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第六章 腹部大動脈瘤の治療 六の5 誰か腹部大動脈瘤の治療をしてよ

誰か腹部大動脈瘤の治療をしてよ

 こうして、肝臓がんの治療の前に、腹部大動脈瘤の治療が避けられないことが明らかとなった。1年前に肺がんが見つかった時に、同時に見つかった腹部大動脈瘤が、生命の差し迫った危機として一挙に浮上してきた。最初に見つかった腹部大動脈瘤の直径は5㎝だった。それがいまでは7㎝になり、いつ破裂しても不思議ではない状態になっていた。

 大動脈瘤の直径を5㎝とか7㎝と言われても、実感がわかないだろう。そこで比較のために調べてみると、ゴルフボールの直径が約4.3㎝で重さが約45gである。発見された時が5㎝だというので、ゴルフボールよりも大きいが、それほどの違いはないだろう。5㎝はそれほどびっくりすることもないかと思う。だが、7㎝というのは、硬式テニスボールの直径が6.54〜6.86cmで、硬式野球ボールの直径が7.29cm~7.48cm、つまりテニスボールと野球ボールの中間の大きさである。これが腹の中に入っているのだから、想像しても大きい。こんなに大きかったならば、物理的に他の臓器の負担になっているのではないかと思う。それをかれに尋ねると、腸を押して便通が悪くなっているような気がすると答えた。さもありなんと思った。ちなみに硬式野球ボールの重量は141.7- 148.8gだそうだ。

 心臓の拍動が大動脈瘤に伝わり、どっくどっくと脈動しているという。この大きな脈動を、心臓の心筋と呼ばれる立派な筋肉ではなく、血管平滑筋という薄っぺらな筋肉が支えているだけなのだ。わたしは想像するだけで、いつ爆発するのか怖くなってしまうが、かれにそうした恐怖はまったくないようだった。(少しは怖がれよ)

 入院中に何人もの看護師がかれの腹部大動脈瘤に触って楽しんでいたそうだが、わたしも触ってみたい好奇心にかられたことはあったが、触った瞬間に爆発したら、という心配の方が大きかったので、触らせてくれとは言えなかった。わたしは腹部大動脈瘤を触らずに終わることになった。よかったようで、残念だった。

 腹部大動脈瘤の存在を忘れていたのはわれわれだけでなく、医者たちもその厄介さから、意識的に忘れようとしていたのではなかったか、と思ってしまう。かれはこうした事態においても、毎日普段通りに大学に来ていた。かれが研究室に閉じこもっていると、腹部大動脈瘤が破裂して死んでいるのではないか、と心配するようになった。


「大動脈瘤が破裂したら、誰にも知られずに死んでしまうんだろうね」

「破裂したら、薄れる意識の中で「Oさん、Oさん」と助けを呼ぶ時間くらいあるんじゃないの」

「でも大きな声は出ないんじゃないの。きっと声が小さくてぼくの部屋まで届かないよ」


 と、この頃まだ、かなり能天気に腹部大動脈瘤の破裂を話題にしていたが、シリアスな状況であることは間違いなかった。かれが研究室の灯りをつけ忘れて帰った時、同僚が研究室から漏れ出る灯りを見て、中で死んでいるのではないかと心配になり、マスターキーを借りて研究室の中を、恐る恐る点検したことがあった。

 T大学の医者からY大学で腹部大動脈瘤の手術をしてもらうように言われてきた、とY大学の医者に話すと、手術して失敗するよりは手を付けない方が得策だ、とKを絶句させるような答えが返ってきた。さらにかれにとって踏んだり蹴ったりだったことがある。T大学の医者にすすめられて、腹部大動脈瘤の手術が終わったらすぐに陽子線の治療ができるように、肝臓がんの患部にマーカーを挿入するために入院の予約を入れておいたのだが、Y大学の医者によってそれが勝手にキャンセルされてしまったのだ。医者が言うには、腹部大動脈瘤の手術ができないのだから、「陽子線治療は無駄だろう」というのである。かれは憤慨してこのことをわたしに訴えた。かれはこのことを今でも根に持っている。根に持つことが少しずつ増えていった。

 Y大学の中で複数の診療科や医者にかかっても、誰の口からも手術という言葉は出てこなかった。

さすがに能天気なかれも、死を表示する砂時計の砂が残りわずかになり、そして急速に落ちていくように感じられた。そんなに難しいことではないはずだ。砂時計をひょいとひっくり返すように、腹部大動脈瘤の手術を引き受けます、と誰かが言ってくれればいいだけなのだ。Kはそれくらい単純に考え、一方で、医者たちはかなりの恐れを持っていたようだ。そこに素人とプロの違いがある。それと同時に、死を背負い込んだ当事者と、どこまで親身になっても当事者ではない者との間に、越えることのできない深い溝が存在する。


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