悔しい思いをわたしにぶつけてきた。一体何だと思ったら、「歩いていると若い女の子にスタスタっと抜かされる」というのである。屈辱的だというのである。わたしが「じじいには抜かされないの?」と聞くと、「それは大丈夫」と答える。「それならば問題ないじゃない」とわたしは返すのである。
そう言えば、わたしだって若い女の子に追い抜かれている。いや、考えてみると、そもそもかれほどわたしは歩いていない。日々1kmも歩くことはないだろう。必要に迫られて、大学の構内を少し歩く程度である。かれよりもよっぽど不健康な毎日を送っている。しかし、わたしだって健康を考えているので、わたしの研究室がある5階までエレベータを使わずに階段を毎日歩いて登っている。わたしと一緒に歩いている時は、かれも5階まで階段を歩く。どうみても、かれの方が一日の運動量が多い。
最近、かれは歩きすぎて膝が痛くなったと言っている。歩く距離を少なくすれば回復するだろう。
もう一つのかれの悩みは、走れなくなったことである。走るのを忘れてしまったというのである。つまり両足を同時に地上から離して前に進むことができないというのである。危ないから、専門家に教えてもらった方がいいだろうということで、同僚の体育の教員に相談すると、走るよりも歩くことの方が体にいいから、この際だから歩くことを極めたらいいと言われた。歩くのを極めるとはいったいどういうことなのだろうと思うが、Kは走ることをあきらめたわけではない。Kはいつか走れるようになるのだろうか。




