第七章 肝臓がんの治療 七の9 通院路での理科実験
通院路での理科実験
芭蕉のような詩人ではなく、自然科学者であるKは日々通院路を観察しながら歩いた。かれにとってなかなか楽しい時間になっていった。シナサワグルミの大きな街路樹があり、たくさんの実(種子)がついている。この実には長さ2㎝の翼が左右に一つずつついている。シナサワグルミの種子は翼で風に乗り、遠くに飛んでいって、分布を広げる「風散布」と言われている。しかし、タンポポの種子のように遠くに飛んで行けるようには思えない。種子が重すぎるのだ。翼は、せいぜいヘリコプターの羽のようにくるくる回って、種子が地面に軟着陸するのを助けているのではないかと考えられる。そこでかれは、台風一過の強風が吹きすさぶ路上で、①青い実,②しっかりとした実が入っている乾いた茶色の実,③あまり実が入ってなさそうな軽い乾いた茶色の実を拾い集め、これらを落として、その変化を観察することにした。すると、③は見事にくるくる早く回転しながら落ちていった。なかには風で飛んで行ったものもあった。だが、種子が入っていないのだから、いくら風で飛んでも分布を広げることはできない。種子の入っている①と②の二つはあまり回転せずに、真下に落下した。翼の役割は地面への激しい衝突を防ぐ程度だと思えた。このお手軽な実験の結果は、「風散布」仮説を否定しているが、科学者としては厳密な実験が必要なことはわかっている。
シナサワグルミは名前に「サワ」がついていることからも、自然状態では道路沿いではなく沢沿いにたくさん生えている。人間が街路樹として植えているだけなのだ。沢沿いに生えていることから考えると、実についている2つの翼は風に乗ることや、地面への軟着陸に役立つというよりも、川の中の流れに乗ることや、水の浮き沈みに利用されているのかもしれない。翼は浮きの役割をして、下流まで運ばれて分布を広げるために役立っているのかもしれない。はたまた、沢が木切れなどでできた自然のダムに、うまくひっかかる役割を翼は果たしているのかもしれない。もしダムに引っかからなければ、海まで流されてしまうかもしれない。海で発芽することはできない。この「水流散布」仮説を確かめるには実験が必要である。さらに、種子が川に流されて分布を広げるならば、時間が経つとどんどん今いる場所よりも下流に分布するようになる。実際はそんなことはないので、上流にも種子は運ばれていると思われるのだが、それはどのようにして行われるのだろうか。動物によって運ばれるのだろうか。そんなことを考えながらウィークリーマンションの一室で一人物思いにふけっていた。科学者の楽しい時間である。
Kは専門の地質学だけでなく、生物が織りなす様々な自然現象を楽しむことができる。まるで進化論を唱えたダーウィンのようだ。ダーウィンは地質学者でありかつ生物学者でもあった。ダーウィンが生きた19世紀の中頃は、学問は細分化していなくて、地質学や生物学は一体となって博物学とよばれていた。Kを歴史上の大学者のダーウィンと比べると、ダーウィンに申し訳なく思うが、博物学者である点では似ているだろう。
シナサワグルミはクルミの仲間である。クルミの仲間には、シナサワグルミの他にサワグルミ、オニグルミ、ヒメグルミなどがある。Y県は巨木の王国である。サワグルミの巨木がY市やS村、ヒメグルミの巨木がO村に存在する。巨木には長い年月生きてきた老木として、どこか神秘的な威厳がある。人間も長く生きていたら神秘的な威厳に行きつくのだろうか。それとも樹木のように千年近くを生きていないとそうした風格は出てこないのだろうか。百年という時間は、泰然自若の域に達するのには短か過ぎるのかもしれない。