第一章 がんの発見 一の8 がんの宣告
がんの宣告
平成27年2月9日月曜日、Y市は最高気温が0.8℃、最低気温が-5.8℃、一日中雪が降って寒い日だった。この日、検査入院しているKから19時9分にメールが入った。
「こんばんは。今日、第二外科から呼ばれて、脊椎と食道の間に直径5㎝の腫瘍があることが告げられました。転移性のようです。明日ペットCT。結果待ちです。取り敢えず現段階でわかっていることです。大学の係長には長期入院の可能性を伝えました。入試関係は無理だと思いますので、よろしくお願いします。」
「いっぱい食べて、病気に勝て。」
「了解です。とは言っても、病院食ですからねえ。なんだかんだ仕事を理由に、外出願いしますか(笑)。」
このメールの中では、「脊椎と食道の間の腫瘍」とあるが、この部位は縦隔と呼ばれる部分である。縦隔は医療関係者以外ほとんどなじみのない用語であろう。もちろんわれわれもそれまで知らなかったし、Kから何度聞いても頭に残る言葉ではなかった。
縦隔は、「特定の臓器の名称ではなく、胸膜によって左右の肺の間に隔てられた部分を指し、心臓、大血管、気管、食道、胸腺、リンパ節、神経節などの臓器が存在する場所を指す。(一般社団法人日本呼吸器学会)」だそうだ。
とにかく、Kの脊椎と食道の間の縦隔組織に「がん」ができ、それが第2と第3の胸椎にまで転移していることが判明した。
この時、Kは縦隔組織のがんを写しているレントゲン写真を見て、その内部が空洞になっていることに気づき、この空洞になっている理由を医者に聞いた。医者の答えは、中心から外に向かってがんが増殖しているが、内部は血管が発達していかなかったので、栄養や酸素が供給されず、死んでいったのだろう、というものだった。かれはこの説明を聞きながら、自分の体の中でがん細胞が死んでいるならば、自分はがんを治すことができ、死なないのかもしれないと強く思った、と後に語っている。かれが長い闘病生活に希望を持って過ごせることになった基盤の一つがここにある、とかれは言う。
かれの話を聞いて、がんの宣告を受けると同時に、それを克服できる根拠を自分なりに見つけることは、重篤な病気に立ち向かっていく患者には絶対に必要なことではないか、と思った。かれの場合、それを自分で見出したが、科学者でもない普通の人たちは、自身で勝手な思い込みを見つけることは難しいだろう。そこは医者が提示してあげる必要があるのだろうと思う。医者はどんな患者にも、希望を与えて欲しいと思う。
2月9日、かれにがんの宣告がなされた。それまで口に出すことをためらっていた言葉が、これから幾万回と口から出ることになるだろう。だが、言葉をためらってはいけない。ためらうと、病気や気分が一層重々しくなってしまう。Kに面と向かっても、何気なく軽妙に「がん」という言葉を使っていこう。
ところで、今とは違って、われわれが若かった数十年前には、患者は医者から直接にがんの宣告を受けることはほとんどなかった。一般的には、がんは不治の病で、余命幾ばくもないという認識が国民全体に浸透していたからだ。がんの宣告をしてもいいかどうか、ということが世間でよく話題に取り上げられた。人生の幕引きに当たって、やらなければならないことがあるので、直接宣告して欲しいという人もいたが、本人に知らせずに、患者には穏やかに最後の時を過ごして欲しい、という考えが一般的であった。周囲からも気が強いことで知られ、がんになったらキチンと伝えて欲しい、と周囲の人たちに常々言っていた医学部の教授が、がんの宣告を受けた瞬間、卒倒した、というまことしやかな話を聞いたことがある。このようにがんの宣告は死神からの死の宣告に等しく思えるほどで、本人には告げないことが一般的であった。そうした時代が長く続いた。
しかし、時代は知らない間に一変した。家族が病院の片隅や自宅で集まって、本人に告げるべきかどうか、ひそひそ話をすることなしに、患者が「気持ちの整理がつきました。宣告してもいいですよ」と言わないのに、医者は他の病名と同じように「がんです」と本人にあっけらかん(実際はあっけらかんとではなく、深刻さはあるのだろうが、死の絶対的な重みに対してはあっけらかんと思えてしまうのだ)と告げられるのである。もちろん重々しく宣告して欲しいと思っているわけではない。このあっけらかん、という感情移入をしないくらいが適当なのだろう。
たしかに、この数十年の間に、医療は格段に進歩し、がんも不治の病でなくなった。それでも一般市民にとっては、がんの宣告は死神が近づいてきた気配を感じさせることに間違いはない。回復を前提とする一過性の風邪や怪我とは質的に違う様相を呈しているのである。




