第八章 心筋梗塞の治療 八ー1風邪をひいた
第八章 心筋梗塞の治療
風邪をひいた
平成28年11月末の昼間、いつものようにわたしの研究室にやってきて、お茶を飲みながら「Oさん、ここ数日バスを降りてから大学に歩いてくるのが、とても苦しくなったんだ。教養坂(Y大学のキャンパスの中にある小さな坂を誰言うともなく「教養坂」と呼んでいる)を登るのも、息が苦しいんだ。東京に行って風邪を引いてしまったようなんだ。それが尾を引いて、喘息みたいになっているんだ。肺に痰が一杯詰まっているみたい。昨夜も寝るとき、呼吸が苦しかった」と訴えてきた。かれの日常的な痛みは、胸の筋肉と神経の痛みだ。他にも痛みはあるのかも知れないが、わたしに訴えることはない。かれが苦しいという言葉を吐く時は、本当に苦しいのだと思う。何度も言うように、かれが痛さや苦しさに尋常ならざる耐性を持っていることをわたしはよく知っている。
わたしはゼミで使っている英語で書かれた分厚い生物学の教科書を取り出して、気管支収縮のメカニズムを、図を使ってかれに説明した。かれはわたしの説明に一つひとつ頷きながら聞き入った。「うん、よく分かるよ。こんな原理をお医者さんは教えてくれないからね」と言ってとても喜んだ。かれのうれしそうな顔にわたしも満足した。自然の原理を探求し、それを理解し、学生たちに理解させることを大学の自然科学者は生業としているのである。
「今やっている他人の論文の審査を早く終わらせ、家に早く帰って、医者から風邪薬をもらうことだね。がんは治っても、気管支が収縮して呼吸不全で死んだらバカみたいじゃない」と言うと、「うん、そうする」と答えて気持ちが晴れやかになったように部屋を出ていった。
しかし、その日、かれの研究室の明かりは夕方の6時を過ぎても灯っていた。その日のうちに病院には行かなかったのだ。こうした大事なことを先延ばしにするのも、かれらしいのである。




